君を想う

朝海

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第九章

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「桜井さん」
 
 こうして、和葉が木本家に与えられている夏樹の部屋に来ることが珍しい。いや――珍しいというよりも初めてかもしれない。

 夏樹は読んでいた本を閉じる。

 題名も難しそうな本だった。
 
 確か、世界的にヒットをしたファンタジー小説である。

「どうかした?」
 夏樹は冷たくあしらう。

「今、時間いいかな?」
「――木本さん?」
 
 夏樹に和葉を呼び捨てにしていい権利はない。
 
 自ら、その関係を壊してしまったのだから――。
 
 縁を絶ちきってしまったのだから。

 一度、壊れてしまった絆は、簡単には取り戻せない。

「抱いて――私を抱いて」
「木本さん――何を」
「今は私の話を聞いてほしいの」
「分かった。話を聞こう」
 
 和葉はまっすぐ夏樹を見つめる。同じブラウンの瞳が交錯する。和葉は夏樹から視線をはずそうとはしない。怯えが残っているものの見つめてくること自体今までになかったことだった。
 
 和葉も和葉なりに考えて成長しようとしているのだろう。

(和葉は僕がいなくても大丈夫だ)
 
 和葉の成長する姿は夏樹にとって嬉しいことでもある。 
 
 予想外のことだった。
 
 このまま、まっすぐで素直なままでいてほしい。
 
 何度転んでも立ち上がれるようになってもらいたい。
 
 夏樹にとってただ、それだけだった。
 
 *
 
 
 まだ「人殺し」としての夏樹は怖い。
 
 夏樹がしたことは許せない。
 
 きっと、和葉の中では許すことができないだろう。 
 
 けれど、逃げてばかりではいられない。目をそらしてばかりではいられなかった。夏樹と向き合おうとする和葉は意思表示でもある。
 
 夏樹が何を考えているかを知りたかった。

「私はあなたのことを覚えておきたいの――刻んでおきたいの」
 
 だから、お願い――和葉は夏樹の頬に手をそえる。夏樹の体温は和葉よりも冷たい。
 
 今だけ――今だけでいい。
 
 居場所を作ってあげたかったのである。
 
 それに、孤独さから解放してあげたい。
 
 背負っているものを軽くしてあげたい。
 
 楽にしてあげたい。
 
 それは、考えに考え抜いた――和葉の本心だった。



「僕に抱かれる意味が分かっているのか? 人殺しに抱かれることになる。木本さんの身体が汚れることになる」
「私は桜井さん――いえ、夏樹がしたことは許せない。でもね――少しでも、前に進むために素直になってみようと思ったの。進むペースは遅いかもしれないけれど、受け入れてみようと考えたの」
 
 和葉が夏樹に気持ちを伝えようと、思ったのは夏樹と離れ離れになる。
 
 一生、会えなくなる。
 
 声を聞くことができなくなる。
 
 今後、同じ道を歩くことはない。
 
 昔のように夢を語ることはないだろう。
 
 何となく、そのような予感があったから――。
 
 間違いなく夏樹との別れが迫ってきている。
 
 そうでなければ、秋があのような寂しそうな表情を浮かべるはずがない。
 
 言葉を詰まらせることはない。

「木本さん――受け入れたことを後悔するなよ」
「後悔はしないわ。ねぇ、夏樹――今日だけは和葉と呼んで。あなたが私の名前を呼ぶ声を記憶しておきたいの」
「――和葉」
 
 和葉――その呼び方が懐かしかった。二人で手を繋いで保育園のバスに乗っていた頃を思い出す。
 
 一樹や梓もいて――。
 
 喧嘩してもすぐに仲直りをして。
 
 額を合わせて笑いあって。
 
 じゃれあって。

  いつも、落ち着いている夏樹が和葉にひきずられるようにしていたずらをして。
 
 一樹や梓――昴を困らせて二人で楽しんでいた。
 
 一番、自分たちがきらきらと輝いていた時代だった。
 
 明るく――眩しい時代でもあった。
 
 幸せだった時でもある。
 
 あれから、残酷にも月日は流れ――。
 
 時計の針は進み続けて。
 
 幼い子供から少年少女になり――。
 
 和葉と夏樹――二人は別々の道を歩くことを決めたのだから。
 
 二人の道が交わることはない。

「んっ――ぅ」
 
 夏樹は和葉の唇をふさぐ。和葉の舌に舌を絡ませる。呼吸させも奪ってしまいそうなほどの激しいキスだった。たどたどしくも、それにこたえていく。
 
 濡れた音が部屋に響く。
 
夏樹は服を脱がせて――白い肌に紅い華を咲かせていく。

 和葉は甘い声を漏らす。
 
 長袖シャツを脱ぎ――腕に巻いている包帯をほどく。

「人体実験の痕だ。見ていて気持ちいいものではないだろう?」
「私は大丈夫よ」
 
 よく耐えたねという意味を込めて――。
 
 少しでも自分の痕を残しておこうと、注射跡に口づけを堕としていく。
 
 夏樹がピクリと反応をする。
 
 男性に言うのもどうかと思うが――。
 
 当てはまらないかもしれないが。
 
 眉をひそめて声を耐えているその姿は、とても妖艶だった。
 
 色っぽくて綺麗だった。
 
 ブラウンの瞳が浴場に染まっている。
 
 だが、それも数秒のことで――。
 
 すぐに消え去ってしまう。
 
 人間らしい部分ほんの一瞬――垣間見えて、和葉はホッとする。
 
 夏樹が感じてくれている嬉しく嬉しくもあった。

(神様。この時間だけでいいので、夏樹を独占させてください)
 
 和葉はそのまま、夏樹にしがみつく。
 
 二人にベッドになだれ込んでいった。



 
 翌日――。
 
 目を覚ますと夏樹は最初からいなかったように姿を消していた。
 
 和葉は首筋にあるキスマークを鏡に映す。
 
 夏樹愛された証――。
 
 確かにここにいた――生きていたという証拠でもあった。
 
 これで、生きていける。
 
 前を向いていける。
 
 困難を乗り越えていける。
 
 和葉にとってお守りみたいなものだった。

「おはよう――父さん」
 
 先に起きて朝ご飯の準備をしていて昴に挨拶をする。

「おはよ――和葉。朝からすっきりした顔をしているな」
 

 昴はいつもと変らない笑顔で迎えてくれる。

 和葉も笑顔を返す。

「桜井さんに自分の気持ちを伝えられたから、すっきりしたわ」
「――夏樹君に?」
 
 和葉は頷く。

「私たちはね。模擬恋愛をしていただけだと思うの――小さい頃の気持ちが続いていたままだったのよ」
 
 確かに、和葉は納得をした表情をしていた。

 ここまで、すっきりとした表情の和葉を昴は久しぶりに見る。

「二人が納得できたなら、私は何も言わない」
「――和葉」
「何?」
「強くなったな」
「皆の支えがあったからよ」
「――そうか」
 
 和葉は自分の食卓の席に座る。

 頂きますと手を合わせると、昴と朝食を食べ始めた。


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