泉界のアリア

佐宗

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第二部 虚構の楽園

35悔恨②

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 それが何でこういう状況になるのか……?


 ナシェルは自問した。ここで一戦交えるには、今の自分の姿はあまりに間抜けというものだ。

 彼は突然侵入してきたヴァニオンと対峙している所だった。
 己の姿も間抜けなら場所もまた間抜けだ。
 何せ脱衣所だ。

 最初にけたたましい音を立てて湯殿の扉を蹴破り彼が乱入してきたとき、ナシェルは風呂上りにファルクにつけられた傷痕を鏡に向かって鬱々と確認している最中だった。

 濡れた体に慌ててローブを羽織り、胸元を掻きあわせて、とりあえず「何のつもりだ」と問うてみた。しかしヴァニオンは血走った眼差しでナシェルを睨み据えてくるばかりだった。

「もう、さっきの話なら終わったはずだぞ。しつこいなお前も……」

 ナシェルは濡れた髪もそのままに、戸口に立って殺気めいたものをぶつけてくるヴァニオンに吐き捨てた。
 さっきの舌戦の続きをやる気なのかと思ったのだ。

「だいたい何で勝手に入ってくるんだ。風呂にまで追ってくることはないだろう」

 やや語気を弱めて今度は諭すように云ってみた。だが彼が出て行く気配はない。微動だにせず、常軌を逸したような鋭い視線を向けてくるばかり。
 それは先ほどまで柄にもなく説教など垂れていた彼の目とは、およそ似ても似つかぬものだった。

「……、ヴァニオン。酔ってるのか?」

 ナシェルは紺の湯上がりローブ一枚。それは今の切迫した状況とも、もしかしたら起こりうるであろう乱闘とも全くそぐわぬいでたちだ。

 訳も分からず対峙したが、乳兄弟の黒曜の瞳に浮かぶ酩酊には危険を感じる。

「……何を飲んだ? 悪酔いするには早すぎないか」
「……そんなに危ない遊びがしたいのかよ!! だったら何で、俺じゃなくてあのファルクなんだよ!?」
「………なに?」

 呆気に取られて暫く返す言葉が続かない。
 怒りの矛先が、先程とは別の方向を向いているようだ。

 ヴァニオンはしかし、酔っているとしか思えぬ発言の後にしては力強い足取りで、驚きに立ち竦むナシェルのそばまで歩み寄って来た。
 まだ水滴を垂らしているナシェルの頬に触れて来ようとしたので、手で瞬時に払いのけた。

「私に…触るな、」

 ヴァニオンの瞳に浮かぶ感情を理解しようと努めるも、ナシェルには分からない。

 嫉妬? ファルクへの?

 己とヴァニオンがひとときそうした関係にあったのは確かだが、それは成年前の……、若かりし頃の過ちにすぎぬ。今では二人の間でとうに笑い種となっていることではないか。

 それにサリエルという情人をすでに得て、幸せな逢瀬を重ねていたはずのヴァニオンに、なぜ変態公爵ごときのことで嫉妬されなければならないのか?

 「ヴァニオン。冗談もいい加減にしろ。今すぐ出て行け」

 ナシェルの怒りは空虚に、浴室内に響き渡る。
 巨大な鏡つきの広い洗面台を背後にしては、横にずれるよりほか逃れる道もない。お前が出て行かないなら私が出て行くまでだ、とナシェルは、乳兄弟の側を戸口に向かった。

 だが通りすぎた瞬間、ぐ、と腕を掴まれた。ナシェルは振り返り、怒気を孕む目で彼を見据えた。

「離せ」
「話はまだ終わってないぜ……」

 凄みすら感じる目つきで、ヴァニオンは己の胸元を注視している。体に残る傷痕に気づかれたか。ナシェルは空いたほうの手でローブを再び掻き合せた。

「酔っ払いと話すことなどない。手を離せ!」
「俺が酔ってるのかどうか、試してみるか?」
「試す?」
「隠さずに見せてみろ、その痕を。ファルクに付けられたんだろう!」
「だとしたら何……、ッ!」

 語尾を封じ込めるように、突如ヴァニオンの唇がナシェルのそれを塞いだ。

「……!!?……」

 虚をつかれているところへ、性急に舌を差し入れられる。

「……んッ……!?」

 背中を抱きとめられ、ナシェルは乳兄弟の腕の中でもがいた。

 しかし唇が触れ合わさった瞬間、思い出してもいた。

 遠い過去の記憶の中で、ヴァニオンはナシェルを幾度となくその腕に抱き、愛している、お前のためだけに生きる、と繰り返し囁いてくれていた。

 その真摯な、猛り狂うほどの若い愛を振りほどいたのは、自分のほうだ。

 無謀な青春の罪過をそれ以上続けることは避けて、若かりし自分は冥王の檻の中にあり続けることを選んだ。
 そうでなければ、きっとヴァニオンは王に、殺されていただろうから。



 …荒々しいヴァニオンの口づけを受けながらナシェルは、服の上から彼の左鎖骨のあたりを、指でそっとたどる。
 知っているのだ。今もそこに引き攣れたような傷跡が残っているのを。

 ナシェルを愛したヴァニオンは、かつてその箇所を王に、直立不動のまま剣でえぐられた。
 深手だったが急所は的確に外されていた。もう少し下だったら命はなかっただろう。
 殺されていても不思議ではなかったが、王は、ナシェルのためにかろうじて殺すことを思いとどまったのか…。

 そのとき以来、二人は過去に蓋をして振り返らぬように、互いの道を歩んできたはずだった。


 ……ならば彼の内にあるのはやはり未練なのか……?
 でも、お前にはもう、サリエルという恋人が。


 ナシェルは同時に、もう昔のヴァニオンではないということも思い知らされている。

 抱きとめられた胸の厚さと、腕の力強さ。
 舌を絡めとる口づけの巧みさに。




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