上 下
6 / 41
The sweet little thing that everyone has a hunger to have

しおりを挟む


 その男が現れたのは、モモセが目を覚ましてから体感で半刻ほどがたった頃だった。モモセは泥のような気だるさを持て余しながら、身体を床に預けていた。砂まみれの床にいつまでも頬をつけて転がっていたくはなかったが、指一本すら動かせない。自分の所有物だとはとても思えないほど、あまりにも身体を起こしているのはつらかった。

 ついでに身体中の汗腺を塞がれたような不快もまた、身体の中には存在していた。どんな要因であったにせよとりあえずは緊張が取り除かれ、睡眠をとったのだから多少なり心身の働きは向上していてもよさそうなものだが、逆に悪化の一途を辿っている。まるでつま先からどんどん地中に引き込まれていくよう。

 モモセはだらしなく四肢を弛緩させて、極力動かないようにしていた。僅かでも動けば、それだけで強烈な不快感が喉を突き上げた。

 それがベゼルを封じられたからだと申し訳なさそうに教えてくれたのは、クテイだった。目線だけをのろりと投じてみれば、なるほど、ただの鉄製の手枷とは別に、モモセの両腕にはぼんやりと灰色の円環ハルファが浮くもう一組の手枷が新たに掛けられていた。ホヅミのものだ。

 ベゼルは生きていく上で最も大切な要素だ。誰にせよ、どんなものにせよ、無機物であろうとベゼルはその内を循環している。その流れが停滞させられる結果に待っているのは慢性的な死だった。

 ホヅミはモモセが覚醒したときに『買い手を見繕っている』とわざわざ言ってきたことから殺すつもりはないことは判断できるため、恐らく先ほどのように暴走されてはたまらないということだろう。

 だがあれはモモセとしても予想外だった。マザリモノの不可触民である己が、不完全とはいえ円環ハルファを出すことができるほど能力に優れているとは思わなかった。二種類の異なるベゼルの波紋を刻む不可触民は、基本的に純血種より能力が低く産まれる。むしろ、生まれること自体が難しく、流れることがほとんどだ。モモセは幸いにも人の器を獲得することはできたが、体内のベゼルすら制御できないため、いままで完全な人型になったことすらなかったのである。

 しかしそのことを告げたところで枷を外してもらえるなどと甘い考えを持っていたわけではないので、モモセはそのままの状態で転がっていた。これからの自分のことを考えると果てしない絶望感に苛まれそうな気がしたために、思考は常に中途半端な場所を漂流した。気をつけて生きてきたつもりだったのに、最終的にはこのざまだ。

 そうしているうちに、それまで分厚い紙の束を繰りながら壁に背を預けて煙草をふかしていたホヅミが、ふと腰を浮かせた。彼の足元に座っていたクテイも耳を立て、近づいてくる足音を追って閉じられた扉に視線を投じる。
 ややおいて、扉の上部に取り付けられている格子の窓から傍目に見ても分かるほど、焦った男の顔が覗いた。

「ホヅミさん。例の保安局の軍人が、」

 モモセに聞き取ることの出来たのはそこまでだった。必要以上に潜められた声が、獣の耳を持ってしても内容の追及を赦さない。いつもは伏せられている耳を少しだけ持ちあげてみたけれど、疲れてしまったのですぐに諦めた。

 しかし、扉越しに告げられる言葉がホヅミにとってお世辞にも快いものではなかったであろうことは、見る間に殺気を滾らせた背中から容易に想像がついた。

 話は短く、一方的に告げられることにホヅミは相槌を打つだけだった。男が立ち去るのに合わせて、彼もまた出て行った。一度振り返るべくして振り返ったホヅミは、怒りを孕んだ眼差しを隠そうともせずにクテイに浴びせた。彼の咥えた煙草は噛み跡がつき、曲がっている。

 彼は一言も発さなかった。クテイはその憤りを受け、何か彼を怒らしめているのかちゃんと理解していたためか震える拳を握りしめて、目を逸らすことなく受け止める。

 ホヅミは乱暴に戸を閉めて出て行った。クテイはしばらくそちらを見つめ、ホヅミが残した独特の煙の残滓が消える頃に、糸が切れたようにへたり込んだ。本性に戻りかけたのか、一瞬その輪郭が揺らぐ。しかしなんとかそれは回避して、はっ、と短い息をつく。血の気が引いた顔は真っ青になっていた。無理もない、その怒気を向けられた対象ではないモモセですら、一瞬意識を飛ばしそうになったのだから。モモセから見えるクテイの薄い肩は、小刻みに痙攣している。耳はおびえたように伏せられ、尻尾は限界まで膨らんでいる。「――あの、」
 数度試したあと、ようやくモモセは言葉を吐き出すことに成功した。クテイはモモセへと、冷汗に濡れた白い顔を向けた。

「――大丈夫ですよ」

 その顔は泣きたいくせに無理に取り繕った笑みだった。哀しみをその皮膚の下に隠した歪んだ笑みだった。それが失敗していることはきっとクテイも分かっていることだろう。

「もう、大丈夫ですよ」

 呟くようにクテイはそう言う。

 一体何が大丈夫、だと言うのか。憶測を働かせようにも材料が足りず、モモセは緩慢に瞬くに留めた。クテイの頬を辿り、汗がぽたりと床に落ちて、砂埃に濃い色をつける。

 クテイの呼吸がようやくすこし落ち着いたころ、未だ激情を抑えきれていない足音が、けたたましい音を立てて戻ってきた。戻ってきた、と思っていた。

 勢いよく扉が開く。部屋の内側に押す形のものだったため、それは壁にぶち当たり、高音と低音の不快感を催す音域を同時に奏でた。モモセの銀色の尻尾の毛が、驚きで逆立つ。

 立っていたのはホヅミではなく、見知らぬ男だった。先ほどとは違った感情で、身体中の毛がざわめいた。毛だけではない。血が、心が、彼を見つけて瞬間的に歓喜の声を上げる。モモセはどくどくと鳴る心臓の音を、床伝いに聞いた。咥内が異常に乾き、モモセは涙目になって浅く喘いだ。彼を見つめて見開かれた瞳は、今にも涙が零れ落ちそうだ。

「え、」

「何やってやがる」

 巻き舌気味に台詞を発し、ホヅミが男の後ろから現れた。男は黙ったまま、返事をしない。

 時間が経ったからといってホヅミが機嫌を持ち直したかと見ればそうでもなく、むしろ悪化の一途を辿ったようだ。片頬を歪めて彼は舌打ちした。しかし我がごとに懸命なモモセはホズミの一挙手一投足に気をやっているクテイのように、そのことを気にする余裕はなかった。

 男は軍人だった。感じたことのない波紋を彼の中に流れるベゼルは刻んでいて、モモセは何となく貴族階級だろうと判断した。そして途方もなく強いということも感じ取り、疲弊しているモモセの獣の本能はあっけなく男にひれ伏した。強い男にはいままでも出逢ったことがあったけれど、ホヅミだってそうだ、でもこんな風に屈服させられることを悦んでしまったのは初めてだ。

 布一枚を衣服とする最下層のモモセとは違い、男はきちんとした黒い上下揃いの服を纏っている。そしてこの砂漠の国の、強い日差しを避けるための伝統的な白いクーフィーヤ。

 その服には嫌というほど見覚えがあった。大洗流を引き起こす、軍人が着用する軍服。いつも高みからモモセらを見下ろす人たち。大嫌いな奴ら。

 だけどこんなにも、満たされたような心地がするのはなぜ?

 モモセは呆けたように男を見つめていた。押しとどめるつもりもなかった涙が、ぼろぼろと頬を濡らしていく。
 彼も、呆然とモモセを見ていた。時が止まったかのように思われる数拍、引き結んだ唇が戦慄く。




 ――――カナン



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結(続編)ほかに相手がいるのに】

もえこ
恋愛
恋愛小説大賞に参加中、投票いただけると嬉しいです。 遂に、杉崎への気持ちを完全に自覚した葉月。 理性に抗えずに杉崎と再び身体を重ねた葉月は、出張先から帰るまさにその日に、遠距離恋愛中である恋人の拓海が自身の自宅まで来ている事を知り、動揺する…。 拓海は空港まで迎えにくるというが… 男女間の性描写があるため、苦手な方は読むのをお控えください。 こちらは、既に公開・完結済みの「ほかに相手がいるのに」の続編となります。 よろしければそちらを先にご覧ください。

傍若無人な姉の代わりに働かされていた妹、辺境領地に左遷されたと思ったら待っていたのは王子様でした!? ~無自覚天才錬金術師の辺境街づくり~

日之影ソラ
恋愛
【新作連載スタート!!】 https://ncode.syosetu.com/n1741iq/ https://www.alphapolis.co.jp/novel/516811515/430858199 【小説家になろうで先行公開中】 https://ncode.syosetu.com/n0091ip/ 働かずパーティーに参加したり、男と遊んでばかりいる姉の代わりに宮廷で錬金術師として働き続けていた妹のルミナ。両親も、姉も、婚約者すら頼れない。一人で孤独に耐えながら、日夜働いていた彼女に対して、婚約者から突然の婚約破棄と、辺境への転属を告げられる。 地位も婚約者も失ってさぞ悲しむと期待した彼らが見たのは、あっさりと受け入れて荷造りを始めるルミナの姿で……?

義妹ばかりを溺愛して何もかも奪ったので縁を切らせていただきます。今さら寄生なんて許しません!

ユウ
恋愛
10歳の頃から伯爵家の嫁になるべく厳しい花嫁修業を受け。 貴族院を卒業して伯爵夫人になるべく努力をしていたアリアだったが事あるごと実娘と比べられて来た。 実の娘に勝る者はないと、嫌味を言われ。 嫁でありながら使用人のような扱いに苦しみながらも嫁として口答えをすることなく耐えて来たが限界を感じていた最中、義妹が出戻って来た。 そして告げられたのは。 「娘が帰って来るからでていってくれないかしら」 理不尽な言葉を告げられ精神的なショックを受けながらも泣く泣く家を出ることになった。 …はずだったが。 「やった!自由だ!」 夫や舅は申し訳ない顔をしていたけど、正直我儘放題の姑に我儘で自分を見下してくる義妹と縁を切りたかったので同居解消を喜んでいた。 これで解放されると心の中で両手を上げて喜んだのだが… これまで尽くして来た嫁を放り出した姑を世間は良しとせず。 生活費の負担をしていたのは息子夫婦で使用人を雇う事もできず生活が困窮するのだった。 縁を切ったはずが… 「生活費を負担してちょうだい」 「可愛い妹の為でしょ?」 手のひらを返すのだった。

吸血鬼公爵に嫁いだ私は血を吸われることもなく、もふもふ堪能しながら溺愛されまくってます

リオール
恋愛
吸血鬼公爵に嫁ぐこととなったフィーリアラはとても嬉しかった。 金を食い潰すだけの両親に妹。売り飛ばすような形で自分を嫁に出そうとする家族にウンザリ! おまけに婚約者と妹の裏切りも発覚。こんな連中はこっちから捨ててやる!と家を出たのはいいけれど。 逃げるつもりが逃げれなくて恐る恐る吸血鬼の元へと嫁ぐのだった。 結果、血なんて吸われることもなく、吸血鬼公爵にひたすら愛されて愛されて溺愛されてイチャイチャしちゃって。 いつの間にか実家にざまぁしてました。 そんなイチャラブざまぁコメディ?なお話しです。R15は保険です。 ===== 2020/12月某日 第二部を執筆中でしたが、続きが書けそうにないので、一旦非公開にして第一部で完結と致しました。 楽しみにしていただいてた方、申し訳ありません。 また何かの形で公開出来たらいいのですが…完全に未定です。 お読みいただきありがとうございました。

【R18】変態に好かれました

Nuit Blanche
恋愛
ある放課後、光石凛鈴(みついしりりん)は黙っていればイケメンだがヤリチンチャラ男として悪名高い影本竜也(かげもとたつや)に絡まれる。 凛鈴を好きだと言い、無理矢理迫る竜也にはどうやら何か秘密があるらしく…… ヤリチンチャラ男と見せかけた残念なイケメン(変態)に狙われるちょっとオタク寄りの女の子(処女)のお話。ヤンデレかもしれない。 キーワードは随時追加される可能性があります。 無理矢理系の描写を含みますので、苦手な方はご注意ください。 ムーンライトノベルズにも投稿しています。

【完結】何度時(とき)が戻っても、私を殺し続けた家族へ贈る言葉「みんな死んでください」

リオール
恋愛
「リリア、お前は要らない子だ」 「リリア、可愛いミリスの為に死んでくれ」 「リリア、お前が死んでも誰も悲しまないさ」  リリア  リリア  リリア  何度も名前を呼ばれた。  何度呼ばれても、けして目が合うことは無かった。  何度話しかけられても、彼らが見つめる視線の先はただ一人。  血の繋がらない、義理の妹ミリス。  父も母も兄も弟も。  誰も彼もが彼女を愛した。  実の娘である、妹である私ではなく。  真っ赤な他人のミリスを。  そして私は彼女の身代わりに死ぬのだ。  何度も何度も何度だって。苦しめられて殺されて。  そして、何度死んでも過去に戻る。繰り返される苦しみ、死の恐怖。私はけしてそこから逃れられない。  だけど、もういい、と思うの。  どうせ繰り返すならば、同じように生きなくて良いと思うの。  どうして貴方達だけ好き勝手生きてるの? どうして幸せになることが許されるの?  そんなこと、許さない。私が許さない。  もう何度目か数える事もしなかった時間の戻りを経て──私はようやく家族に告げる事が出来た。  最初で最後の贈り物。私から贈る、大切な言葉。 「お父様、お母様、兄弟にミリス」  みんなみんな 「死んでください」  どうぞ受け取ってくださいませ。 ※ダークシリアス基本に途中明るかったりもします ※他サイトにも掲載してます

全寮制の学園に行ったら運命の番に溺愛された話♡

白井由紀
BL
【BL作品】 絶対に溺愛&番たいα×絶対に平穏な日々を過ごしたいΩ 田舎育ちのオメガ、白雪ゆず。東京に憧れを持っており、全寮制私立〇〇学園に入学するために、やっとの思いで上京。しかし、私立〇〇学園にはカースト制度があり、ゆずは一般家庭で育ったため最下位。ただでさえ、いじめられるのに、カースト1位の人が運命の番だなんて…。ゆずは会いたくないのに、運命の番に出会ってしまう…。やはり運命は変えられないのか! 学園生活で繰り広げられる身分差溺愛ストーリー♡ ★ハッピーエンド作品です ※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏 ※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承ください🙇‍♂️ ※フィクション作品です ※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです

貴方にとって、私は2番目だった。ただ、それだけの話。

天災
恋愛
 ただ、それだけの話。

処理中です...