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老天狗は忘却に奏す
畿一 3
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闇に目が慣れるのを待ち、立坑の横穴に入った。
無数の円柱に支えられた、荘厳な空間が広がっていた。
「酒呑童子、なにしに来た」
天邪鬼が珠木の来訪に顔を顰めた。
天邪鬼の醜悪な面を、青白い大炎が照らしていた。
「あの炎は?」
「天逆毎様だ。ついに、封印が解けたのだ」
高揚した声で天邪鬼が言う。
一軒家ぐらいの大きさがある炎が、輪郭を持ち、裸の女の姿が闇の中に浮かび上がる。
「ふうん、これが天逆毎。一人だと骨が折れそうだにゃ~」
一人で闘うはずではなかった。
天逆毎が封印された異界に潜入し、内側から依頼主を手引きする手筈だった。
数日前から、依頼主と連絡が取れなくなっている。なぜなのか、こちらから探る術はなかった。
当初の段取りとは違くとも、引き返せない状況である。神代の大妖、天逆毎はすでに目の前で復活を遂げた。
珠木は抑えていた妖力を解放した。その妖気に圧され、天邪鬼がたじろいだ。
「貴様なんのつもりだ」
「お仕事よん。天逆毎はここで討たせてもらうね」
「貴様、裏切る気か」
「二重スパイってやつ、映画で観て、憧れてたんだよね~」
Vサインをする。天邪鬼は怒りに肩を震わせる。
「誰の差し金だ」
「各務瀬隆子。言ったってわからないでしょ。くすんだブロンドヘアと淡い色のサングラスがよく似合うヒトさ」
「ちっ」
天邪鬼は珠木に背を向け逃げ出した。水飛沫を上げながら、珠木が入ってきた立抗の方へ走っていく。
「やれやれ、白ける背中だね」
自身の右膝に掌底を打った。衝撃は、脚から水へ伝わり、天邪鬼に達する。妖力を込めた遠当てだ。天邪鬼は雷に撃たれたように痙攣し、水に斃れ消滅した。
顕現した天逆毎は、虚ろな目を宙に向けていた。まだ夢をみているかのようだ。
珠木は悠々と歩み寄る。
相手は天災のごとき妖だ。間合いだなんだと考えても仕方ない。
天逆毎のうなじのほつれ毛が見える距離にまで近づいた。両者の間で、水が持ち上がる。
水の玉に覆われた護摩の木札が、ふよふよと浮かぶ。畿一のオーラが宿っていて、なんらかの術が発動している。
「邪魔よん」
深く考えず、行く手を塞いだ水玉を中指で弾いた。木札ごと割れ、木片から畿一のオーラが霧散する。
同時に、微睡んでいた天逆毎の意識が覚醒した。光の届かない、深い幽谷のような瞳が、珠木を見下ろしてくる。
目が合った。
跳躍した。天逆毎の顎を蹴り抜こうとした脚が空振る。天逆毎の巨躯が、右に移動していた。柱を足場にして追撃する。水平跳びから、手刀を首に叩き込む。また、消えた。二つ奥の円柱の横に、天逆毎は移っている。
「迅いとか、そういう次元じゃないね」
空間を捻じ曲げ、点から点へ移動している。線の動きではない。
「瞬間移動かにゃ」
青白く光る臍で、視界が塞がれた。瞬きはしていなかったが、二柱先にいた天逆毎に詰め寄られていた。距離という概念が、通じない。
天逆毎が諸手で、天に赤子でも掲げるような仕草をする。珠木を中心とした円域内の、重力の向きが反転した。逆巻く水飛沫が身体を打つ。外郭放水路の天井に叩きつけられた。
指一本動かせないほど、重い。妖力を全身に漲らせ、辛うじて薄目を開けた。
影が、被さってくる。地面。挟まれた。天井が砕け、地下から放り出される。
高層ビル群が発する煌々とした光が目に刺さってくる。天地を鏡合わせにしたような二つの摩天楼。砂時計のようなかたちをした異界。
目が回っていた。隕石に縛り付けられて、宇宙に放り出された気分に、珠木は見舞われた。
どこまで飛ぶのか。ひとまず身を任せ、頭の中で天逆毎の能力を整理することにした。
火車に揺られていた。
火車の中はいぐさの織物が敷かれているものの、乗り心地はよくない。
畿一の口笛で、火車は現れた。
天逆毎を再封印しに行くというのに、火車は喜んで畿一を乗せた。大物を乗せて走れるのが、火車の喜びのようだった。
天狗であり、飛行できる畿一ひとりなら、火車を頼るまでもなかった。
畿一は敷物の上に胡座をかき、手元で扇をいじっていた。
黒地に鮮やかな花模様をあしらった、ちりめんの扇だ。扇骨には香木を使っている。
「娘に貰ったものでのう」
「へえ。いい扇子だな。子どもがいたのは、ちょっと意外だ」
髪や髭はきちんと手入れし、身ぎれいな格好をしているが、どこか家族のない独り者のような軽さも感じていた。
火車の物見窓から街の光が強く差し、畿一が目を細めた。
高層ビル群を抜け、街と街の狭間に出る。
この世界に、空はない。四方を街に囲まれた、異様な空間なのだ。
大吉も、扇子を取り出した。
緋色の地紙が張られた、上海で春香がくれたのものだ。
「この扇子も、なかなかだろ」
「うむ、小僧の持ち物にしては良い品じゃな。少し貸してみい」
「ん?」
畿一は大吉から緋扇を受け取ると、緑色のオーラを発現させる。
オーラが、緋扇に宿る。
「儂が分け与えたオーラの分、この緋扇で風繰りができる。お主はそれで身を守ることに専念せぃ」
「爺さん一人でなんとかできる相手なのか、天逆毎って妖は。知り合いの術士から聞いた話じゃ、地球の公転軸を狂わせるほどの力を持った妖なんだろう。災害みたいなもんじゃねえか」
「幻を見せる術を仕掛けてある。復活直後なら、効果はあるはずじゃ」
「その間に、再封印するのか。なんだ、簡単そうだな」
「ふん、儂を誰じゃと思っておる。抜かりないわい」
畿一は得意げに鷲鼻を高くする。
浮遊感が、二人を包んだ。
大吉は物見窓の外を覗いた。出発前には頭上にあった街が、近付いて来ていた。雨が降ったようで、濡れた屋根が見える。こんな場所でどうやって雨が降るのか、大吉には不思議だった。
中間地点を過ぎ、重力が戻ってきた時だった。車が強い衝撃に見舞われた。
火車が横転し、大吉の上に畿一がのしかかってくる。
「流れておる。ビルに突っ込むぞ。どこかに掴まれぃ」
咄嗟に言われても、掴まれる場所などなかった。ガラスを突き破る衝撃。慣性が働き、大吉と畿一は車内から放り出された。
「なんじゃ、真っ暗でなにも見えん」
「簾が絡まってんだ。いて、暴れんな、爺さん」
覆い被さる前簾を払う。ビルのフロアに横転している火車の右の車輪が、ひどいひしゃげ方をしていた。
「なにか横からぶつかってきたようじゃな。猪でも飛び出してきたのかのう」
「山道走ってたんじゃねえぞ。冗談言ってる場合か。おい、誰かいる」
火車の陰に、人が倒れていた。肩が反応を示し、起き上がってくる。
癖毛の黒髪を後ろで束ねた髪型。黒地に金の刺繍が施された拳法着。腰帯に、酒瓢箪をぶら下げている。
大吉は夜刀の柄に手をかけた。
「珠木、さん」
「いてて。およ、大吉くんだ。畿一さんも一緒かい。面白い組み合わせだぁ」
間抜けた調子で言う珠木の左腕は、あらぬ方向に曲がっていた。顔の右半分は、赤黒く腫れあがっている。
「天逆毎に勝負を挑んだら、このざまだよ」
「天逆毎じゃと。覚醒しておるのか。儂が幻術をかけた木札があったはずじゃぞ」
「あ~、あれ、そういう仕掛けだったのね。壊しちゃった、てへ」
「余計なことを」
目頭を押さえ呆れる畿一をよそに、珠木は大吉に歩み寄る。
「二人も、目的は天逆毎みたいだね。あたしも仲間に入れてもらえないかな、大吉くん」
「その前に、言うことがあるだろう」
珠木が敵なのか味方なのかは、この際どちらでもよかった。
天逆毎を相手に共闘したいというなら、受けてもいい。ただその前に、聞かなければならない言葉はあった。
「銭豆神社でのことだね。ごめんなさい。帰ったら、束早ちゃんたちにも謝ります」
率直に謝罪されると、それ以上責める気は湧かなかった。
「なんで、あんなことしたんだ」
「それは道すがら話したいかな。どうだろう、許してもらえるかい?」
「俺は、もういい。束早と靜が許すかは、あの二人が決めることだ」
「そうだね」
珠木が改めて手を差し出してくる。
握手を交わした。
靜の許しを得るのは難しいだろうな、と大吉は考えていた。
無数の円柱に支えられた、荘厳な空間が広がっていた。
「酒呑童子、なにしに来た」
天邪鬼が珠木の来訪に顔を顰めた。
天邪鬼の醜悪な面を、青白い大炎が照らしていた。
「あの炎は?」
「天逆毎様だ。ついに、封印が解けたのだ」
高揚した声で天邪鬼が言う。
一軒家ぐらいの大きさがある炎が、輪郭を持ち、裸の女の姿が闇の中に浮かび上がる。
「ふうん、これが天逆毎。一人だと骨が折れそうだにゃ~」
一人で闘うはずではなかった。
天逆毎が封印された異界に潜入し、内側から依頼主を手引きする手筈だった。
数日前から、依頼主と連絡が取れなくなっている。なぜなのか、こちらから探る術はなかった。
当初の段取りとは違くとも、引き返せない状況である。神代の大妖、天逆毎はすでに目の前で復活を遂げた。
珠木は抑えていた妖力を解放した。その妖気に圧され、天邪鬼がたじろいだ。
「貴様なんのつもりだ」
「お仕事よん。天逆毎はここで討たせてもらうね」
「貴様、裏切る気か」
「二重スパイってやつ、映画で観て、憧れてたんだよね~」
Vサインをする。天邪鬼は怒りに肩を震わせる。
「誰の差し金だ」
「各務瀬隆子。言ったってわからないでしょ。くすんだブロンドヘアと淡い色のサングラスがよく似合うヒトさ」
「ちっ」
天邪鬼は珠木に背を向け逃げ出した。水飛沫を上げながら、珠木が入ってきた立抗の方へ走っていく。
「やれやれ、白ける背中だね」
自身の右膝に掌底を打った。衝撃は、脚から水へ伝わり、天邪鬼に達する。妖力を込めた遠当てだ。天邪鬼は雷に撃たれたように痙攣し、水に斃れ消滅した。
顕現した天逆毎は、虚ろな目を宙に向けていた。まだ夢をみているかのようだ。
珠木は悠々と歩み寄る。
相手は天災のごとき妖だ。間合いだなんだと考えても仕方ない。
天逆毎のうなじのほつれ毛が見える距離にまで近づいた。両者の間で、水が持ち上がる。
水の玉に覆われた護摩の木札が、ふよふよと浮かぶ。畿一のオーラが宿っていて、なんらかの術が発動している。
「邪魔よん」
深く考えず、行く手を塞いだ水玉を中指で弾いた。木札ごと割れ、木片から畿一のオーラが霧散する。
同時に、微睡んでいた天逆毎の意識が覚醒した。光の届かない、深い幽谷のような瞳が、珠木を見下ろしてくる。
目が合った。
跳躍した。天逆毎の顎を蹴り抜こうとした脚が空振る。天逆毎の巨躯が、右に移動していた。柱を足場にして追撃する。水平跳びから、手刀を首に叩き込む。また、消えた。二つ奥の円柱の横に、天逆毎は移っている。
「迅いとか、そういう次元じゃないね」
空間を捻じ曲げ、点から点へ移動している。線の動きではない。
「瞬間移動かにゃ」
青白く光る臍で、視界が塞がれた。瞬きはしていなかったが、二柱先にいた天逆毎に詰め寄られていた。距離という概念が、通じない。
天逆毎が諸手で、天に赤子でも掲げるような仕草をする。珠木を中心とした円域内の、重力の向きが反転した。逆巻く水飛沫が身体を打つ。外郭放水路の天井に叩きつけられた。
指一本動かせないほど、重い。妖力を全身に漲らせ、辛うじて薄目を開けた。
影が、被さってくる。地面。挟まれた。天井が砕け、地下から放り出される。
高層ビル群が発する煌々とした光が目に刺さってくる。天地を鏡合わせにしたような二つの摩天楼。砂時計のようなかたちをした異界。
目が回っていた。隕石に縛り付けられて、宇宙に放り出された気分に、珠木は見舞われた。
どこまで飛ぶのか。ひとまず身を任せ、頭の中で天逆毎の能力を整理することにした。
火車に揺られていた。
火車の中はいぐさの織物が敷かれているものの、乗り心地はよくない。
畿一の口笛で、火車は現れた。
天逆毎を再封印しに行くというのに、火車は喜んで畿一を乗せた。大物を乗せて走れるのが、火車の喜びのようだった。
天狗であり、飛行できる畿一ひとりなら、火車を頼るまでもなかった。
畿一は敷物の上に胡座をかき、手元で扇をいじっていた。
黒地に鮮やかな花模様をあしらった、ちりめんの扇だ。扇骨には香木を使っている。
「娘に貰ったものでのう」
「へえ。いい扇子だな。子どもがいたのは、ちょっと意外だ」
髪や髭はきちんと手入れし、身ぎれいな格好をしているが、どこか家族のない独り者のような軽さも感じていた。
火車の物見窓から街の光が強く差し、畿一が目を細めた。
高層ビル群を抜け、街と街の狭間に出る。
この世界に、空はない。四方を街に囲まれた、異様な空間なのだ。
大吉も、扇子を取り出した。
緋色の地紙が張られた、上海で春香がくれたのものだ。
「この扇子も、なかなかだろ」
「うむ、小僧の持ち物にしては良い品じゃな。少し貸してみい」
「ん?」
畿一は大吉から緋扇を受け取ると、緑色のオーラを発現させる。
オーラが、緋扇に宿る。
「儂が分け与えたオーラの分、この緋扇で風繰りができる。お主はそれで身を守ることに専念せぃ」
「爺さん一人でなんとかできる相手なのか、天逆毎って妖は。知り合いの術士から聞いた話じゃ、地球の公転軸を狂わせるほどの力を持った妖なんだろう。災害みたいなもんじゃねえか」
「幻を見せる術を仕掛けてある。復活直後なら、効果はあるはずじゃ」
「その間に、再封印するのか。なんだ、簡単そうだな」
「ふん、儂を誰じゃと思っておる。抜かりないわい」
畿一は得意げに鷲鼻を高くする。
浮遊感が、二人を包んだ。
大吉は物見窓の外を覗いた。出発前には頭上にあった街が、近付いて来ていた。雨が降ったようで、濡れた屋根が見える。こんな場所でどうやって雨が降るのか、大吉には不思議だった。
中間地点を過ぎ、重力が戻ってきた時だった。車が強い衝撃に見舞われた。
火車が横転し、大吉の上に畿一がのしかかってくる。
「流れておる。ビルに突っ込むぞ。どこかに掴まれぃ」
咄嗟に言われても、掴まれる場所などなかった。ガラスを突き破る衝撃。慣性が働き、大吉と畿一は車内から放り出された。
「なんじゃ、真っ暗でなにも見えん」
「簾が絡まってんだ。いて、暴れんな、爺さん」
覆い被さる前簾を払う。ビルのフロアに横転している火車の右の車輪が、ひどいひしゃげ方をしていた。
「なにか横からぶつかってきたようじゃな。猪でも飛び出してきたのかのう」
「山道走ってたんじゃねえぞ。冗談言ってる場合か。おい、誰かいる」
火車の陰に、人が倒れていた。肩が反応を示し、起き上がってくる。
癖毛の黒髪を後ろで束ねた髪型。黒地に金の刺繍が施された拳法着。腰帯に、酒瓢箪をぶら下げている。
大吉は夜刀の柄に手をかけた。
「珠木、さん」
「いてて。およ、大吉くんだ。畿一さんも一緒かい。面白い組み合わせだぁ」
間抜けた調子で言う珠木の左腕は、あらぬ方向に曲がっていた。顔の右半分は、赤黒く腫れあがっている。
「天逆毎に勝負を挑んだら、このざまだよ」
「天逆毎じゃと。覚醒しておるのか。儂が幻術をかけた木札があったはずじゃぞ」
「あ~、あれ、そういう仕掛けだったのね。壊しちゃった、てへ」
「余計なことを」
目頭を押さえ呆れる畿一をよそに、珠木は大吉に歩み寄る。
「二人も、目的は天逆毎みたいだね。あたしも仲間に入れてもらえないかな、大吉くん」
「その前に、言うことがあるだろう」
珠木が敵なのか味方なのかは、この際どちらでもよかった。
天逆毎を相手に共闘したいというなら、受けてもいい。ただその前に、聞かなければならない言葉はあった。
「銭豆神社でのことだね。ごめんなさい。帰ったら、束早ちゃんたちにも謝ります」
率直に謝罪されると、それ以上責める気は湧かなかった。
「なんで、あんなことしたんだ」
「それは道すがら話したいかな。どうだろう、許してもらえるかい?」
「俺は、もういい。束早と靜が許すかは、あの二人が決めることだ」
「そうだね」
珠木が改めて手を差し出してくる。
握手を交わした。
靜の許しを得るのは難しいだろうな、と大吉は考えていた。
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