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井ノ上

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闇医者は入梅に焦がる

于静 ⑤

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街の明かりは遠い。
船頭は身体で道筋を覚えていて、細く入り組んだ水路を、闇の中で一度も舟をぶつけずに進む。
向かいから、別の舟が来た。すれ違う。互いが巧みに櫂を使う。
于静が向こうの船頭からトランクケースを受け取る。さりげない受け渡しだった。
水路を右に左に何度か曲がり、着岸した。
舟から降り、水路沿いを歩きだした于静の後をついていく。
「そのケースが例の荷物か?」
「中身が気になるかい、大吉クン。いいよ、特別に見せてあげよう」
闇医者のイメージで、人体の一部といったやばそうなものが入っていそうで正直見たくはない。
于静がケースを置く。重い音がした。大吉の返事を待たずさっさと開けてしまう。
顔を反らし視界の端で見る。グロテスクな感じはない。
「なんだこれ、石?」
暗がりで正体がはっきりとしない。ラグビーボールに似た形状をしている。
「これはなんと宇宙からの飛来物、冥王星の石だよ!」
「うそくせぇ。冥王星って、確か惑星から外されたやつだろ」
「そう。冥王星は原子力を動力にした無人探査機で観測された星でね。その体表は水素やメタンに覆われてるんだ。それで―」
一つ訊くと、十に留まらず百返してくる于静である。
大吉はうんざりし、路地の先の闇になんとなく目を向ける。
総毛立った。
于静の頭を片手で掴み、石畳の通路に倒れ込む。
「急になにするんだい」
「あれみろ」
壁。大吉と于静の首が並んであった位置に、鋭く頑強な刃物で一閃したかのような痕ができていた。
大吉と于静はもつれたまま、視線を巡らせる。
赤いポンチョを頭から被った人間がいた。目深に被ったフードで顔は隠れている。
「それがどこぞの星の石か。素直に寄越せば、命は見逃してやるよ」
女の声。それも若い。顔はフードの影に隠れている。
于静がトランクケースから石を出して懐に抱え込む。
「どこぞじゃない、冥王星だ。そんなことも知らないでこれを狙ってきたのか。いいかい、冥王星ってのは―」
「言ってる場合かバカ!」
伏せるのが少しでも遅れていたら、二人仲良く首を飛ばされていた。
刃物はポンチョの中に隠れているのか。避けられたのは、ほぼまぐれだ。
大吉は于静の腕を取り、赤ポンチョの女とは逆方向へ駆け出した。
「おい、危なくないんじゃなかったのか。あいつ、間違いなく俺たちを殺そうとしたぞ」
「う~ん、おかしいなぁ」
駆けながら暢気に首を捻る于静。
「なんなんだあいつは」
「僕以外にもこの石を欲しがるやつがいてね。多分その手先だ」
「狙われてたのかよ。聞いてないぞ」
「足止めに人を雇っておいたんだけどねえ。大吉クン、吸血鬼パワーでなんとかならないかい?」
「ついさっきそれには頼るなって言ってただろうが! 寿命が十年減ったとか言われてショック受けてんだよこっちは!」
「そうだったね。失敬失敬」
いちいち人の神経を逆なでしてくる男である。
全力で逃げている。なのに赤ポンチョの女は悠々と歩いて追ってくる。
曲がり角に入り、さらに走る。表通りに出れば人込みに紛れて撒けるかもしれない。そこまで保《も》つか。
「お前、その石渡しちまえ」
「やだ。これは僕のだ」
于静は子どものように首を振る。いっそ自分が取り上げてやろうか。そんな思考が過った瞬間。
「そうかよ。なら仕方ないな」
耳横で、冷ややかな声がした。
大吉は横に跳んだ。全身で于静を押し、水路に落ちる。
「ぶっはっ」
水面に顔を出し、水を噴く。
女が待ち構えていた。フードを外していた。ツーブロックにした黒髪。蒼い瞳。歳は大吉と同じぐらいだ。
アレッシオにも、徹平にも感じなかった、純粋な殺気。
それを放つ女が顔を晒した意味は、考えるまでもない。
「じゃあな」
女が手を緩慢な動作で振り上げる。水中で身動きのとりようがない。
水中を潜って逃げるか。それとも。
現実的でない思考が目まぐるしく去来する。
陸に上がった魚ならぬ、水に落ちた大吉らにとどめを刺そうとする女が、ぴた、と動きを止めた。
「ちっ、もう追いついてきやがったか」
吐き捨て、女が跳躍した。
女が跳び退いた地点に、舟が降ってきた。木造の小舟が舳先から砕ける。
「う~、ひぃっく、うぃ~、于静ちんだいじょうぶ~? いきてる~?」
中国の拳法着姿の女が、千鳥足でやってくる。
書体で『酔』と印字された、瓢箪型の徳利を手首にぶら下げている。
縄を手繰り、徳利の首を手甲に乗せて吞み口を傾ける。かなり泥酔しているのか、口元から溢す酒で胸元を濡らす。
酒で濡れたのを気にも留めず、唖然とする大吉に手を差し伸べてくる。敵意は感じられない。大吉はひとまずその手を取った。泳げないらしい于静は、大吉にしがみついている。
「そーい」
女の掛け声で大吉は于静ごと、魚の如く釣りあげられた。岸に半ば叩きつけられる。
「ぐぇ」
「あ、力加減まちがえちゃった~」
大吉とそう変わらない体格をして、徹平並みの剛力の持ち主だ。舟が空から降ってきたのは、この酔っぱらいの仕業だろう。
「足止め失敗しちゃってごめんね、于静ちん。うっぷ。あのホストが女の子口説き出しちゃってさ」
「誰のことだ」
びっくりした。女の後ろに、痩せこけた男が気配もなく立っていた。
男は盲目なのか、瞼を閉じ、白杖を手にしている。
「やつを逃したのはお前の酒ぐせのせいだろう」
「え~、そっちこそ道端の女の子とイチャイチャしてたくせにぃ」
「あれはお前の戦闘に巻き込まれた一般人を、ちっ、もういい。さっさと于静を連れて行け。やつの相手は俺がする」
「は~い、わっかりました~。ささ、于静ちん。と、きみは?」
「彼は協力者で、大吉クン。吸血鬼の血を飲んじゃうやんちゃなボーイさ」
甚だ不本意な紹介の仕方だが、嘘ではないので抗議しづらい。
「逃げられると思ってるのか?」
横槍を受けて一度は距離を取った赤ポンチョがじりっ、とにじり寄る。
「不用意に足を出して大丈夫か?」
盲目の男が立ちはだかった。声が、闇に響く。
「【足が沼に嵌って動けんだろう】」
赤ポンチョに向けた男の言葉が耳に入る。大吉のいる地面が、途端に泥濘に変わる。
「うわっ、なんだこれ」
「あははは、彼の言うことは聞かない方がいいよ。幻術にかかっちゃうから」
酔いどれ女が慌てる大吉の腰を抱えひょいと肩に担ぐ。
「ついでに于静も抱えていけ」
「そだね~」
酔いどれ女は開いている手で于静を腰に抱えると、石畳の舗装路を蹴って跳んだ。
「ちっ」
屋根へ飛び移る束の間、大吉は泥濘の幻に足止めを食らう赤ポンチョの舌打ちを聞いた。
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