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第一章

第四十九話 魔王、考える

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 エリスの周囲から絶え間なく生み出される瘴気が、ざわりとカイエの頬を撫でた。
 その瞬間、カイエは大きく後ろへと飛び退く。汗が、額を伝う。

「これは……」

 恐怖。

 カイエが久しく忘れていた感情だった。

「はは。そんなバカな。そんなことあるわけないだろ。僕は神に選ばれたんだ。……そんなこけ脅しに、屈すると思うな!!」

 カイエの頭上に、巨大な風の槍が現れる。

「死ね!!」

 カイエが手を振ると、風の槍は錐揉みしながら高速でエリスに襲いかかった。
 
 だが、エリスは微動だにしない。

『児戯じゃな』

 揺蕩う瘴気が、突如、手のように動き出し、風の槍を握り止める。
 槍は形状をミシミシと歪められ、大きな破裂音を残して、爆散した。

「なっ……?!」

『下らぬ。これくらいのことはしてみせよ』

 今度はエリスの周囲に、風が収束を始める。

 一本、二本、……十本。

 先ほどカイエが放ったものと同等、いやそれよりも巨大な風の槍が、エリスの周りに十本、出現した。

「え?」

 あまりに衝撃的な状況に、カイエは呆けたような声を出す。

『いくぞ。よく味わうがいい』

 エリスが指を弾くと、全ての槍が、餌に喰らいつく肉食魚のようにカイエに殺到した。

「うあああああ!!??」

 カイエは風神壁シルフドールを展開していたが、なんら役に立たなかった。
 打ち消されたわけでもなく、ただ風魔法のレベルで単純に上回られ、力で壁をぶち抜かれていた。

 全身からおびただしいほどの血を流して、カイエは膝をつく。
 直撃こそ回避したが、身体の至る所を削り取られていた。

『どうした?もう終わりか??』

「はぁー、はぁー……!!」

『消す前に、聞こうか。なぜ、わらわを狙った?それから……「神に選ばれた」と言っていたな。あれはどういう意味じゃ』

 荒く息をしていたカイエが、その言葉を聞いて、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「……は、ははは。そうさ。僕は神に選ばれたんだ」

 カイエの瞳に、じわりと狂気の色が浮かぶ。

「神が、僕に仰ったんだ。『ファントフォーゼの娘を生贄に捧げよ。さすれば新世界への扉は開かれん』ってね」

 その言葉を聞き、エリスは眉を顰めた。

 ――わらわを……いや、エリス・ファントフォーゼを生贄に、じゃと?

『……新世界とは、なんのことじゃ?』

「ふふふ。神の国のことさ。僕のように、選ばれたものだけが到達できる、ね」

 ――神の国、か。まるで子供騙しの謳い文句じゃが……こやつほどの者が、疑いもせず信じる神とは一体何者じゃ?
 

「だからさぁ……!僕の邪魔を、しないでよ!!」

 
 突如、カイエは懐から一枚の紙を取り出した。
 
 手のひらほどの大きさの紙には、赤黒い何かで、不可思議な紋様が描かれている。

 ――呪宝具、じゃの。
 

「これが、神が僕にくれた、加護だ。見せてあげるよ……召喚!!」

 カイエの言霊を受け、紙の呪宝具から猛烈な瘴気が噴出する。
 紫の閃光が迸り、暗闇の空間を不気味に彩った。

 
 そしてまもなく、閃光の中から何かがずるりと這い出てきた。

 
 まず現れたのは、黒い巨大な翼。
 鳥と近しい羽毛があるが、その大きさと禍々しさはとても現世のものとは思えない。

 次に姿を見せたのは、その頭。
 猛禽類のような鋭い嘴に、瞳孔のない赤黒い眼。
 逆立つ細かな羽毛は、毒針のように怪しい艶を持っていた。

 ドラゴン並の巨体がその全体を見せた時、呪われた鳥のような化け物は、けたたましい鳴き声を上げた。

『堕天鳳凰か……伝説級のモンスターじゃな。わらわも見るのは初めてじゃ』

「ははは!すごい、すごいぞ!!……さあ、やれ!アイツを殺せ!!」

 堕天鳳凰は、再び鳴き声を放つと、その嘴に禍々しいエネルギーを集中させ始めた。

「ギイエエエエエエエ!!」

 先程のカイエの【神降カムナリ】をも上回る尋常でない力が、エリスに向かって光線のように解き放たれた。

 だが、エリスは一切動じることはなく……

『やかましいのう』

 片手で、その力を受け止めた。
 
 堕天鳳凰の瞳孔のない眼が、驚愕に開かれる。
 押し切らんと巨大な翼を羽ばたかせたが、毛ほども均衡が揺らがない。

『……わらわの許可無くさえずるな。……この』

 エリスの手に、闇の力が集中する。

『小鳥が!!』

 堕天鳳凰の光線が、完全に反射された。
 エリスの魔力も加算されたそのエネルギーは、何重にも張られた堕天鳳凰の魔法障壁を紙の如く貫き、その顔面に直撃する。

『ギエエエエエエエ……!!』

 あまりの威力に堕天鳳凰はなす術なく、巨大な頭を消し炭にされた。
 残された胴体がよたよたと数歩移動したのち……ズズンと地鳴りのような音を立てて、暗闇に沈んだ。

「あ……あ……」

『どうした。声も出なくなったか』

「あ……あひいいい!!」

 見栄も何もかもかなぐり捨てて、カイエは地面を這うようにして逃走を始める。
 ゲートの位置など確認している暇はない。ただただ、あの化け物から逃げなければ、と。

 

 そんなカイエの眼前に、二つの影が現れる。

 小柄な、少年少女のような人影。

「オマエらは……生きてたのか!!」

 それは、外でコウガ、オリヴィスと死闘を繰り広げて敗れた、アドラとミミドラだった。
 ゲートを通してこちらへ放り込まれた結果、闇の力を取り込み再生を完了していたのだった。

 二人は、揃って表情の無い目でカイエを見下ろしている。

「な、何をしているオマエら!!あいつを、あの化け物を止めろ!!僕が逃げる時間を稼げ!!」

 カイエからの命令に、二人は顔を見合わせる。
 そして、アドラがゆっくりと前傾し、地を這っているカイエに手を差し伸べた。

「あ?ああ……」

 カイエがその手を取ろうと腕を伸ばしたところで……

 アドラが、カイエの顔面を思いっきり蹴り上げた。

「ぶべら!?」

 口から血を撒き散らし、カイエが無惨に転がっていく。

「な、な、なにを!?オマエら、こんなことをしてタダで済むと……」

 困惑と怒りの顔を向けるカイエに対し、アドラが肩をすくめる。

「おいおい。お前いつまで俺らの主人気取りなんだぁ?」

「なに!?」

「言ったじゃない。ワタシたちは、より強い者に従うって。どー見たって、アンタよりあっちの人間……いいえ、あっちの美しいお姉様のほうが強いじゃないのさ」

「と、言うわけだ。もう、俺たちはアンタの命令は聞かねぇよ」

「あ……ぐ……ぐ……」

 口元を抑えてうめくカイエの、今度は後ろから声がした。

『――話は、終わったか?』

 カイエは冷や汗を滝のように流しながら硬直し、振り返ることすらできない。

 ミミドラが、恍惚の表情で歓声を上げる。

「お姉様!!……ああ、なんて芳醇な闇の魔力……!うっとりしてしまいますわぁ」

『なんじゃお主は……』

「バカかミミドラ。消されるぞ」

 このあたり、アドラの方が空気が読めるようであった。アドラはエリスの方に体を向けると、跪いて頭を下げた。

「今からあんたが俺らの主人だ。なんなりとご命令を」

『……ふむ。言いたいことは色々あるが、まぁよかろう。では、そこに転がっている奴を捕らえよ。聞きたいことがあるのじゃ』

「おう」
「はい!お姉様!」

「く……あ……あ……」

 ジリジリと、アドラとミミドラがカイエに近づいていく。
 引き攣った顔で、カイエは後ずさる。

 ミミドラが、その動きを拘束せんと鞭をしならせたところで……

 おもむろに、カイエの表情が、狂気に歪んだ。

「ひ……ひ……ひひひひひひひひひひ!!」

 頭を抱えて哄笑を上げるその様子に、エリスが眉根を寄せる。

『……恐怖でおかしくなったか?』

「ひはははは!!神よ!我が主よ!!これは試練なのですね!……わかりました!この身を以って、神の国への道を切り拓きましょう!!」


 
 そしてカイエは、大きく息を吸い込んだ。



「うぼぉ!お!お!お!お!オ!オオオオオ!!」

 カイエの身体が、不気味に膨張を始める。
 
 首や腰の輪郭はあっという間に消え失せ、一つの曲線となって繋がっていく。
 まもなく、まるで雑にこねた泥団子のように、醜く丸い塊となった。
 その体積は、眺めている間にも、倍々さらに倍と、異様な速度で増していく。

『自爆か……』

 すっかり視界を覆う巨大な肉だるまとなったカイエに対し、エリスは呆れたようなため息をつく。

 
「ミ゛ナ゛コ゛ロ゛シ゛タ゛!゛!゛」
 

 潰れた声帯から怪物のような唸りを発し、カイエはさらに息を吸いこんだ。

 前世のオルトワルド博士の理論のような究極の効率には到達せずとも、生命エネルギーを破壊力に換えれば並の魔術師でもかなりの威力になる。
 
 カイエほどの使い手がその命を爆発に転化したならば、それは極大魔法をはるかに上回る衝撃となり、地上と魔界を繋ぐ不安定なこの空間は跡形もなく消滅するだろう。

 ……そこまで一瞬で理解した上で、なおエリスの表情は揺らがない。

『本当に、馬鹿につける薬はないのぅ』

 エリスは右腕を、異形の塊と化したカイエに向けた。

 手のひらに膨大な力が集中し、紫の妖光を放つ魔法陣が空中に出現する。
 闇の精霊たちの興奮、歓喜、狂気が空間に伝播し、一帯に満ちる闇の魔力が魔法陣の中心で巨大な渦を巻き始めた。
 
 精霊の輪舞曲ロンドが最高潮に達した時……

『転生でもして、出直してこい。愚か者めが』

 エリスは、全ての力を解き放った。

 全てを無に帰す闇魔法究極奥義【黒天滅却葬送ガルマ・ネシオン】。

 逃げ場のない超エネルギーの激流に晒され、その身体も魔力も魂も、一切を粉々に分解され……

 
 声も音もなく、カイエは闇に消えた。


 

「見事だぜ、我が主」
「もう最高!お姉様、一生ついて行きます!」

 静寂に包まれた空間で、アドラたちが跪く。

 それからアドラがおもむろに顔を持ち上げ、エリスに一つ提案をした。

「どうだろうか、我が主。俺は、この辺りの顔役だ。あんたのために、兵隊を大勢集められる」

「お姉様、このまま魔界に住んじゃいましょうよ!!」

「あんたなら、きっと魔界の王になれるぜ」


 
 ――魔界、か。

 エリスは、考えた。

 別に、エリスは魔界の王などどうでもよかった。だが、魔界に留まること自体は意味があると思われた。

 魔界であれば、この姿を維持したままでいられるかもしれない。
 地上に神などと名乗る得体の知れない敵がいることがわかった以上、魔界に留まるほうがよほど安全だろう。


 そして、なにより魔界であれば、正体を隠すことに苦心する必要はない。

 アドラの言う通り、魔界で兵隊を集め、そして魔王軍を再結成すれば良い。人間社会潜伏計画など、直ちに忘れ去ることができるのだ。

 もう、こそこそと人間のフリをして生活しなくてよい。

 聖女だなんだと、甚だしい勘違いで持て囃されることもない。

 
 人間どもに……なんやかんやと、まとわりつかれて、世話を焼かれて、ドタバタと騒がしい日々を過ごすことは、ない。

 
 ……そんな必要は、もう、なくなるのだ。



『――そうじゃのう』

 
 
 エリスはそう一言、小さく呟いた。
 

 

 
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