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井ノ上

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白河いなほ

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新田大吉あらただいきちは、どこにでもいるガキだった。
「お前、父親いないんだってな。そんでかーちゃんがフーゾクで働いてんだろ?」
背中には、妹がいた。
妹は、フーゾクという耳慣れない言葉に、きょとんとしている。
相手は他所の中学の上級生で、四人いた。
一番前の、喋りかけて来た相手の鼻っ柱を殴った。
鼻血を噴く。そいつは殴られたダメージより、派手に出た血を怖れて声を上げた。
後ろの三人が出てくる。
家族を侮辱された。妹の前で、それは許せることではない。
親父がいない。だからこそ母親と妹を守るのが俺の役目だ、とその頃の大吉は考えていた。
あとの三人が囲んでくる前に、大吉の方から突進した。妹が後ろにいる。守るために闘う。闘う以上、勝たなければ何も守れない。
剣道場に通っていて、自主的に走り込んでもいた。
上級生三人が相手でも、引けは取らなかった。
「こら! 束早つかさが泣いてるでしょ!」
背中をどつかれ、覆いかぶさっていた上級生の胸ぐらを離した。
「春香」
おかっぱ頭の幼馴染が、顔を赤くして怒っている。
「お兄ちゃんなのに、妹を泣かせちゃダメでしょ!」
反論しようとした。しかし確かに、妹が泣いているのは自分が喧嘩を買ったからに違いなかった。

学校に母親ともども呼び出された。
「どうもすみませんでした」
母親は、大吉のために頭を下げた。
大吉と母親に向けられる、教師の蔑む視線。
「また悪童が」
面談室を出る時、ぼそりと聞こえた。
「上級生四人に勝つなんてすごいじゃん。さすがママの子」
学校を出ると、母親がにかっと笑った。頭をぐしぐしと撫でてくる。あの教師の言葉は、母親にも聞こえたはずだ。
女手一つで子を育てる。大変なはずだ。だが大吉が知る限り、母はいつも明るく笑っていた。
十二歳だった。
守ろうと片意地を張って妹を泣かせ、結局は母親に守られている。
そのことに気付いたこの日から、大吉は暴れるのをやめた。

        ◆

高校への通い慣れた道に、丈の大きめな制服に身を包んだ新入生の姿をちらほら見かける。
「大吉、新入生だよ。あ~、ついに私たちも先輩になるんだね。しっかりしなくっちゃ」
隣を歩く春香が、両こぶしをささやかに膨らむ胸の前に持ってきて、がんばるぞっとポーズをとる。
「そうだな、じゃあまずその寝癖直すか」
大吉が幼馴染の肩口で跳ねている毛先を言う。春香は、ぷうと頬を膨らませ、
「寝癖じゃないの! 猫毛なの!」
と主張する。
お決まりのやり取りだ。
「襟首、クリーニングのタグついてるぞ」
「え、あわわ」
大吉は剣道の防具袋を肩に背負い直し、空いた手でタグをとる。
春の陽気に、あくびが混じった。

通学路の交差点に差しかかった。
信号を待つ。その先に、この辺りでは見かけない制服の女子がいた。
「大吉」
春香も気づく。あぁ、と頷いた。
固そうな印象を受ける紺色のセーラー服が目立っていた。
大吉たちの制服はブレザーで、この季節、セーターだけの生徒も多い。
春香の淡い栗色とは対照的な髪色をしている。それを低い位置で結い、肩から前に流していた。
通学路を行く生徒に気弱そうに話しかけては、通り過ぎられることを繰り返している。
「なにか困ってるみたい」
「そうだな」
彼女の前を通り過ぎる彼らが薄情なのではない。
大吉も、春香がいなければそうしただろう。
余計なことには関わらず、波風を立てず、平凡な日々を送る。
自分がどうしようもない馬鹿な餓鬼だと気づいたあの日から、大吉のモットーは『君子危うきに近寄らず』になった。
信号が変わる。
同時に、春香は駆け出した。まぁ、春香ならそうするだろうとは思った。
「だいじょうぶ?」
春香が親しみを込めた声をかけると、年頃の変わらないその女子の目が涙に潤む。
「あの、わたし、今日はじめて学校に行くのに、道がわからなくなっちゃって」
革のスクールバックを持つ両手に、きゅと力が入る。
春香は自然にその心許なげな手に自分の手を重ねた。
「じゃあ私と一緒に行かない?」
「おい、春香」
「大丈夫だよ、大吉。この子は、ただ困ってるだけだから」
止めようとした大吉に、春香は振り返り柔らかく微笑む。
「あの、ごめんなさい。わたしなら一人でも平気なので」
「そんなこと言わないで。一緒に登校した方が、きっと楽しいよ。ね、大吉」
同意を求められ、仕方なく、「まぁ、そうかもな」と答えた。
「私、森宮春香。あなたは?」
「あ、わたしは白河、白河いなほ」
「いなほちゃん、って呼んでいい?」
「うん。じゃあ、わたしも、春香ちゃんって?」
春香は天真爛漫な笑顔で返した。
春香が手を引くように前に足を踏み出すと、いなほも歩き出した。
「こっちは新田大吉。新しいに田んぼって書くから、よくニッタって間違われるけど、アラタなの。ぶっきらぼうでちょっと怖いかもしれないけど、優しいから安心して」
「あ、アラタくん」
「優しかないが、怖がらせるつもりがないのは本当だ」
男子に慣れてないのか、いなほはおずおずと頷き返す。
「さ、学校に行こう」
春香といなほが通学路を歩き出す。大吉は二人の後ろについた。
制服の違ういなほと喋る春香を、新入生が不思議そうな目を向ける。
よく目つきが悪いと言われる三白眼で大吉が見ると、新入生は怯えて顔を背けた。
二、三年生は、特別気にしない。
世話焼きな性格の春香は、こんな目立ち方をしばしばする。平凡を望む大吉は、目立ちたくはない。といって、なんにでも首を突っ込む幼馴染を放っておくこともできなかった。
ただの草むらだと思って手を入れたら、蛇が出てくるということもないではない。
普通なら、出る杭は打たれる。閉鎖的な学校空間なら、なおさらだろう。
もう少し人目を気にして、お節介はほどほどにしたらどうか。
一度言ってみたことがある。
春香は、少し考えてから、こう答えた。
「心配してくれてありがとう。でも、もしこの性格のせいで痛い目を見ても、それはしょうがないって思えると思うんだ。それが自分なんだから、って」
性格は変えられない。
それでも行動は変えられる、とまでは言わなかった。
春香に限っては、目立つことで疎まれたりはしていない。クラス学年に関わらず、表裏のない春香の人柄は、むしろ誰からも受け入れられている。
そして十二歳のあの日、自分の幼さを気づかせてくれたのも、春香のお節介だったのだ。
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