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The sweet little thing that everyone has a hunger to have
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しおりを挟むその男が現れたのは、モモセが目を覚ましてから体感で半刻ほどがたった頃だった。モモセは泥のような気だるさを持て余しながら、身体を床に預けていた。砂まみれの床にいつまでも頬をつけて転がっていたくはなかったが、指一本すら動かせない。自分の所有物だとはとても思えないほど、あまりにも身体を起こしているのはつらかった。
ついでに身体中の汗腺を塞がれたような不快もまた、身体の中には存在していた。どんな要因であったにせよとりあえずは緊張が取り除かれ、睡眠をとったのだから多少なり心身の働きは向上していてもよさそうなものだが、逆に悪化の一途を辿っている。まるでつま先からどんどん地中に引き込まれていくよう。
モモセはだらしなく四肢を弛緩させて、極力動かないようにしていた。僅かでも動けば、それだけで強烈な不快感が喉を突き上げた。
それがベゼルを封じられたからだと申し訳なさそうに教えてくれたのは、クテイだった。目線だけをのろりと投じてみれば、なるほど、ただの鉄製の手枷とは別に、モモセの両腕にはぼんやりと灰色の円環が浮くもう一組の手枷が新たに掛けられていた。ホヅミのものだ。
ベゼルは生きていく上で最も大切な要素だ。誰にせよ、どんなものにせよ、無機物であろうとベゼルはその内を循環している。その流れが停滞させられる結果に待っているのは慢性的な死だった。
ホヅミはモモセが覚醒したときに『買い手を見繕っている』とわざわざ言ってきたことから殺すつもりはないことは判断できるため、恐らく先ほどのように暴走されてはたまらないということだろう。
だがあれはモモセとしても予想外だった。マザリモノの不可触民である己が、不完全とはいえ円環を出すことができるほど能力に優れているとは思わなかった。二種類の異なるベゼルの波紋を刻む不可触民は、基本的に純血種より能力が低く産まれる。むしろ、生まれること自体が難しく、流れることがほとんどだ。モモセは幸いにも人の器を獲得することはできたが、体内のベゼルすら制御できないため、いままで完全な人型になったことすらなかったのである。
しかしそのことを告げたところで枷を外してもらえるなどと甘い考えを持っていたわけではないので、モモセはそのままの状態で転がっていた。これからの自分のことを考えると果てしない絶望感に苛まれそうな気がしたために、思考は常に中途半端な場所を漂流した。気をつけて生きてきたつもりだったのに、最終的にはこのざまだ。
そうしているうちに、それまで分厚い紙の束を繰りながら壁に背を預けて煙草をふかしていたホヅミが、ふと腰を浮かせた。彼の足元に座っていたクテイも耳を立て、近づいてくる足音を追って閉じられた扉に視線を投じる。
ややおいて、扉の上部に取り付けられている格子の窓から傍目に見ても分かるほど、焦った男の顔が覗いた。
「ホヅミさん。例の保安局の軍人が、」
モモセに聞き取ることの出来たのはそこまでだった。必要以上に潜められた声が、獣の耳を持ってしても内容の追及を赦さない。いつもは伏せられている耳を少しだけ持ちあげてみたけれど、疲れてしまったのですぐに諦めた。
しかし、扉越しに告げられる言葉がホヅミにとってお世辞にも快いものではなかったであろうことは、見る間に殺気を滾らせた背中から容易に想像がついた。
話は短く、一方的に告げられることにホヅミは相槌を打つだけだった。男が立ち去るのに合わせて、彼もまた出て行った。一度振り返るべくして振り返ったホヅミは、怒りを孕んだ眼差しを隠そうともせずにクテイに浴びせた。彼の咥えた煙草は噛み跡がつき、曲がっている。
彼は一言も発さなかった。クテイはその憤りを受け、何か彼を怒らしめているのかちゃんと理解していたためか震える拳を握りしめて、目を逸らすことなく受け止める。
ホヅミは乱暴に戸を閉めて出て行った。クテイはしばらくそちらを見つめ、ホヅミが残した独特の煙の残滓が消える頃に、糸が切れたようにへたり込んだ。本性に戻りかけたのか、一瞬その輪郭が揺らぐ。しかしなんとかそれは回避して、はっ、と短い息をつく。血の気が引いた顔は真っ青になっていた。無理もない、その怒気を向けられた対象ではないモモセですら、一瞬意識を飛ばしそうになったのだから。モモセから見えるクテイの薄い肩は、小刻みに痙攣している。耳はおびえたように伏せられ、尻尾は限界まで膨らんでいる。「――あの、」
数度試したあと、ようやくモモセは言葉を吐き出すことに成功した。クテイはモモセへと、冷汗に濡れた白い顔を向けた。
「――大丈夫ですよ」
その顔は泣きたいくせに無理に取り繕った笑みだった。哀しみをその皮膚の下に隠した歪んだ笑みだった。それが失敗していることはきっとクテイも分かっていることだろう。
「もう、大丈夫ですよ」
呟くようにクテイはそう言う。
一体何が大丈夫、だと言うのか。憶測を働かせようにも材料が足りず、モモセは緩慢に瞬くに留めた。クテイの頬を辿り、汗がぽたりと床に落ちて、砂埃に濃い色をつける。
クテイの呼吸がようやくすこし落ち着いたころ、未だ激情を抑えきれていない足音が、けたたましい音を立てて戻ってきた。戻ってきた、と思っていた。
勢いよく扉が開く。部屋の内側に押す形のものだったため、それは壁にぶち当たり、高音と低音の不快感を催す音域を同時に奏でた。モモセの銀色の尻尾の毛が、驚きで逆立つ。
立っていたのはホヅミではなく、見知らぬ男だった。先ほどとは違った感情で、身体中の毛がざわめいた。毛だけではない。血が、心が、彼を見つけて瞬間的に歓喜の声を上げる。モモセはどくどくと鳴る心臓の音を、床伝いに聞いた。咥内が異常に乾き、モモセは涙目になって浅く喘いだ。彼を見つめて見開かれた瞳は、今にも涙が零れ落ちそうだ。
「え、」
「何やってやがる」
巻き舌気味に台詞を発し、ホヅミが男の後ろから現れた。男は黙ったまま、返事をしない。
時間が経ったからといってホヅミが機嫌を持ち直したかと見ればそうでもなく、むしろ悪化の一途を辿ったようだ。片頬を歪めて彼は舌打ちした。しかし我がごとに懸命なモモセはホズミの一挙手一投足に気をやっているクテイのように、そのことを気にする余裕はなかった。
男は軍人だった。感じたことのない波紋を彼の中に流れるベゼルは刻んでいて、モモセは何となく貴族階級だろうと判断した。そして途方もなく強いということも感じ取り、疲弊しているモモセの獣の本能はあっけなく男にひれ伏した。強い男にはいままでも出逢ったことがあったけれど、ホヅミだってそうだ、でもこんな風に屈服させられることを悦んでしまったのは初めてだ。
布一枚を衣服とする最下層のモモセとは違い、男はきちんとした黒い上下揃いの服を纏っている。そしてこの砂漠の国の、強い日差しを避けるための伝統的な白いクーフィーヤ。
その服には嫌というほど見覚えがあった。大洗流を引き起こす、軍人が着用する軍服。いつも高みからモモセらを見下ろす人たち。大嫌いな奴ら。
だけどこんなにも、満たされたような心地がするのはなぜ?
モモセは呆けたように男を見つめていた。押しとどめるつもりもなかった涙が、ぼろぼろと頬を濡らしていく。
彼も、呆然とモモセを見ていた。時が止まったかのように思われる数拍、引き結んだ唇が戦慄く。
――――カナン
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