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井ノ上

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老天狗は忘却に奏す

畿一 5

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天逆毎は、外郭放水路に留まっていた。
初弾。珠木が地上で引っこ抜いて担いできた電柱を、槍のように投擲した。
青白く光る身体に着弾する手前で、電柱はぴたりと静止した。撥ね返ってくる。大吉と珠木は二手に分かれた。
畿一はすでに別行動を取り、再封印の準備にとりかかっている。
裸の女の姿をしている、と珠木からは聞いていた。しかし地下へ降りてみると、天逆毎は一枚布を巻きつけたような着物を身につけていた。
着物も、乱れ靡かせる後ろ髪も、幽光ゆうこうを帯びている。
ふいに、天逆毎の光を見失った。地下の放水路は、他に明かりはない。
「大吉くん! 上!」
天逆毎が天井に座していた。逆立った髪が、四方から大吉に襲いかかる。濡女の攻撃を、彷彿とさせる。
大吉は緋扇ひせんで風をおこした。その風に乗り、髪の間を擦り抜ける。
「大丈夫かい」
珠木が肩を寄せてくる。
「間一髪だ。文字通りな」
「ふふ、大丈夫みたいだね」
大吉は冷や汗を拭った。あの髪に掴まっていたら、どうなっていたのか。想像したくはない。
「打ち合わせ通りに、ね」
「わかってるよ。突っ込み過ぎない」
珠木は頷いて、天逆毎に向かって駆けていった。
珠木が前衛を張り、大吉が後方から支援する。あらかじめ決めてあった。
支援の方法は任されている。細かい連携を練る時間はなかったし、即席で呼吸を併せられるほど場慣れもしていない。
珠木がピンチになったら、横槍を入れ、すぐさま離脱する。大吉はそれに徹した。先ほどのように瞬間移動してくる天逆毎相手に、気は緩められない。
珠木は、常に天逆毎の標的を買う動きを見せている。できるかぎり、大吉に矛先を向けないつもりなのだ。
畿一の言う通り、ついてくる意味はなかったのかもしれない。しかし、簫狼族の里での敗けや、銭豆神社での敗けが、大吉を引き返させなかった。
どうでもいいことならいくらでも避けられるし、逃げられる。平穏な日々を望む気持ちは、いまも変わらずある。
一方で、変わったこともあった。
桑乃の一件で、敗けの味を知った。大吉にとって耐えがたく逃れようのないものが、それだった。
敗けを濯ぐには、自分の前に立ちはだかる壁を突き抜けなければならないことも学んだ。
珠木は、天逆毎と正面からやり合わず、ヒットアンドアウェーで翻弄している。極力妖気は絶ち、攻撃に転じる時だけ、妖力を発揮する。妖力を絶つことで、妖気による索敵から逃れている。柱も上手く利用していた。
だが天逆毎も、そうした珠木の動きに馴れはじめていた。
珠木が柱の陰を伝って天逆毎の死角を突いた。見えていなかったはずのその攻撃を、天逆毎が逆手に取った。
回し蹴りを放ったはずの珠木の方が、逆に打撃を受けていた。
力のベクトルの反転。
瞬間移動と重力操作に並ぶ、天逆毎の第三の能力だ。
大きく仰け反った珠木に、振り返った天逆毎が手を伸ばす。捕まった。大吉は夜刀を上段に構えていた。空を裂く斬撃、飛燕ひえん。天逆毎の腕に斬撃が届く。緩んだ手の内から、珠木が脱してくる。
「助かったよ」
「牛鬼を斃した技だぞ。それが、紙でちょっと皮膚を斬った程度の傷しかつけられねえ」
「仕方ない。そういうレベルの相手さ」
「化け物だな」
天逆毎は、腕の内側についた傷を、唇にもっていく。はにかみ、傷を食む。
その笑みに、大吉は気が吞まれそうになった。
「待たせたのう」
畿一の声が地下に響いた。と同時に、天逆毎の足元を突き破り、筍が生えてきた。天逆毎を、地上へと突き上げる。
「私たちも地上に出よう」
「ああ」
珠木は柱を駆け上がり、大吉は緋扇で風を煽り、それぞれ地上に出た。
筍に見えたものは、赤と白の鉄塔だった。ちらほら、白い傘のようなアンテナがついている。似たものを、有楽町でロケをするテレビで見たことがあった。
天逆毎の巨躯が、その鉄塔に磔にされていた。
「太古の軍神より産み落とされし者よ、深き眠りに戻るがよいわ」
天逆毎を正面に臨むビルの屋上に立つ畿一が、見得を切る。
鉄塔が放電した。天逆毎が大きく首を仰け反らせ、髪を振り乱し項垂うなだれた。
「やったかにゃ」
「待て、様子がおかしいぞ」
鉄塔を震源に、異界全体が揺れはじめる。地響きはどんどん強まり、振動は立っているのがやっとなほど大きくなった。
畿一が立っていたビルが倒壊した。方々で、続々と崩壊が起こる。
「こりゃ、やばいね」
珠木が大吉を抱え、大きく跳躍した。
立っていた場所が、外郭放水路に沈下した。まだ無事な場所に着地する。
「失敗だわい」
飛んできた畿一が、翼を畳むなり言った。
「異界が、耐えられなんだ」
「どういうことだ」
「この異界は、古の術士が天逆毎を封じておくために用意したものでのう。いわば、器のような役割を果たしておった」
「古びていた器は、急に注がれた熱湯に耐えられずに割れた。そんなところかな?」
珠木が腰の酒瓢箪を撫でながら訊く。
畿一は小さく頷いた。
「なにかを、代わりの器にするしかない。なにかというより、誰か、ということになるかのう」
「畿一さん、それはちょっとどうかな」
「ここでは他に器となりそうなものはない。外の世界に出れば別じゃが、そうなるとやつの被害は避けられん」
「あたしはそれでも、そっちの方がいいと思うね」
珠木が声を低くして言った。珠木のそんな真面目な声は、聞いたことがなかった。
大吉は、二人のやり取りを黙って聞いていた。
珠木が頑なな態度で畿一の案に反対する理由は、なんとなく察しがついた。
「俺しかいないんだな」
二人が、大吉に目を向ける。
「珠木さんは、酒呑童子って妖で、人を器にしてる身だ。で、爺さんは封印術に手一杯とくれば、ま、あとは俺だわな」
「大吉くんは、わかってない。あんな神様クラスの妖に、人間の身体が耐えられるはずがない。死ぬんだよ、そんなことしたら」
「どうかな。やってみなきゃわからないさ」
大吉は右手に小瓶を取り出した。
フェンガーリンの血の結晶。羽子との闘いで使った残りだった。于静が寄越した小型化された透析装置には、抽出した血を再結晶化させる機能までは付いていなかった。
「いいや、儂が、器役もやる」
畿一が言った。
二人に有無を言わせぬ、意思が籠められていた。
「さきに死ぬのは、年寄りの仕事だ」

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