jumbl 'ズ

井ノ上

文字の大きさ
上 下
33 / 138
ひきこもり娘は片翼に遺す

新田束早 ⑦

しおりを挟む
誰かが泣いていた。
誰? 誰が泣いているの?
問いかけは何もない真っ白な空間に吸い込まれ消えていく。
春香は耳を澄ませた。
こっち?
歩き出す。地面も空もない。なのに春香が足を出し、踏みしめると、そこが地面になった。
白いワンピースを着ていた。子どもの頃に気に入っていたものに似ている。
泣き声が近くなる。
小さな女の子がいた。水色のスモックを着て、長い黒髪を低い位置で二つ結びにしている。
よく知っている女の子だった。
「どうしてないてるの、つかさちゃん」
声をかけた。春香は小学一年生になっていた。
幼い束早は顔を伏せ、溢れ落ちる涙を腕で何度も拭う。
「いなく、ひっく、なっちゃったの」
「だれが?」
「わからない。でも、いなくなっちゃった」
春香はわけもわからず自分まで悲しい気持ちになった。湧き上がる気持ちで胸が一杯になると、顔を上げてわんわんと泣いた。
ひとしきり泣いて、泣き疲れた。
まだ啜り泣いている束早の奥に、一羽の鴉がいるのに気づく。
目が合う。すると黒い嘴が動く。鴉が啼いた。束早は洟を啜っている。
鴉は束早の後ろで首を動かし、またひと声、カァと啼く。
春香はその鴉に話しかけようとした。
「あなたは―」
そこで、夢から醒めた。

        ◆

家を飛び出した。外は霧雨が降っていた。
構わずに走った。
新聞配達員の自転車。電柱脇に佇む霊の影。車の下から顔だけを覗かせる野良猫。
走り抜けていった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
大吉のアパートの前で、少しだけ乱れた息が整うのを待つ。人々は寝静まっている。足音に気をつけ鉄骨階段を上がった。静かにドアをノックする。
「お前こんな時間に。というか、そんな恰好で」
出てきた大吉が目を剥き、顔を逸らした。
夏向きの半袖短パンのパジャマ着のままだった。薄い生地は霧雨で湿り、肌に張りついている。
「ごめん。でも、どうしてもすぐ束早に会いたくて」
「束早に?」
大吉と束早が二人で京都に行ったのは三日前だ。
波旬のいた痕跡を探しに行ったのだという。けれど何も見つけられなかった。
波旬が祓われた夜以来、束早は部屋に籠るのをやめた。普通に外に出かけ、以前と変わらず話せるようになった。
そんな束早に、春香は心を痛めずにはいられなかった。
束早が深い喪失感を押し殺し、普通に振舞おうとしているのがわかってしまうから。
束早から感じる寂寥は、京都から戻って一段と増した気がした。
自分を重ねた波旬が、なんの生きた証も残せず消えてしまった。
そのことが束早の心に穴を開けているのだとは、春香にも想像できた。
「春香、束早のことはゆっくり」
「夢を」
つい声が大きくなりそうになる。
「夢を視たの」
声を押さえて、言った。
大吉は春香の真剣な眼差しに引き下がり、夢について何も訊かずに中へ入れてくれた。
大吉たちの母親はいなかった。以前は都内のキャバクラで働いていたのを何年か前に辞め、今は隣町のスナックでチーママを務めている。大抵朝方まで帰らないらしい。
「束早、起きてる?」
「春香?」
「入るね」
襖を開けた。寝衣の束早が布団から身を起こす。
「こんな時間にどうしたの」
「束早、服脱いでみて」
「え?」
「確かめたいことがあるの。だから服脱いでみて」
春香は混乱する束早に詰め寄り、寝衣の裾に手をかける。
「ちょ、ちょっと。わかった、わかったわ。自分で脱げるから、ちょっと待って春香」
大吉は音もなく部屋を出て、扉を閉めた。
束早は暗い部屋の中で後ろを向き、恥じらいがちに上着を脱ぐ。
「髪、少しいいかな」
「ええ」
春香は束早の腰辺りまで伸びた髪を身体の前に流してもらう。
細い背が露わになる。
「やっぱり。束早、こっち。ほら」
春香は束早を机にある鏡の前に促す。背中を、鏡に向けてもらう。
「なんなの、一体」
困惑する束早は肩越しに鏡を見て、声を詰まらせた。
「あったんだよ。波旬が、ううん、片翼の天狗が生きた証が」
波旬という妖としての呼び名しか知らなかった。
片翼の天狗。束早が自分と重ね合わせた相手を、そんなふうな呼び方しかできないのがもどかしかった。
「これ、羽根ね」
束早は腕を背に回し、指先で肩甲骨の辺りに触れる。そこに、翼が生えた跡があった。その跡が、黒い鴉の羽のようなかたちをしていた。
「うん、羽根だ」
「羽根にしか見えない」
春香は束早と顔を見合わせた。
「「羽根だ」」
二人の言葉が重なり、噴き出した。額をこつんと合わせ、くつくつと笑う。
まずは束早が。それにつられるように春香が。
涙を溢す。
笑い合いながら、涙がぽろぽろと落ちる。
「生きた証、残ってたのね」
「それだけじゃないよ。私はもう一つ、実は見つけてたんだ」
「春香が?」
「うん」
「なに、どこにあるの?」
「ここ」
春香は束早の、胸の合間に触れる。
「束早の心にも残ってる。そのヒトを覚えてる。それって、束早の心にそのヒトが残ってるってことにならないかな?」
「私の中に」
目に見える痕跡を見つけた今だから、伝えられた言葉だった。
ずっと言いたかった。けれど索漠に囚われていた束早にこんなことを言っても、空しく響くだけだと我慢していた。
「私が忘れずに生きて、その私をまた誰かが覚えていてくれる。証は消えないのね」
束早が大切なものを包むように、腕を胸の前で重ね合わせる。
「私は束早を忘れないよ。絶対忘れない」
この束早の満面の笑顔を、きっと死んでも覚えてる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》

小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です ◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ ◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます! ◆クレジット表記は任意です ※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください 【ご利用にあたっての注意事項】  ⭕️OK ・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用 ※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可 ✖️禁止事項 ・二次配布 ・自作発言 ・大幅なセリフ改変 ・こちらの台本を使用したボイスデータの販売

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

アルバイトで実験台

夏向りん
BL
給料いいバイトあるよ、と教えてもらったバイト先は大人用玩具実験台だった! ローター、オナホ、フェラ、玩具責め、放置、等々の要素有り

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

処理中です...