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不沈艦は紫煙に祝う
各務瀬隆子 2
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銭豆川の川岸で、自称妖怪のスケベな身体をした酔っ払いと一戦交えた。
油断していたわけではないが、あっさりと敗けた。そのとき負傷した右腕のギプスが、取れる日になった。
時間を確認し、病院へ行こうかと腰を上げかけると、部屋の外で重い陶器が割れる音がした。
「どうした」
徹平が隆子の部屋に入ると、今年中学に上がったばかりの弟と、その二つ上の妹がいた。
どちらも義理の弟妹だが、徹平は実の弟妹として接している。
カーペットが敷かれた床に花瓶が割れ、活けてあった切り花が花弁を散らしていた。
「徹平くん」
怯えた妹が、縋るように徹平の名を口にする。
「隆子に、なにか用でもあったのか?」
徹平がどちらにでもなく尋ねると、男子の方が片足で床を踏みつけた。
「捨てられたんだよっ、俺らはっ」
その一言で、徹平はおおよその状況を察した。
施設の職員が二人、遅れて駆けつけてきて、部屋にいた子どもを別々に連れていった。
徹平が割れた陶器の花瓶を片付けていると、ベティが入ってきた。
「事務仕事はできても、隆子の代わりは務まりませんね」
隆子の右腕であるベティは、ここでは施設長の実務をこなしている。
隆子が外の仕事で一、二ヶ月施設を空けるのは珍しいことではなかった。
ただこれまで、夏休みや年末年始などの学校がない期間は、施設にいて子どもと過ごすようにしていた。
「外での仕事が長引いてるのか」
「今回は、仕事ではありません。どうも、ある男と闘って消息不明になったようです。君だから話しますが、裏の界隈では、不沈艦の死亡説がささやかれています」
不沈艦とは、裏社会での隆子の綽名だと、聞いたことがある。
外でどんな仕事をしているか、詳しくは知らない。隆子はほとんど自分のことを語らない。知っているのは、長年隆子に仕えているベティから断片的に教えてもらったことだけだ。
「ある男ってのは?」
窓を開け、部屋の空気を入れ替えようとするベティの背中に問いかける。パーマがかかったダークブラウンの髪が揺れる。アメリカ人のベティは、隆子同様に男顔負けの上背がある。
「ベティさん、私、少し外していいですか」
廊下から、先ほど駆けつけた職員の片方が顔を出す。
「どうかしましたか」
「咲ちゃん、熱があるみたいで。念のため病院で診てもらおうと思って」
徹平はこの部屋で怯えていた中学生の妹の顔を思い返す。確かに顔色が悪かった。
「付き添いなら俺が行くよ。こいつを外してもらいに行く予定だったしな」
徹平はギプスがはめられた右腕を掲げる。職員は判断を委ねるようにベティに視線を移す。ベティは頷いた。
職員から診察券などの必要なものを受け取り玄関に行くと、妹が薄手のパーカーを羽織って待っていた。
職員が呼んだタクシーに乗り、妹と市内病院へ向かった。施設を出るまでは気丈に振舞っていた妹が、車内で徹平と二人きりになるとぐったりとシートに凭れかかった。
「あんまり無理するな」
「来年になったら、徹平くん卒園でしょ。そしたら、私が一番年上になるんだから」
来年になったら高校一年生になる妹が、気負った声で言う。
「難しく考えんな。テキトーでいい。俺がそうだったろ」
妹が見上げてきた。瞳が潤んでいるのは、熱のせいだ、と鉄平は決めつけた。
タクシーが病院の前で停まった。
病院の受付に、見知ったスタッフがいた。半年の間に三度も来ていると、いやでも顔見知りになる。
「今日はこいつを取りに来たんだ。あと、妹の付き添いだ。夏風邪だと思う」
また来たの、と茶化すように言うスタッフに言い返し、受付を済ませてロビーで待つ。先に、妹が呼ばれた。
徹平が一人で待っていると、隣のシートに男が座った。
「こんにちは」
「おう、日限さんじゃねえか。今日退院か」
日限は小ぶりのボストンバッグを抱えている。前に町で見かけたときはスーツ姿だったが、いまはポロシャツにチノパンという恰好だ。
「その腕は?」
「ちょっと骨にひびが入っただけさ。放っておいてもよかったんだけどな。それよりどうするんだい。幽奏会とかいう職場、クビになったって聞いたぜ」
日限は明け透けな徹平の物言いに苦笑いする。
「そうですね。とりあえず、この辺りで仕事でも探すとします。森宮さんへの恩返しも考えないといけないので」
商店街で銃撃された日限は、春香の手当ての甲斐あって一命をとりとめた。
春香は恩を売ったとは考えていないだろうが、なにか返さないと日限の気が済まないのだろう。きっちりとした性格は、七三に分けられた髪型にも如実に表れている。
「大吉が、一度見舞いに来ました」
「ふうん」
九月に入り、学校では二学期がはじまっている。大吉は五日前、羽子あらため珀と、秋久と共に町に帰ってきた。
その日に徹平は、怪我の具合を見に来た大吉から隆子の行方について訊かれた。知りたいのはこちらの方だった。
「私がこの町にしたことは、水に流すと」
「ま、そういう男だよ」
日限にまつわる話は、大吉からある程度聞いている。徹平は日限に桑乃の一件で軽く質疑を受けた。逆にいえばそれだけで、日限とちゃんと話すのはこれがはじめてだった。
「はじめてだ。彼みたいなのは」
「大吉とは、敬語をやめて話すようになったんだろ。俺とも、それでいいぜ」
「そうか」
「というか、俺らの方が年下か」
「君らに敬語で話しかけられたら、雨でも降りそうだ」
徹平が笑うと、日限も肩を揺らして笑った。
受付で徹平の名前が呼ばれた。次いで、日限の名も呼ばれる。
「じゃあ、ま、これからよろしくな、日限さん」
「ああ、よろしく」
日限はボストンバックのベルトを肩にかけ、知的な背中で涼やかに去っていった。
油断していたわけではないが、あっさりと敗けた。そのとき負傷した右腕のギプスが、取れる日になった。
時間を確認し、病院へ行こうかと腰を上げかけると、部屋の外で重い陶器が割れる音がした。
「どうした」
徹平が隆子の部屋に入ると、今年中学に上がったばかりの弟と、その二つ上の妹がいた。
どちらも義理の弟妹だが、徹平は実の弟妹として接している。
カーペットが敷かれた床に花瓶が割れ、活けてあった切り花が花弁を散らしていた。
「徹平くん」
怯えた妹が、縋るように徹平の名を口にする。
「隆子に、なにか用でもあったのか?」
徹平がどちらにでもなく尋ねると、男子の方が片足で床を踏みつけた。
「捨てられたんだよっ、俺らはっ」
その一言で、徹平はおおよその状況を察した。
施設の職員が二人、遅れて駆けつけてきて、部屋にいた子どもを別々に連れていった。
徹平が割れた陶器の花瓶を片付けていると、ベティが入ってきた。
「事務仕事はできても、隆子の代わりは務まりませんね」
隆子の右腕であるベティは、ここでは施設長の実務をこなしている。
隆子が外の仕事で一、二ヶ月施設を空けるのは珍しいことではなかった。
ただこれまで、夏休みや年末年始などの学校がない期間は、施設にいて子どもと過ごすようにしていた。
「外での仕事が長引いてるのか」
「今回は、仕事ではありません。どうも、ある男と闘って消息不明になったようです。君だから話しますが、裏の界隈では、不沈艦の死亡説がささやかれています」
不沈艦とは、裏社会での隆子の綽名だと、聞いたことがある。
外でどんな仕事をしているか、詳しくは知らない。隆子はほとんど自分のことを語らない。知っているのは、長年隆子に仕えているベティから断片的に教えてもらったことだけだ。
「ある男ってのは?」
窓を開け、部屋の空気を入れ替えようとするベティの背中に問いかける。パーマがかかったダークブラウンの髪が揺れる。アメリカ人のベティは、隆子同様に男顔負けの上背がある。
「ベティさん、私、少し外していいですか」
廊下から、先ほど駆けつけた職員の片方が顔を出す。
「どうかしましたか」
「咲ちゃん、熱があるみたいで。念のため病院で診てもらおうと思って」
徹平はこの部屋で怯えていた中学生の妹の顔を思い返す。確かに顔色が悪かった。
「付き添いなら俺が行くよ。こいつを外してもらいに行く予定だったしな」
徹平はギプスがはめられた右腕を掲げる。職員は判断を委ねるようにベティに視線を移す。ベティは頷いた。
職員から診察券などの必要なものを受け取り玄関に行くと、妹が薄手のパーカーを羽織って待っていた。
職員が呼んだタクシーに乗り、妹と市内病院へ向かった。施設を出るまでは気丈に振舞っていた妹が、車内で徹平と二人きりになるとぐったりとシートに凭れかかった。
「あんまり無理するな」
「来年になったら、徹平くん卒園でしょ。そしたら、私が一番年上になるんだから」
来年になったら高校一年生になる妹が、気負った声で言う。
「難しく考えんな。テキトーでいい。俺がそうだったろ」
妹が見上げてきた。瞳が潤んでいるのは、熱のせいだ、と鉄平は決めつけた。
タクシーが病院の前で停まった。
病院の受付に、見知ったスタッフがいた。半年の間に三度も来ていると、いやでも顔見知りになる。
「今日はこいつを取りに来たんだ。あと、妹の付き添いだ。夏風邪だと思う」
また来たの、と茶化すように言うスタッフに言い返し、受付を済ませてロビーで待つ。先に、妹が呼ばれた。
徹平が一人で待っていると、隣のシートに男が座った。
「こんにちは」
「おう、日限さんじゃねえか。今日退院か」
日限は小ぶりのボストンバッグを抱えている。前に町で見かけたときはスーツ姿だったが、いまはポロシャツにチノパンという恰好だ。
「その腕は?」
「ちょっと骨にひびが入っただけさ。放っておいてもよかったんだけどな。それよりどうするんだい。幽奏会とかいう職場、クビになったって聞いたぜ」
日限は明け透けな徹平の物言いに苦笑いする。
「そうですね。とりあえず、この辺りで仕事でも探すとします。森宮さんへの恩返しも考えないといけないので」
商店街で銃撃された日限は、春香の手当ての甲斐あって一命をとりとめた。
春香は恩を売ったとは考えていないだろうが、なにか返さないと日限の気が済まないのだろう。きっちりとした性格は、七三に分けられた髪型にも如実に表れている。
「大吉が、一度見舞いに来ました」
「ふうん」
九月に入り、学校では二学期がはじまっている。大吉は五日前、羽子あらため珀と、秋久と共に町に帰ってきた。
その日に徹平は、怪我の具合を見に来た大吉から隆子の行方について訊かれた。知りたいのはこちらの方だった。
「私がこの町にしたことは、水に流すと」
「ま、そういう男だよ」
日限にまつわる話は、大吉からある程度聞いている。徹平は日限に桑乃の一件で軽く質疑を受けた。逆にいえばそれだけで、日限とちゃんと話すのはこれがはじめてだった。
「はじめてだ。彼みたいなのは」
「大吉とは、敬語をやめて話すようになったんだろ。俺とも、それでいいぜ」
「そうか」
「というか、俺らの方が年下か」
「君らに敬語で話しかけられたら、雨でも降りそうだ」
徹平が笑うと、日限も肩を揺らして笑った。
受付で徹平の名前が呼ばれた。次いで、日限の名も呼ばれる。
「じゃあ、ま、これからよろしくな、日限さん」
「ああ、よろしく」
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