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第三章 蝶の行方

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 ヴァニオンは笑った。否、笑おうとして失敗したといった方が正しいのか。痛々しい微笑を浮かべ、ナシェルに片方の手を……無骨な掌を、差し伸べた。

「心配すんな。駆け落ちなんて、そんな野暮ったいこと云うつもりはない。ただの冒険心さ」

 しかし躊躇いがちな言葉のなかに、いくばくかの願望が込められているのをナシェルは悟る。

 駆け落ちなんて。
 ヴァニオンはそれをきっぱりと否定してみせることで、高まりそうになる己の心を辛うじて鎮めているようだった。
 そんな、野暮ったいことを云うつもりはない。
 それが嘘である証拠に、深遠な色をした彼の瞳がつかの間、大きく揺らいだ。


 このとき二人の会話の中には数多の建前と、微々たる本音が共存していた。

 子供のころならば不必要であったそうした腹の探り合いを、一体いつからしなくてはならなくなったのだろう?
 ヴァニオンは『今にもお前を連れて逃げ出したい』のだと瞳の奥に本心めいた苦渋を滲ませながら、「これは駆け落ちなんかじゃない、ただのお遊びさ」と笑い飛ばさざるを得ず、ナシェルは内心で彼に(非常に都合のよい)不変の愛と忠誠を求めながらも、『私がお前を選ぶことはありえない、だから私を好いているなら早くあきらめろ』と、表向きは彼を説き伏せざるを得ないのだ。


「……少しでもお前の気晴らしになればと思って。俺は何度かここを抜けて地上界に出たことがある。だから色々楽しい所へ案内してやるよ。日ごろの憂さを晴らせるような場所に。
 ……嫌ならいいんだ。お前がここを、離れたくないというのなら。無謀な家出は、しないに限る」

 最後の一言でやはりヴァニオンは眼を逸らし、あらぬ方を見遣った。

 ――嘘のつけぬ男だ。お前は。
 今にも私の手を引いて、馬に飛び乗り河の向こうへと駈け出したいのだろうに。

 ナシェルは熱っぽいような、それでいて不意に吹き出してしまいそうな不思議な気分で、それらを聞いていた。照れくささと嬉しさと、どことない哀しさとが心の中で綯い交ぜになっていた。

 ヴァニオンの、秘められた熱い本心を胸の奥に感じ取るや否や、無性にこの男が欲しくなった。
 居てもたってもいられなくなり、引っこめかけたヴァニオンの手を、慌てて掴んでいた。

「行く。……連れて行ってくれ」




 自分は浅はかだっただろうか? 衝動的すぎただろうか?
 一度身を引いたこの男にこれだけ心配をさせただけでは飽き足らず、なおも差し伸べられた手にまで縋ってしまうのは、甘えすぎだろうか? 最後まで意地を貫き通して「馬鹿なことは止しておこう」と一笑に付すべきだっただろうか。

 しかし、さまざまな自責と後悔の念を差し置いても、ナシェルはこのとき、ヴァニオンの不器用な気遣いに応えてみたかったのだ。

 きっと、ヴァニオンが「これは駆け落ちだ」と宣言していたなら、ナシェルはその手を掴むことなくその先へ踏み出すこともなかっただろう。畏れのあまり、冷静に立ちもどっていただろう。

 ヴァニオンはそれをきっぱりと否定することで、ナシェルを「王か、俺か」という絶望的な二者択一から救った。
 しかし同時に、そのような気遣いがナシェルを甘えさせ、最後の最後で冷静な判断力を失わせたのだ。

 否……なんのかのと理由をつけるのは止そう。畢竟、ナシェルは父の狂おしい愛に嫌気が差し、ヴァニオンに束の間の救いを求めていた。ヴァニオンは不器用なりにナシェルの心理を察して、彼を王から少しでも遠ざけようと彼をそそのかした。

 駆け落ちではないと彼が云ったのはあるいは、のちのちの保身のためかもしれない。

 だが、それはナシェルにとっては大したことではない。重要なのはナシェルが本心ではまだヴァニオンに依存しており、ヴァニオンの気持ちを悟って心底ほっとし、彼の優しさに全面的に縋ってしまったという点だ。
  
 責められるべきはきっと唆したヴァニオンではなく、その言葉を彼に言わしめた、ナシェルの方なのだろう。



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