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第二部 虚構の楽園
30甘言①
しおりを挟む『……こんなことはもう止そう。お前の体がまたおかしくなるよりは、ましだ』
ヴァニオンの絶望的な言葉が、まだ耳の奥で反響している。
サリエルは他者との接触を拒むかのように、アルカシェル城の自室に籠っていた。
自分はどうかしていた。
肌を合わせることができなくなっても、これまでずっと愛し合えてきたはずなのに。
体を寄せ合えなくとも心は通っている、それで良かったはずだった。
それなのに、一時の感情に揺さぶられて我を失い、自分ひとり溺れきって……。
そして彼にだけ我慢を強い、そんな云いたくない台詞まで云わせてしまった。
『ヴァニオン様の想いを受け止めたかった』……なんて、都合の良い言い訳でしかない。
結局のところ自分こそが昂ぶりを抑えきれずに彼に迫ったのだ。
『姫さんに救ってもらった命だ、もっと大事にしろ』
貴方にもう一度抱かれたなら死ぬことさえも厭わないと縋るサリエルを、ヴァニオンはそう諫めた。
彼は自分を導いてくれながら、最後の最後まで己を失わず耐え切った。
彼はきっとそれで良かったのだ。私の病が癒えた今、もはや身体の関係などなくとも互いに見つめ合えるだけでよかった。
それを『辛いに違いない』『想いを遂げさせてやりたい』などと、痴がましくも、理解したふりをして。
裏を返せばそれは、自分自身の欲望だったに過ぎない。
『お前は何ひとつ悪くない。これはすべて俺が招いたこと。俺は一生かけても償いきれない過ちの代償を、今こうして支払ってるんだ……』
あの時のヴァニオンの後ろ姿が、脳裏から離れない。そして。
『こんなことはもう止そう』
苦しげに吐き出されたあの言葉。サリエルの体を気遣っての台詞だったが、ヴァニオン自身にも突き刺さる一言だったに違いない。
あんな辛いことを云わせてしまった……。
ちゃんと謝りたい。しかしどんな顔をして次に会えばいいのだろう。
いや、会いに来てくれるかどうかさえ、もう定かでない……。
彼は徒に求めた浅はかな私にきっと呆れ果てただろう。嫌われたかもしれない。
どうしたらいい……。
サリエルは、あのときの行為を心の奥底から恥じ、悔いて、ひとり懊悩していた。
自分がその場に存在する意義さえ、見失いつつあった。
私は何と無価値な生き物なのか……。
何のために生き永らえたのか? 彼と共に生きるためではなかったのか?
彼の心を失ってしまったとしたら、自分はここに居る理由がないではないか!
そういった無力感と絶望感に苛まれ続け、あのヴァニオンとの哀しい逢瀬以来数日、眠れぬ日々が続いていた。
読み掛けの本を広げてみても、虚ろな眼に文字など全く入ってこない。
サリエルは読書を諦め、抜け殻のように覚束ない足取りで、花園を臨む露台に出た。
芳しい香りにつつまれた虚構の花園。女神ルーシェルミアの恩恵を受けた世界。
いつもと変わらぬ疑似天の情景が広がっている。
しかし故郷の天上界に似たその清き風景も、苦悩の底に沈む今は、なんの感慨ももたらさない。
扉を叩く音にも暫く気づかずに、サリエルは茫然と露台に佇んでいた。
「なんだ、やっぱり居たんじゃない」
突如として聞こえたその声に、はっと振り返ると、思いがけない人物が思いのほか近くに立っている。
「返事がなかったからさ、勝手に入ってきちゃったよ。ごめんね」
彼は露台と室内を隔てる引き戸の角に背を預けるようにして、謝罪とは裏腹ににこりと笑んだ。サリエルは潤んだ眼差しを悟られまいと慌てて目礼しつつ、瞼を拭った。
「エベール殿下……? こちらこそノックにも気づかず……、失礼しました。あの……」
顔が上げられない。とても毅然と応対できる状況ではない。
「何か……私に……?」
何の用かと訝しむサリエルに対し、エベールはにこやかだ。
「いや、今しがたルーシェと遊ぼうと思って来たんだけどさ。あいにく兄上が先客でいらしてたから、僕時間を持て余してるんだ。しばらく話相手になってくれないかと思ってさ」
「え、ええ……」
サリエルは緊張を解かずに辛うじて頷いた。誰かと話をしたい気分ではないのだが、相手は王子だ。断れるはずもない。
だが、なぜ自分なのかという想いが頭を掠める。近ごろ王女ルーシェと懇意にしている第二王子エベールであるが、サリエルとの間にこれまで直接的な友好関係ははっきり云って、なかった。
サリエルはナシェルの計らいでここ疑似天に身を寄せていることから、ナシェルには深い感謝の念を抱いている。忠誠、忠義に近い気持ちでもある。そしてナシェルは何より、ヴァニオンの親友でもある。
ナシェルの冷たい美貌の中に見え隠れする、清らかな慈愛を、サリエルは感じとることができる。
それは同じ神族であったサリエルのみに向けられるものではない。神も魔族も隔てなく、この冥界に等しく暮す者すべてに向けられた統治者として相応しい慈悲と憐愛の念であった。
その念はもしかしたら冥王のそれよりもさらに深いものかもしれないと思う。遠目から見たことしかないが、冥王は統治者として凄まじい威圧感を放っている。慈愛の念を感じ取るより先に、身が震うほどの畏怖感をサリエルに与える。
どちらかといえば、ナシェルの時おり見せる優しさは、天王レオンのそれに近いと思う。母である天の女神の血のせいなのだろうか…?
ともかくもナシェルの優しさは、サリエルにとって思慕と尊敬に値した。
しかし今、眼前に立つエベールからは、そうした王族の…、いや、神族としての『気』は何一つ感じ取れない。
当のエベールは、サリエルの表情に奔る不安など気にする様子もない。彼の赤らんだ瞼に気づくと表情を曇らせ、二歩三歩と近づいてくる。
「サリエル……。きみ、泣いてたね?」
「いえ、そんな……」
否定しながらも、顔を上げることができなかった。
エベールはそんなサリエルの横まですたすたと歩み寄り、露台の手すりに両肘を預けた。濡羽色の髪が、疑似天の乾いた風を受けて靡く。
「先日見かけたときから君は、何か悩みを抱えた様子だっただろう……。僕は心配していたんだ……ヴァニオン殿との間に、何かあったんじゃないかってね」
「……」
いきなりの図星の指摘だった。返す言葉も見つからずにいるサリエルに、王子は労わるような優しげな笑みを向けた。
「そんなに緊張しないでよ……。僕、前から君のために何かできることはないかって思ってたんだ。でもあまり君に近づくと兄上あたりに何か云われちゃいそうだったからさ、今まであまり声をかけてあげたこと、無かったんだけど」
「……エベール様……。勿体ないお言葉です。私などのために……」
「ううん。君の境遇を分かってあげられる者が、あまり周りに居ないんじゃないかと思ってさ。僕なんかでよければ、話聞いてあげられるよ」
向けられた優しい言葉の数々に、サリエルは心に湧いていた警戒と不安感を恥じた。いけない、どうして自分はこうも疑り深くなってしまっているのだろう。親しくしたことのない殿下さえもこうして労わってくださっている。ありがたいことではないか……。
「ヴァニオン殿と、何かあったんでしょう? 喧嘩でもしたの」
「……いえ、喧嘩などでは…。私が一方的に悪いのですから……」
「彼に嫌われたんじゃないかって?」
サリエルは視線を落とす。肯定したくないが、否定もできない……。
「それで自分はどうしてこんな所にいるんだろうなんて、くよくよ悩んでるってわけだ」
「……こんな所に、などとは思っていません。ただ、自分がここに居ていいのかとは、悩んでいます」
エベールは合点したように大きく頷くと、手すりに置いた両腕の上に顎を載せ、大きく溜息をついた。
「本当に君って哀れな境遇だよねえ」
「……?」
「ひとりでこんな所に閉じ込められて、さぞかし毎日憂鬱だろうって云ってるのさ」
「い、いえ、私は別に閉じ込められているわけでは」
「でもここ疑似天を離れたりしたら、きっと君はまた死の病に取り憑かれるだろう。冥界の瘴気は君にとっては毒なんだから。ここでしか生きていけないなら、幽閉されてるのと変わらないよ」
「そう……でしょうか……」
境遇を気遣っての発言だろうが、エベールの言葉はサリエルの苦悩の本質からは的が外れている。今はそうした自分の状況よりもさらに踏み込んだところで、存在意義に疑念を持っているからだ。ヴァニオンの、情人としての自分に。
「それにそもそも、ここ冥界には当のヴァニオンに誘拐されてきたんじゃないか。まさかそのときのこと、忘れたわけじゃないだろう?」
エベールはここで再びやんわりとヴァニオンの名を持ち出してくる。
「……それは、そうなのですが。もうとうの昔のことですし……」
「綺麗さっぱり忘れて、ここで暮らしていく覚悟ができていると?できてるなら悩むことなんかないじゃない」
向けられた眼差しは穏やかだったが、何かしら含みがあるようで、サリエルはその意図を測れずに彼を見返した。
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