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87.ステファンの決意

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 荷物の整理を終えたサラは、気になっていたもう一方の扉を開けた。

「わぁっ! ステファン、ここでもピアノが弾けますね!」

 埃をかぶっているものの、重厚で立派なグランドピアノが部屋の真ん中に置かれていた。両側の壁には書棚が並び、右手は楽譜やスコア、音楽書が並べられ、左手にはレコード盤を含むオーディオが埋め込まれ、その下にずらりとレコードやCDが並んでいた。

 だがすぐに、ステファンはピアノの練習のためにこのログハウスを購入したのだから、ピアノがあるのは当然だったと、興奮して思わず声を上げた自分に恥ずかしくなった。

 ステファンはピアノに近づくと指で鍵盤蓋を上げ、ベルベットの赤い布を捲った。細く長い人差し指が鍵盤の一つを弾く。

 ポーン、と音が鳴った。だが、その響きはなんとなく異質な感じがした。

「このピアノは長い間調律されていないので、とてもじゃないけれど弾けませんね」

 そうだ。だから、違和感を感じたのですね……

 ピアノは調律しないと、年月が経つにつれて音がだんだんずれてくる。通常であれば年に1回ないし、2回。毎日何時間も弾く人の場合は、3ヶ月に1回調律をするのがいいとされている。
 ステファンの場合、専属の調律士に毎月ピアノの調律を頼んでいた。

 せっかくピアノがあるのに、弾けないなんて……

 サラが残念な気持ちでいると、ステファンがサラの肩を抱いた。

「いいんですよ。
 私は……ピアニストを、やめるつもりですから」

 その言葉に、サラは息の根が止まりそうになる程、驚いた。

 ステファンが、ピアニストをやめる!?
 そ、んな……

「以前から、考えていたことです。
 もし世間に私たちの関係が露呈することがあれば、ピアニストとしての道を捨て、貴女と共に生きよう、と」

 思ってもみなかったステファンの言葉に、サラは再び絶句した。

 私たちがここに来たのは一時的な避難場所であって、いずれ騒ぎが落ち着いたらステファンは仕事に戻るものだと思っていました。

 ステファンは、本当にピアニストをやめるつもりなのですか!?

 ショックで立ち竦むサラに、ステファンが優しく彼女を抱き締め、髪に口づける。

「噂は収縮することはあっても、消えることはありません。事実であれば、尚更……
 私がピアニストとして復帰すれば、私たちが一緒にいる限り、また関係を蒸し返されることになるでしょう。

 サラ、貴女をそんな辛い立場に追い込みたくないのです」
「で、ですが……」

 ピアニストをやめるステファンなど、サラには想像つかなかった。

 幼い頃から、ピアノに向かうステファンを見続けてきた。舞台のスポットライトを浴びる彼を見てきた。聴衆を魅了し、会場が割れんばかりのスタンディングオベーションを受け、誇らしく、華やかに微笑むステファンを自分もまた、誇らしく感じてきたのだ。

 サラの両瞳からは、涙が溢れ出していた。

 ステファンの指先が、涙を掬い取る……ピアニストになるべく生まれてきたかのような、長く細い美しい指で。

「大丈夫ですよ。いざという時のために投資もいくつかしてありますし、職を失ったところで金銭的に困ることはありませんので」
「だめっ、だめですっ! ピアニストをやめるなんて、絶対にダメ!
 ……ダメ、ダメ……だ、めッグだぁ、めぇっック、ヒック……」

 幼い子供が駄々を捏ねるように、ただ繰り返す事しか出来ない。感情が溢れすぎて、上手く言葉になって出て来ない。

 必死に訴えるサラの顎を持ち上げ、ステファンが困ったように微笑む。

「私たちがこれからも一緒にいられる為、なのですよ?」
「で、でも……ウ、グッ……だからっ、て……ッ」

 納得できないサラに、ステファンがぴしゃりと告げた。

「それとも貴女は私に、死よりも辛い貴女との別れを選べと仰るのですか」
「そ、それは……」
「私はピアニスト、ステファン・クリステンセンとしてではなく、ひとりの男、ステファン・クリステンセンとして貴女の傍にいたいのです。
 何を犠牲にしても、貴女がいればそれでいいのです」

 そう言われてしまえば、サラは反論することなど出来なかった。

 サラだって、ステファンと離れることなど考えられない。

 たとえ、世間に自分たちの関係が暴露されようとも。愛する両親の会社が危機に晒されようとも……

 現実から切り取られたこの空間の中で、ふたりきり。ずっとこのまま、一緒にいたい……サラのの心が、叫んでいた。

 ピアニストとしてのステファンの生命が断たれようとも。
 自分のこれからの人生に未来が見えなくても。

 ーーステファンの傍にずっといること。

 それだけが、サラのたったひとつの願いだった。

「一緒に……いたい、です。離れ、られない。離れ、たくない……ッグ」
「えぇ、分かっていますよ」

 ステファンの腕が、サラの躰を包み込む。

 罪の意識に苛まれながらもサラは顔を上げ、愛しい人の唇へと寄せた。
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