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256.返事

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 扉を開けると、その上に付けられた鐘がカランコロンと心地よく響いた。もちろん自分の働くカフェも好きだが、色々なカフェを巡るのもまた楽しい。

 ここ、『憩い』は駅の近くにも関わらず駅裏にあって看板も小さいためか、混雑することなく、いつ行ってもゆったりとした時間が流れている。客も時間など気にせず、文庫本を持ち込んでコーヒー片手にじっくりと過ごしたり、マスターとのお喋りを楽しんだりしている。

 ブラウンを基調にした落ち着いた店内には深みのある年季の入ったブラウンの革張りのソファが置かれ、その上からはチューリップの花びらを下に向けたようなシャンデリアが優しい光をテーブルに注いでいる。床には観葉植物のポトスやコーヒーの木、出窓にはポインセチアが飾られ、店内はどことなく懐かしさを覚えるような昭和の香りを醸し出していた。

 カウンターには年代物のコーヒーサイフォンが置かれ、風船型のガラス容器がロートのコーヒーを吸い上げてコポコポと抽出し、コーヒー豆の香ばしい匂いで店内を満たしていた。コーヒーが苦手な美羽だが、匂い、特に豆から挽いたコーヒーの深く香ばしい匂いには惹かれ、安らぎを感じる。

 美羽はゆっくりと店内を見回した。まだ義昭は来ていないようだ。店内はさほど広くはないので、少し首を回せば全体が把握できる。

 美羽は店員に目で合図して、扉から見えやすいソファに腰を下ろした。自分で呼び出しておきながら、そわそわしてしまう。

 考えてみれば、類や隼斗以外の男性とふたりきりで会うなど、初めてのことだ。そう考えたらますます緊張が高まってきた。

 ウェイトレスが水とおしぼりを手にやってきた。長袖の白いブラウスに黒のワンピース、そして白いフリルのついたエプロンといった制服が店の雰囲気に合っている。メイクもそれに合わせてか薄くしており、髪は後ろにひとつでシンプルに束ねていた。

「ご注文はお決まりですか?」

 美羽はメニューに視線を落としてから、申し訳なさそうにウェイトレスに答えた。

「えっと、連れが来てからでもいいですか?」
「分かりました。ごゆっくりどうぞ」

 軽くお辞儀をしてウェイトレスが去っていく。同じウェイトレスという立場から、つい言葉遣いや態度など気にしてしまう。いくら最高の食事を提供されても、給仕の態度が悪いとそれだけで全て台無しにされてしまったように感じることがあるし、気持ちのいいサービスを受けると、それほど食事が美味しくなくてもまた来ようという気持ちになる。

 美羽は去っていくウェイトレスに微笑み、鞄の中から小説の単行本を取り出そうとした。

 その時、カランコロンと鐘の音が鳴り、そちらに視線を向けると義昭がキョロキョロと店内を見回していた。
 美羽が軽く手を挙げると義昭が気がつき、お辞儀した。それが軽く頭を下げるレベルではない深さだったことに、美羽の顔から思わず笑みが溢れた。

「す、すみませんっ。時間を見て会社を出るつもりが、思いの外長引いてしまって」
「大丈夫ですよ、私もさっき着いたところですので」
「い、いえっ。本当に申し訳ありませんっ」

 あまりにも大げさな態度に美羽は吹き出してしまった。

「どうぞ、恐縮なさらず。座ってください」

 立った状態で美羽にペコペコと謝る姿はかなり店内で目立っていた。そんな恥ずかしさもあり、席を勧めると、義昭はますます恐縮した様子で座った。

 正面に座った義昭は目線を美羽に向けると、呆けたように美羽の顔を見つめている。

「あ、あの……私の顔に、何かついてますか?」
「い、いえ!! その……つい、見惚れてしまいました。すみません」
「クスクス……朝野さんって面白い方ですね」

 美羽の硬くなっていた心がだんだん柔らかくなっていくのを感じた。もしかしてこの人と付き合えば、これからこんな風に楽しい時間を過ごすことが出来るのでは……そんな気持ちになった。

 先ほどのウェイトレスが義昭の分の水とお絞りを手に戻ってきた。

「ご注文はお決まりですか?」
「じゃあ、カモミールティーに蜂蜜を入れてお願いできますか」

 こんなところでも、つい類の好きだった飲み物を頼んでしまう。義昭は真剣にメニューに見入ってから、「じゃあ、僕はエスプレッソを……」と言いかけたところを、美羽が制した。

「あの……間違っていたら申し訳ないんですが、朝野さんって実はコーヒー苦手じゃありませんか」
「えっ、どうしてそれを!?」

 義昭がずり落ちた眼鏡をクイと持ち上げながら、瞳孔を大きくした。

「すみません……いつもコーヒーを頼まれるのに、手をつけてないことが殆どなので、そうかと思って。なので、もしそうであれば、どうぞ気になさらず好きな飲み物を頼んでくださいね」
「そ、そうですか……では、アールグレイティーをお願いします」

 義昭がホッとしたようにウェイトレスにオーダーし、美羽は微笑んだ。
 カモミールティーを口に含むと、後から喉に絡みつくような蜂蜜の甘さが喉に広がっていった。まるで類に喉を絡め取られているかのような、気持ちになる。



 ねぇ、類……どうか分かって。
 これは裏切りじゃない。私たちの未来を繋げるための、仕方ない行為なの。


 
 決意を胸に、ティーカップを置くと義昭を見つめた。

「今日、お呼び立てしたのは……先日のお返事をさせていただくためです」
「は、い……」

 義昭もガチャンとティーカップを鳴らして、喉仏を上下させた。

 覚悟を、決めないと。
 どんなに悪者になろうと、私はこの道を選んだのだから。

 美羽はスゥッと息を深く吸った。



「私でよければ……どうぞお願いします」



「へっ!?」

 先日と同じように義昭は裏返った声を上げた。美羽は緊張を崩されて破顔した。

「これから……お付き合いよろしくお願いします」
「ぼぼぼ僕なんかでっっ、いいんですか!?」
「クスクス……はい、お願いします」
「こっ、こちら……こそっっ!!
 よろしくお願いしますっっ!!」

 義昭が背筋を伸ばし、テーブルに頭を打ち付けんばかりの勢いで深く腰を曲げた。

「あっっ!!」

 美羽が咄嗟に義昭のティーカップを避けなければ、頭から紅茶を被っていただろう。

「わっ、わわっっ!!」

 それに気づいた義昭はガタンとテーブルを鳴らし、ティーカップがグラグラと揺れた。そんな義昭に微笑みつつ、罪悪感がズクズクと疼くのも感じていた。

 こんないい人を騙すようなこと、許されない。最低だ、私……
 せめて、お付き合いしている間は誠意を持って接するようにしよう。
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