2 / 32
出逢い
1
しおりを挟む
聖夜のモントリオール。
僅かに吐き出す温かな息が次々と短く白い煙になって冷やされていく。大きく息を吸うと肺が痛くなるので、ゆっくりと口で浅い呼吸を繰り返す。
見栄はって革靴にするんじゃなかった……
革靴を履いた足先は硬く凍り付き、冷たいという感覚さえなくなっていた。
クリスマスミサを終え、僕は家路を急いでいた。別に誰かが待っているからとかではなく、ただ単に寒さから逃れたいだけだ。
教会で感じた熱気と喧噪はそこを離れるとともに遠く退いていき、今はただ革靴が雪に埋まりながらギュッギュッと出す足音だけが静寂の中に響いていた。いつもなら人で賑わう石畳の道もまばらに人が通り過ぎるだけ。
チョコレートショップやクリスマスストア、アンティークショップ等の建ち並ぶ通りを、それぞれの窓を目の端で覗きながら歩いて行く。どの店も外観はツリーやリース、電飾で綺麗に飾られているが、窓の奥は暗く寒々とした雰囲気を醸し出していた。
途中、パブの前を通り過ぎる時にちょうど扉が開き、中から人が出て来た。扉が開いた途端、ピアノのジャズを奏でる軽快な音と賑やかな笑い声が急に耳に入り込み、熱気がふわぁっと頬を撫でる。
思わず足が止まった。まるでそこだけ別世界のようだ。
だが、扉が閉まった途端僕は現実世界へと引き戻され、降り出した粉雪の中を再び足を速めて歩き出した。
石畳の道を過ぎると途端に華やかさは影を潜める。伝統を感じさせる古めかしい国立総合病院の前を通り過ぎる。その先には住宅街に抜けるための近道となる、ただベンチがいくつか点在する広場とも呼べないほどの芝のスペースがある。
遊歩道を無視して斜めに突っ切って歩く。だいたい、遊歩道なんて雪に隠れていてもう見えないのだ。雪に埋もれたベンチの中でただひとつだけ、人の形に雪の厚みが薄くなった場所があり、そこだけ僅かな温もりが感じられた。
街灯の先にある道を過ぎればもうすぐ家に辿り着く……そんな思いで街灯に視線を向けた途端、
僕の視線はそこに釘付けとなる。
天使だ……
両掌を天に翳し、雪を受け止めている少女がそこにいた。
いや、この距離では彼女の年齢は分からないので少女と呼んでいいのか定かではなかったが、僕にはもう彼女が天使にしか見えず、きっと若いのだろうという意識が働いていた。
真っ白なケープからは雪と同じくらい白い細い腕が覗いている。輝くばかりのブロンドの髪の毛が頭からすっぽり被ったフードの隙間から零れ落ちていた。
だんだんと距離が近づくにつれ、彼女の顔がはっきりと見えてくる。腕と同じくらいに白く陶器のような肌に、寒さからか赤みのさした頬が映えてみえる。長くボリュームのある睫毛がくるんっと綺麗にカールしていて、瞬きする度に影を落としていた。まるでガラス玉のような透明感のあるアクアマリンの瞳は、もし直視されたら吸い込まれそうなほど濁りがなく澄んでいて、こちらの邪気を全て浄化してしまうのではないかと思わせる。
彼女は人の気配に気付かないのか、未だ空を見上げたまま掌を天に翳していた。
口元を見ると艶のある唇がクリスマスキャロルを口ずさんでいた。
「Les anges dans nos campagnes(天のみつかいの)」
先ほど教会の聖歌隊も歌っていたことを思い出す。
Les anges dans nos campagnes,
天使たちが野辺で
Ont entonne l'hymne des cieux ;
天上の賛歌をうたい始めた
Et l'echo de nos montagnes
山々からの木魂は
Redit ce chant melodieux :
心地よい歌を繰り返す
Gloria in excelsis Deo
天においては神に栄光があるように
Gloria in excelsis Deo
天においては神に栄光があるように
美しいソプラノの透き通った響きがしんしんと降り積もる雪に染み渡っていく。
心が、震える……
時が経つのも忘れ、立ち尽くして見つめていた。
僕の意識はまるでこの世にはないような気がした。ここが死後の世界なのだと言われたとしても納得してしまうだろう。
身体の細胞ひとつひとつが彼女の紡ぎ出す美しい歌声の響きに震え、気付いた時には涙が頬をゆっくりと伝っていた。
僅かに吐き出す温かな息が次々と短く白い煙になって冷やされていく。大きく息を吸うと肺が痛くなるので、ゆっくりと口で浅い呼吸を繰り返す。
見栄はって革靴にするんじゃなかった……
革靴を履いた足先は硬く凍り付き、冷たいという感覚さえなくなっていた。
クリスマスミサを終え、僕は家路を急いでいた。別に誰かが待っているからとかではなく、ただ単に寒さから逃れたいだけだ。
教会で感じた熱気と喧噪はそこを離れるとともに遠く退いていき、今はただ革靴が雪に埋まりながらギュッギュッと出す足音だけが静寂の中に響いていた。いつもなら人で賑わう石畳の道もまばらに人が通り過ぎるだけ。
チョコレートショップやクリスマスストア、アンティークショップ等の建ち並ぶ通りを、それぞれの窓を目の端で覗きながら歩いて行く。どの店も外観はツリーやリース、電飾で綺麗に飾られているが、窓の奥は暗く寒々とした雰囲気を醸し出していた。
途中、パブの前を通り過ぎる時にちょうど扉が開き、中から人が出て来た。扉が開いた途端、ピアノのジャズを奏でる軽快な音と賑やかな笑い声が急に耳に入り込み、熱気がふわぁっと頬を撫でる。
思わず足が止まった。まるでそこだけ別世界のようだ。
だが、扉が閉まった途端僕は現実世界へと引き戻され、降り出した粉雪の中を再び足を速めて歩き出した。
石畳の道を過ぎると途端に華やかさは影を潜める。伝統を感じさせる古めかしい国立総合病院の前を通り過ぎる。その先には住宅街に抜けるための近道となる、ただベンチがいくつか点在する広場とも呼べないほどの芝のスペースがある。
遊歩道を無視して斜めに突っ切って歩く。だいたい、遊歩道なんて雪に隠れていてもう見えないのだ。雪に埋もれたベンチの中でただひとつだけ、人の形に雪の厚みが薄くなった場所があり、そこだけ僅かな温もりが感じられた。
街灯の先にある道を過ぎればもうすぐ家に辿り着く……そんな思いで街灯に視線を向けた途端、
僕の視線はそこに釘付けとなる。
天使だ……
両掌を天に翳し、雪を受け止めている少女がそこにいた。
いや、この距離では彼女の年齢は分からないので少女と呼んでいいのか定かではなかったが、僕にはもう彼女が天使にしか見えず、きっと若いのだろうという意識が働いていた。
真っ白なケープからは雪と同じくらい白い細い腕が覗いている。輝くばかりのブロンドの髪の毛が頭からすっぽり被ったフードの隙間から零れ落ちていた。
だんだんと距離が近づくにつれ、彼女の顔がはっきりと見えてくる。腕と同じくらいに白く陶器のような肌に、寒さからか赤みのさした頬が映えてみえる。長くボリュームのある睫毛がくるんっと綺麗にカールしていて、瞬きする度に影を落としていた。まるでガラス玉のような透明感のあるアクアマリンの瞳は、もし直視されたら吸い込まれそうなほど濁りがなく澄んでいて、こちらの邪気を全て浄化してしまうのではないかと思わせる。
彼女は人の気配に気付かないのか、未だ空を見上げたまま掌を天に翳していた。
口元を見ると艶のある唇がクリスマスキャロルを口ずさんでいた。
「Les anges dans nos campagnes(天のみつかいの)」
先ほど教会の聖歌隊も歌っていたことを思い出す。
Les anges dans nos campagnes,
天使たちが野辺で
Ont entonne l'hymne des cieux ;
天上の賛歌をうたい始めた
Et l'echo de nos montagnes
山々からの木魂は
Redit ce chant melodieux :
心地よい歌を繰り返す
Gloria in excelsis Deo
天においては神に栄光があるように
Gloria in excelsis Deo
天においては神に栄光があるように
美しいソプラノの透き通った響きがしんしんと降り積もる雪に染み渡っていく。
心が、震える……
時が経つのも忘れ、立ち尽くして見つめていた。
僕の意識はまるでこの世にはないような気がした。ここが死後の世界なのだと言われたとしても納得してしまうだろう。
身体の細胞ひとつひとつが彼女の紡ぎ出す美しい歌声の響きに震え、気付いた時には涙が頬をゆっくりと伝っていた。
0
お気に入りに追加
48
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
溺愛ダーリンと逆シークレットベビー
葉月とに
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。
立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。
優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
【完結】やさしい嘘のその先に
鷹槻れん
恋愛
妊娠初期でつわり真っ只中の永田美千花(ながたみちか・24歳)は、街で偶然夫の律顕(りつあき・28歳)が、会社の元先輩で律顕の同期の女性・西園稀更(にしぞのきさら・28歳)と仲睦まじくデートしている姿を見かけてしまい。
妊娠してから律顕に冷たくあたっていた自覚があった美千花は、自分に優しく接してくれる律顕に真相を問う事ができなくて、一人悶々と悩みを抱えてしまう。
※30,000字程度で完結します。
(執筆期間:2022/05/03〜05/24)
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます!
✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼
---------------------
○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。
(作品シェア以外での無断転載など固くお断りします)
○雪さま
(Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21
(pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274
---------------------
【完結】堕ちた令嬢
マー子
恋愛
・R18・無理矢理?・監禁×孕ませ
・ハピエン
※レイプや陵辱などの表現があります!苦手な方は御遠慮下さい。
〜ストーリー〜
裕福ではないが、父と母と私の三人平凡で幸せな日々を過ごしていた。
素敵な婚約者もいて、学園を卒業したらすぐに結婚するはずだった。
それなのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう⋯?
◇人物の表現が『彼』『彼女』『ヤツ』などで、殆ど名前が出てきません。なるべく表現する人は統一してますが、途中分からなくても多分コイツだろう?と温かい目で見守って下さい。
◇後半やっと彼の目的が分かります。
◇切ないけれど、ハッピーエンドを目指しました。
◇全8話+その後で完結
副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~
真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。
冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました
せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜
神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。
舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。
専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。
そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。
さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。
その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。
海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。
会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。
一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。
再会の日は……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる