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第四部 至高の奥園
46封は成りぬ①
しおりを挟む眼下一面に広がる海は全き橙であった。
洞穴の先はそう広くなく、溶岩の海に向かって張り出した断崖となっていた。十歩ほど歩けばもう崖の淵である。
崖の先端に立ち、冥王は下から渦を巻いて吹き上げて来る熱風にその身を泰然と晒していた。肩に留めたマントが千切れそうに靡き、髪が上向きの気流を受けて乱れるのにも構わず。
一歩踏み出した先には、岩漿が全てを溶かしつくそうと煮えたぎっているというのにだ。
隣に追いついたナシェルは、峻烈な山の怒気を受けて、背に汗の流れ落ちるのを感じた。
背だけではない。全身が総毛立っていた。この空間の持つ異常な熱気に、身も心も全てが融かされてしまいそうだ。
灼熱の海を見下ろし、思わずごくりと唾を呑む。そのナシェルの腕を、王がぐいと掴む。
「恐ろしいか?」
「馬鹿を言わないでください、子供じゃあるまいし」
王は苦笑し、おいで、とナシェルを引き寄せた。
王の腕に包みこまれて初めて、己がかすかに慄えていることに気づく。
ほらごらん、震えている、などと無粋なことは言わず、王はただ黙して彼を広い胸に抱き込んだ。
本心を見抜かれること……、それはナシェルにとって長い間ずっと苛立ちの原因でしかなかった。貴方に何が分かる、とかえって反撥もしてきた。
だが今は、想いを汲まれることを心地よく感じる自分がいる。
滲み拡がる想いに無理矢理蓋をするように、ナシェルは身じろぎした。まったくこんな所で抱きよせられて変な気分になっている場合ではない。
「……熱い! ただでさえ熱苦しいのに、なんでくっつくんですか」
しかし後退さろうとした足元から、石粒がぱらぱらと緋色の波の中に落ちていくのを見ては、動きを止めざるを得ない。
「あれを見よ、ナシェル」
冥王の紅玉の双眸は、眼下の橙の火の渦ではなく、遙か上方、天上界や地上界へ向かって開く火口のほうへ向けられていた。
ふたりの神々は火山の内部から、遙か頭上の火口を見上げた。
天頂部に円い穴が開き、そこから矢のように白い光が差しこんでいるのが見える。遠目ゆえ、小指の爪ほどもない小さな穴に見えるが、実際は地上界で最も大きな『火山口』である。
――それが、天上界、地上界、冥界の三界を繋ぐ通路なのであった。
(感じる。光の司が砂粒のようにぱらぱらと降りそそいで来ている。決して多くはないが……)
天上界のやわらかい光の気を膚に感じ、ナシェルは眉を顰める。
「光の気が、あの火口から射し入ってくるのが分かるか」
「ええ。わずかとはいえ気分の良いものではありません……それにしても、天上界が近くに感じられるから不思議です。あの火口……、幻嶺の一翔けで容易く到達できそうな距離に見えます」
「時空が歪んでおるのだ。だが、我らの神馬であればその歪みをくぐるのは容易いことも分かった。そなたの言うとおり、この道を通れば天上界はかなり近い」
天上界が、近い。
(あの光を追ってゆけば、……ルゥに会える)
切実な衝動に見舞われて、ナシェルはとっさに腕を伸ばし、矢の如き一条の光を掴もうとさえした。
だが彼を統べる王がやんわりと彼を腕の中に抱き竦めて、彼を蒙昧の淵より引き上げる。
「これよりそなたはこの地の封印術を……そしてそれを解く術をも会得するわけだが」
深みのある涼しい声で王は呼びかけた。
「それを得たからとてくれぐれも短慮は致さぬがよいぞ、我が半身よ。徒に山の怒りを呼び醒ますは愚の骨頂だ。
それに、そもそも幼き女神との約束に反する」
ルゥを連れ戻しに天上界へ往こうなどと、変な気を起こすなよ、と言うのだ。
「ですが……」
「一度きりだ。二度はない」
突如声の中に烈しさをにじませた王は、忌わしい思い出を断ち切らんとするかの如く瞼を閉じていた。
「余は再びそなたを見失うことには耐えられそうもない。そなたを追ってかの地に赴くこともだ」
「父上……」
精神的に訣別したはずの天上界に、ナシェルを迎えに行かねばならなかった父の苦痛に思い至り、ナシェルは喉を詰まらせる。
ルゥに会いにゆくということは、父をこの地に独り残すということで、それは父にとってあの“千年にも及ぶ孤独”の記憶を甦らせる要因に他ならない……。
そしてナシェルはすでに一度、王にそれを味わわせてしまっている。
ああそうだ。自分は……ここに在るべきなのだ。
ナシェルは強張りを解き、静かに首肯く。
「分かりました……無謀なことは致しません、決して」
「わかればよい」
微笑を取り戻した冥王は、抱き込んでいたナシェルを離し、後ろへ下がらせた。
「では始めるぞ。余のさまを其の眼で見、山の意思、界の門、そして封印が何たるかを学べ。良いか、これは二度は見せられぬゆえな」
これを教えるのも己に跡を継がせるためなのだろうか? 父上は時おり言葉の端々に滲ませているように、いずれ私に王位を譲られるおつもりなのか?
では私が冥王となったとき、……貴方は?
……そう感じ始めると、ナシェルは封印の術が何たるかなど一生学びたくはない心持になってくるのだ。
しかし冥王は煌びやかな燐光を放つ黒衣を翻して何らかの呪を詠唱しはじめ、ナシェルは否応なく、聞き洩らすまいと耳を欹てねばならなくなった。
王の呪は地上の太陽の運行に譬うれば、一日の午を使い果たすほど長く続いたように感じられた。
たしかにこれだけ長い呪を唱えればならぬなら、ナシェルを迎えにゆくときに、王がこの手順を省いたのも頷ける。
……やがて闇の君主の呼び掛けに応じて大火山の“意思”が現れた。
“意思”という通り姿は持たぬ。それはただ闇の神と、その半身である死の神の頭の中に直接響く居丈高な「声」のようなものであった。
しかしナシェルには、何かしらの巨大にして深遠な双眸が、遙かな高みから己らを無感動に観察しているように感じられた。……まるで自分たち神族が日々の無聊を慰めるため、水甕をとおして気ままに人間界を覗く時のような、まぎれもない次元の違いを悟っていた。
山の“意思”は凍るような眼差しで彼ら神々の内面を射竦めていた。
なにゆえ界の境に大穴を開け、我を目覚めさせたのかと、怒りを滲ませて問うているのが分かった。彼との会話に言語は必要なく、脳裏に直截響き渡る思念が、そうはっきりと告げていた。
ナシェルは“上の次元の意思”のようなものに初めて触れ慄然としたが、冥王の美しい立ち姿からは惧れなど微塵も感じられぬのである。
王はこの世界の君主として威厳に満ち、ただ無言で、超然と身を逸らし、得体の知れぬ界境の大いなる“意思”と対峙しているのであった。
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