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井ノ上

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桑乃瑞希 ⑤

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-7月16日 PM 7:40-

帰る前に春香の家に寄った。
庭の掃き出し窓から声をかけた。
風呂上がりで髪がまだ湿った春香が顔を出す。
奥の浴室で、フェンガーリンが気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。
「自転車ありがとな」
手入れされた芝が敷き詰められた庭には、夏野菜が育つプランターが並んでいる。
その脇に自転車は戻した。
「瑞希には会えた?」
大吉はかぶりを振った。
「夏祭り、明後日なのに」
「一緒に行く約束してたっけか。でも瑞希は嫌々じゃなかったか?」
「そんなことないよ。陽衣菜と色違いでお揃いの浴衣用意してたんだよ」
「そうか。瑞希も楽しみにしてたんだな」
春香は噴水公園でピクニックをした日に、次は夏祭りに行こうと瑞希たちを誘った。
夏祭りなんて蒸し暑くて人が多いだけじゃない、と瑞希は口を尖らせていた。
つれない態度は瑞希なりの照れ隠しだったのか。
「明日、私も一緒に」
「明日は親父さんを迎えに行かなきゃだろ」
「それは」
春香にはかいつまんで桑乃家で起こっていることを話した。隠してもいずれ知れる。
このタイミングで春香の父親が一時退院してくれるのは、正直ありがたい。
春香が無茶する心配は減る。
「あんまり遅いと束早が心配するし、帰るよ」
「大吉」
門を出るところで、春香に呼び止められた。
部屋からの明かりが逆光になって、顔は影になっていた。
「夏祭り、みんなで行こうね」
大吉は頷いて門を出た。

         ◆


-7月17日 PM 1:40-

鉄板でステーキがジュウジュウと音を立てている。食欲を刺激する匂いが鼻腔を襲う。
県道沿いのステーキチェーン店で、羽子が、テーブルを挟んで向かいに座っている。
ステーキを食うにはさすがにポンチョは邪魔らしい。シャツにジーンズのショートパンツというラフな格好だ。
「百二十億円。団長が羽子の一党に支払ったオレの買値だ」
「F15と同じかよ」
「なんだそれ」
「戦闘機だ」
ふうん、と生返事した羽子は肉を口に運ぶ。
数十分前。
大吉は二年一学期の終業式を終え、父親を迎えに行く春香と校門で別れた。
桑乃家へ行くには、学校からならバスを使えばいい。市外の東方面、尹賊いくさ山へ向かう路線が使える。
それで最寄りのバス停へ行こうと県道に出ると、道沿いのステーキ小屋の前で羽子と遭遇した。
息抜きで町に来たという羽子に、お前も食うかと誘われ、一緒に店に入ったのだ。
羽子が一ポンドステーキを注文し、大吉も同じものを頼んだ。
「オレは羽子の商品でも高値で売れた方だぜ。最高傑作って謳い文句だったしな」
「商品? 最高傑作?」
「なんだ、あの闇医者からそこまでは聞いてなかったのか」
羽子は口の端についたソースを拭い、続けた。
「羽子ってのは優れた運動能力を持った亜人の身体を移植して、超人的な戦士を作ってる集団なのさ」
大吉のステーキを食う手が止まる。
「大抵のやつは亜人の移植手術を二、三ヶ所受けると人体が拒絶反応を起こすようになる。それをオレは、臓器を含めて十二ヶ所受けた」
大吉は羽子を見つめた。
ちょっと奇抜な中学生に見えなくもない容姿。そんな彼女から語られる内容は、大吉の知る常識とは異なる世界の話だ。
「俺の身体が気になるか?」
羽子がシャツの襟に指をかけ、挑発的に胸元を露にする。
羽子の悪ふざけで、我に返った。
「んなお子様な胸、興味ねえよ」
「なら、なにが知りたいんだ? だから誘いに乗ったんだろう」
見透かされていた。
まずは瑞希と会って話す。けれど、その後はどうする。
偶然出くわした羽子から、瑞希が置かれている状況を打開するヒントが得られないか。大吉の腹積もりを、羽子は見抜いていた。
「瑞希の姉が雇ったってのは、その集団なのか?」
「違う。オレは買われたと言ったろ。その買主が竜驤りゅうじょう傭兵団だ。桑乃の長女はそこと契約して、オレを含む三人の兵士をリースした」
羽子がフォークを置き、手の甲で唇の脂を拭う。鉄板は空になっていた。大吉の方にはほぼ手付かずのステーキが残っている。
「三人か。意外と少ないな」
「戦闘機並みの戦闘力を持った三人だぜ」
大吉が抱いた淡い希望を、羽子はせせら笑うように言った。
「なんてな。あとの二人は戦闘機ほどじゃない。オレより、二つばかりランクは落ちる」
「ランクがあるのか」
「まあな。覚える必要はない。それよりいいのか?」
「なにが?」
「肉、冷めるぞ」
「あ、ああ。そうだな」
大吉はステーキをカットしようとする。
ナイフの先端。
鼻先に突き付けられていた。
ステーキ小屋の切っ先が丸みを帯びたナイフであるにも関わらず、大吉に一切の身動きを許さぬ殺気を放っている。
羽子が緩慢な動作で席から腰を浮かせたのは見えた。そこから、ナイフを突き付けられるまでの動きは、目で追えなかった。
「これで二度目だ」
羽子が言った。
「オレはイライラしてる。なんでかわかるか?」
質問口調だが、大吉に回答は許されていなかった。いまなにか言葉を発せば、即座にナイフが動くだろう。
ステーキを切るためのナイフで、人を斬るようにはできていない。
しかし、大吉の脳裏に、上海の水路での出来事がよみがえる。
羽子の奇襲。石造りの壁に刻まれた、刃物で切りつけたような深い斬撃痕。
羽子は素手でそんな芸当ができてしまうのだ。
「素人がなんの恐れもなくこっちの領分に足を踏み入れてくる。どんなやつなのかと興味が湧いたが、なんてことはない。自分が立っている場所に鈍感なだけだな」
ナイフが鼻先から引かれた。
それに替わって羽子は大吉の耳元に口を近づける。
「これ以上首を突っ込むな」
囁き。肌が泡立つほどに、冷たい声音だった。
「昨日と今日で、二度死んだ。認識の甘いお前でもそれぐらい理解してるはずだ。桑乃も成樟も、オレみたいに二度も見逃すほど優しくはないぜ。闘おうなんて考えるな。人が一人消える。それで終わりさ」
羽子が顔を離した。踵を返す。
「忠告料はこの店の払いってことでいい」
言い残して、店を出て行った。
身体の金縛りが解けた。心臓が途端に早鐘を打ちはじめる。
殺気の純度は今年の春先に対峙したアレッシオ・ロマンティすら比較にならない。
それはスタンスの違いだろう。
羽子は闘うために造られ、人を殺すことを生業とする戦士。
食の探求に血道をあげる美食家とは、根本からして違うのだ。
「今頃になって、震えてやがる」
大吉は冷めきったステーキをカットし、口に含む。
なんの味もしない塊を、咀嚼しては呑みくだした。
それを何度か繰り返し、なんとか肉を片付けた。
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