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90.亀裂
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ログハウスに来てからの三日間は、本当に桃源郷にいるようだった。辛いこと、悲しいことは全て置き去りにし、ただ欲情のまま、ふたりで飽くことなくお互いの躰を貪り尽くした。
ーーこのまま、ふたりで幸せに過ごして、世間に忘れられればいい。
そう、サラは願っていた。
だが……ログハウスに来て三日を過ぎたあたりから、二人の桃源郷に、僅かな亀裂が入り始めた。
ここに来てから習慣となりつつある朝食をベッドでとっている際、サラはステファンがなんとなく落ち着きがないことに気がついた。どことなく視線が彷徨い、食事をする仕草にいつもの優雅さが欠けている。
「ステファン? 何か気になることがあるんですか?」
そう尋ねたものの、ステファンは微笑んでサラの手を握っただけだった。
「いえ……貴女の美しさに、見惚れていただけですよ」
サラは、直感で分かった。それは、ステファンの本心の言葉ではないと。
ステファンの心に何か巣食っているものが、あるのだと……
ステファンは、表向きはサラに心配をかけまいとして、平静を装っていた。だが、日が経つにつれ、彼の変化は少しずつ増大していった。
気が抜けたように惚けていたり、時には苛々したように指をテーブルに叩きつけたりする。それは無意識下による行動で、必ずサラがステファンの傍を離れている時に起こるのだった。
このログハウスが、静かすぎるせいかもしれない……
ピアノルームに行けばCDやレコードがあるが、ピアニストとしての道を断つと言ったステファンにクラシック音楽など、かけられるはずがない。それに、初日にサラがあの部屋に入って以来、そこには鍵が掛けられ、入ることが出来なくなっていた。
このログハウスに来て、サラは自分がいかに今まで音に囲まれた生活をしていたのかを思い知った。
小鳥の囀りさえも聞こえない、閉鎖された空間。外から聞こえるのは、時折木の枝に降り積もった雪がその重みでしなってバサッと落ちる音や、吹き荒れる風が窓を叩きつける音。あとは……自分たちの起こす衣摺れや、肌がぶつかり合う甲高い音。激しい息遣い、漏れる欲情に濡れた声が聞こえるだけ。
ふたりの欲情を映す音だけが響く、この世界。
桃源郷を愉しんでいたはずのサラもまた、無意識下で音楽を欲し始めていた。
サラが昼食を準備するため、キッチンに立っていた時だった。食材を切りながら、ハミングが零れていた。
「サラ! 止めてください!!」
ステファンが荒いだ声を上げ、サラの元へと駆け寄った。両頬を指で挟み込まれたサラは急に現実へと戻され、全身をビクン! とさせた。
え……な、に?
サラはステファンの激しい怒りを感じて驚愕し、瞳孔を開いて彼を見上げた。
サラの怯えた表情を見てステファンはハッとすると、眉を寄せ、視線を逸らした。
「すみ、ません。何でも、ありません……」
「は、い……」
ステファンの手が離れ、サラも何も尋ねることなく頷き、彼から顔を背けた。
その時ようやくサラは、自分が無意識にハミングしていたことに気がついた。そして、そのことに異常までに反応し、苛立ちを見せたステファンにも。
もう、二度と……ハミングはしない。
ステファンに、音楽を思い出させるようなことは、しない。
張り詰めた空気の中、サラは自分に誓った。
その後も、ステファンの変調は大きくなる一方だった。放心したように遠くを見つめたり、かと思えば苛々して指をコツコツと打ち鳴らしたり、それに気づいた途端に止め、深い溜息を吐いたりした。
以前はサラのいない時にだけ表れていたが、今ではサラがすぐに傍にいても起こるようになった。それが、ステファンがピアノを弾いていないせいなのだと、サラにはヒシヒシと伝わってきた。
ステファンの指が、躰が、魂が……ピアノを追い求めて止まないのだと。
けれど、サラにはどうすることも出来なかった。
ステファンの苦悩に気づかないフリをして、彼を求めるだけ。
躰を重ねている間だけは、ステファンは何もかも忘れてサラの躰に溺れることが出来た。彼女もまた、そうであるように……
お互いがお互いの躰を求めなければ、まともな精神でいられないようになっていた。
ーーこのまま、ふたりで幸せに過ごして、世間に忘れられればいい。
そう、サラは願っていた。
だが……ログハウスに来て三日を過ぎたあたりから、二人の桃源郷に、僅かな亀裂が入り始めた。
ここに来てから習慣となりつつある朝食をベッドでとっている際、サラはステファンがなんとなく落ち着きがないことに気がついた。どことなく視線が彷徨い、食事をする仕草にいつもの優雅さが欠けている。
「ステファン? 何か気になることがあるんですか?」
そう尋ねたものの、ステファンは微笑んでサラの手を握っただけだった。
「いえ……貴女の美しさに、見惚れていただけですよ」
サラは、直感で分かった。それは、ステファンの本心の言葉ではないと。
ステファンの心に何か巣食っているものが、あるのだと……
ステファンは、表向きはサラに心配をかけまいとして、平静を装っていた。だが、日が経つにつれ、彼の変化は少しずつ増大していった。
気が抜けたように惚けていたり、時には苛々したように指をテーブルに叩きつけたりする。それは無意識下による行動で、必ずサラがステファンの傍を離れている時に起こるのだった。
このログハウスが、静かすぎるせいかもしれない……
ピアノルームに行けばCDやレコードがあるが、ピアニストとしての道を断つと言ったステファンにクラシック音楽など、かけられるはずがない。それに、初日にサラがあの部屋に入って以来、そこには鍵が掛けられ、入ることが出来なくなっていた。
このログハウスに来て、サラは自分がいかに今まで音に囲まれた生活をしていたのかを思い知った。
小鳥の囀りさえも聞こえない、閉鎖された空間。外から聞こえるのは、時折木の枝に降り積もった雪がその重みでしなってバサッと落ちる音や、吹き荒れる風が窓を叩きつける音。あとは……自分たちの起こす衣摺れや、肌がぶつかり合う甲高い音。激しい息遣い、漏れる欲情に濡れた声が聞こえるだけ。
ふたりの欲情を映す音だけが響く、この世界。
桃源郷を愉しんでいたはずのサラもまた、無意識下で音楽を欲し始めていた。
サラが昼食を準備するため、キッチンに立っていた時だった。食材を切りながら、ハミングが零れていた。
「サラ! 止めてください!!」
ステファンが荒いだ声を上げ、サラの元へと駆け寄った。両頬を指で挟み込まれたサラは急に現実へと戻され、全身をビクン! とさせた。
え……な、に?
サラはステファンの激しい怒りを感じて驚愕し、瞳孔を開いて彼を見上げた。
サラの怯えた表情を見てステファンはハッとすると、眉を寄せ、視線を逸らした。
「すみ、ません。何でも、ありません……」
「は、い……」
ステファンの手が離れ、サラも何も尋ねることなく頷き、彼から顔を背けた。
その時ようやくサラは、自分が無意識にハミングしていたことに気がついた。そして、そのことに異常までに反応し、苛立ちを見せたステファンにも。
もう、二度と……ハミングはしない。
ステファンに、音楽を思い出させるようなことは、しない。
張り詰めた空気の中、サラは自分に誓った。
その後も、ステファンの変調は大きくなる一方だった。放心したように遠くを見つめたり、かと思えば苛々して指をコツコツと打ち鳴らしたり、それに気づいた途端に止め、深い溜息を吐いたりした。
以前はサラのいない時にだけ表れていたが、今ではサラがすぐに傍にいても起こるようになった。それが、ステファンがピアノを弾いていないせいなのだと、サラにはヒシヒシと伝わってきた。
ステファンの指が、躰が、魂が……ピアノを追い求めて止まないのだと。
けれど、サラにはどうすることも出来なかった。
ステファンの苦悩に気づかないフリをして、彼を求めるだけ。
躰を重ねている間だけは、ステファンは何もかも忘れてサラの躰に溺れることが出来た。彼女もまた、そうであるように……
お互いがお互いの躰を求めなければ、まともな精神でいられないようになっていた。
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