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第四部 至高の奥園
12目覚め②
しおりを挟む「お気がつかれましたか、殿下」
傍らで声がする。
ナシェルはまだ身動きがとれず、目だけで声の主を確認した。声の主は寝台脇の椅子に座り、銀の水甕で布巾を絞っていた。見覚えのある紫の長衣。銀髪。……そして丸眼鏡。
「……なぜだ……?」
己のものとは思えぬ弱弱しい掠れ声が出た。
「……なぜ、とは? 何に対しての疑問です?」
ファルクは微笑し、冷水で絞った布巾で、ナシェルの額の汗を拭う。ひんやりとした冷気が、額から顔中に沁みわたってゆくのを感じた。
ファルクはそのまま布巾を額の上に置き、僅かに指を滑らせて、ナシェルの窶れた頬に触れた。ナシェルは呼吸を僅かに上ずらせながら再び、問いを発した。
「なぜ……お前が居る……?」
「わたくしが、ここに控えております理由ですか? ここが、冥府の、冥王宮だからですよ」
ファルクは丁寧に一語一語区切ってそう答え、円卓の上の玻璃の水差しを手に取った。吸い口がついているものだ。
「殿下、水です」
差し出された吸い口に唇をつけることもなく、ナシェルはしばし呆然と、藍色の襞を凝視していた。
深い眠りを齎す、優しい色の天蓋。
室内の見覚えのある調度品の数々。
どうやら本当に、冥府の冥王宮に居るようだ。その部屋は、暗黒界を拝領するまで使っていた、王宮内の己の居室のようだった。
ナシェルは胸郭を膨らませて懐かしい香りを吸い、ふらふらと彼方此方に行きかける意識をようやく胸の中に落ち着けた。同時に、激しい混乱が押し寄せてくる。
冥府!
なぜ私はここに居るのか。天上界に囚われていたはずだ。
記憶がない。…………いつからだ?
私は、最後に、何をしていた?
意識の隅で、何かをしきりに叫んでいたような気がする。ひたすらに繰り返したその言葉は、何であっただろうか?
そして我が躯を炙ったかに思えたあの熱波は、何だったのか――。
ファルクは水差しを手に恭しく静黙し、ナシェルが己を取り戻すまで動かなかった。彼は、王子が朦朧とした問いに返答など求めていないことを承知していた。
ナシェルは最後の記憶を辿る。頭の中が海嵐のように渦巻いている。
波間に散らばる記憶の断片を掻き分け、それと思しき一片を見つけて手繰り寄せてみる。そこに描かれていたのは天上界の剣神から受けた、烈しい凌虐の体験であった。
ナシェルは柔らかな枕の中に深く沈み込んだ。
全身に虫唾が奔っていた。そうだ、あの男に抱かれたのだ。己は拒絶しながらも結局は媚薬の力であの男の言いなりになった……。甘い催眠に堕ち、光の神司を続けざまに喰らって……。
最後に愛する者のことだけ考えながら死のうと決めた。転位することを覚悟していた。
それなのに今、こうしてここにいるということは。
「そうか……私は……助けられたのか……」
自ら助かったのではない。救い出されたのだ……情けないことに。
救い出した者が誰であるかは想像に難くない。それを成し得る者は、端からただひとりしかおらぬのだ。
『熱い熱いと、そう唸るな――ちと、黙っておれ』
あの叱責の声、紛れもなくあれは冥王だった。
(……父上が私を、迎えにきたのか)
額にあてがわれた冷たい布巾を、無意識に取り払って握りしめていた。
知らぬ間にすべては結着していた。恐らく父は天王と対峙したのだろう。彼らの間にどんなやりとりがあったかは分からぬ。己たちを救うためならばと父は、天王に頭を下げる屈辱にさえ甘んじたのだろうか?
ナシェルは息苦しくなった。逆に己のしたことといえば?
父を裏切り続け、自業自得の罠に落ち、天の獄に囚われてからは掌を返したように王の助けを求めた。あまりにも身勝手な心変わりではないか。
私には救われる価値などこれっぽちも無かったのだ……。それなのに助けられた。
ナシェルはふと、視線を動かして部屋の中に眷族たちの姿を求めた。普段ならば主が目を覚ませば擦り寄ってくるはずの精霊たちは、何処にいるやら姿が見えぬ。
部屋の隅に置かれた姿見の上に、数匹の死精と闇精が、身を寄せ合っているのを見つける。
(――おいで、お前たち……)
呼ばわってみるも、彼らは怪訝な表情のままこちらを観察しているだけで応じることはない。声が届いておらぬわけではない。そもそもただ呼び寄せるのに声をかけねばならないこと自体、異常なことだ。
もともと使役に向かぬ死の精――あまり云う事を聞かない――はいいとして、従順なはずの闇の精までもが応じぬのはやはり、こちらが主神としての力を失っているからだろう。……眷属たちにまで見限られたということか。
ナシェルは精霊を招くのを諦め、ファルクの差し出した水差しから水分を摂った。
「――どれぐらい、経った」
「どれぐらい、とは?」
「私が……囚われてからだ」
「そうですね……十日ほどでしょうか……。こちらにお戻りになられてからも、丸四日間は眠っておられましたよ」
たったそれっぽちだ。神の生に於いては一瞬であるはずのその時間が、何と長く感じられたことか。そして、培ってきた神司を失うのに大して時間などかからなかったことも、驚きだった。
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