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愛の夢

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 肌触りの良い上質なリネンの感触と微かに匂うラベンダーの香りに包まれて、ゆっくりと意識が浮上する。微睡まどろみながら、瞼を開いていく。

 あれ、ここは?

 一瞬、自分がどこにいるか戸惑ったが、目に映る景色と過去の記憶の景色が次第に重なっていくのを感じた。

 ここ、秀一さん家のゲストルームだ。以前、何度かここで寝かせてもらったことがあったっけ......

 ブラウンを基調にした部屋にはツインベッドが置かれ、真っ白なシーツに落ち着いたチャコールブラウンのベッドスカートが掛けられていた。クローゼットはアンティークっぽい年季のはいった深みのある木目で、猫脚が優雅な雰囲気を醸し出している。

 家具やリネンはあの頃と変わっていたが、部屋に漂う匂いや雰囲気は変わっていなかった。

 部屋には、秀一の姿が見えない。

 美姫は寂しさと不安を胸にベッドを下り、クローゼットの脇のアンティークの椅子に掛けてあった深緑色のドレスと下着を手早く着ると、ゲストルームの扉を開けた。

 ぁ......

 美しく穏やかなピアノの旋律が聴こえてくる。

 この部屋、防音だから扉を開くまで全然聴こえなかったんだ。

「愛の夢 第3番......」

 愛の夢 第3番。ハンガリーのピアニスト、リストによる3曲から成るピアノ曲。
 特に第3番は有名で、ドイツの詩人フェルディナント・フライリヒートの詩集「Zwischen den Garden」の「O lieb, so lang du lieben kannst!」(おお、愛しうる限り愛せ)に曲をつけたものとなっている。


 おお、愛しうる限り愛せ!
 その時は来る その時は来るのだ
 汝が墓の前で嘆き悲しむその時が

 心を尽くすのだ 汝の心が燃え上がり
 愛を育み 愛を携えるように
 愛によってもう一つの心が
 温かい鼓動を続ける限り

 汝に心開く者あらば
 愛の為に尽くせ
 どんな時も彼の者を喜ばせよ
 どんな時も悲しませてはならない

 言葉には気をつけよ
 悪い言葉はすぐに口をすべる
「ああ神よ、誤解です!」と嘆いても
 彼の者は悲しみ立ち去りゆく


 美姫は、秀一がピアノを弾く後ろ姿を離れた場所からそっと見つめていた。

 ピアノを弾く秀一さんの姿って、本当に美しい……

 鍵盤を滑らかに滑る美しい指先から紡がれる『愛の夢』に、まるで恋に目覚めた少女のような胸の高鳴りを覚える。

 旋律に合わせ、優美に撓る背中の曲線。後ろに纏められた艶のある黒い髪が華麗に舞い、透き通るようなきめの細かい肌を窓から射し込む陽光が照らし出す。眼鏡の奥の透明感をもったライトグレーの瞳は、うっとりするような愛に満ちた眼差しをしていた。

 美しく気高くありながらも人を魅了してやまないオーラが秀一を包んでいるのを感じ、美姫はその完璧な映像の前に息を呑み、佇んでいた。

「……覗き見、ですか」

 秀一が、曲を弾き終わって美姫を振り返った。

 あ、気付いてたんだ……

「い、いえ邪魔しては悪いかと思いまして……」

 しどろもどろになりながら話す美姫を、秀一が柔らかい笑みで返す。

「美姫を邪魔に思うことなど、ありえませんよ。いつでも傍に置いておきたいと思っているのですから。
 それに……この曲は、貴女を想いながら弾いていたのですよ。さぁ、こちらに来て私にその可愛い顔を見せて下さい」

 秀一の言葉に、急速に顔が熱くなるのを感じる。

 おずおずと近付くと、先程まで美しい旋律を奏でていた彼の指が、優美に美姫の指を絡め取る。それだけで、美姫の心が切なく震えた。

 好き......

 秀一さんがどうしようもないくらいに好き。
 指を絡めているだけで、分かる。私はこの人のことが、愛おしくてたまらない。

 溢れ出す感情に、美姫の瞳が潤み出す。人を愛する感情が昂ると涙が出るのだと、この時美姫は初めて知った。

「まったく、貴女は……」

 言葉とは裏腹に、秀一の優しい瞳が美姫を映し出す。

「秀一、さん……好き。好き、なんです。どうしたらいいのか、分からないくらい……」

 指を絡めていた手を秀一がぐっと引き寄せ、美姫の躰はバランスを崩して彼の胸に抱かれた。秀一の逞しい胸から、鼓動が聞こえる。

 あ。秀一さんの鼓動、速い……

 秀一は美姫を横抱きにして膝の上に乗せ、腕を腰に絡めた。

「私だって、同じなのですよ。
 美姫、貴女がどうしようもなく愛しくて仕方がないのです。貴女以外のことは全てどうでもよくなってしまうくらい……」

 秀一は絡めていた指を離し、その指で美姫の唇の輪郭をゆっくりとなぞった。

「こんなにも愛おしく思うのは、貴女だけです」

 美姫の胸の奥から熱いものが込み上げてくる。愛しさに突き上げられるように、自ら唇を重ねた。

 心を尽くし、愛を尽くす。
 心が、温かい鼓動を続ける限り……
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