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第二部 虚構の楽園
5 冥王宮へ①
しおりを挟む陰鬱なる冥府の宙を舞う、一頭の黒天馬がある。
引き締まった青黒毛の若馬である。
凡庸の黒天馬と比べて遥かに抜きん出た体格をしており、気性はすこぶる荒い。
若馬は雄々しい鼻息を上げながら、背に生えた翼を苛立たしげに翻めかせる。
己を御しようとする鞍上の者への不快感からか。
蹄が宙を掻く。
力強い翼が唸りを上げるつど、鳥のような黒い羽が都へ向かって舞い落ちていく。
ひとしきり鞍上の者への抵抗を試みるも、やがて彼の者の巧みな操術に根負けしたか、若馬は足掻くのをやめて徐々に騎手に対する恭順を示し始めた。
騎手はそれを感じると笑み、若馬の首を軽く撫でてやり、思う様に跳んでみせよとばかり手綱を緩めた。
主人の許しを受けて、青黒毛の若馬は一速に軽やかな足裁きに変ずる。
憂愁なる都の遥か上空を、騎影はしばし回遊した。
馬上の黒髪の麗神は、闇に覆われし常世の都を眺め降ろす。
喧騒と背徳に満ちた王都。遥かな昔、永久に其処に生きん、永遠に此処に暮す者共とともにあろうと誓った、己の第二の故郷を。
都に暮す数百万の魔族たちは、おそらく宙を駆ける騎影には気づいては居るまい。肉眼で見るには高度がありすぎ、また馬もその背に跨る神も、闇に溶け込むほどの漆黒を帯びているのだから。そしてそもそも魔族たちには、宙を見上げる習慣などない。地中深きこの世界は、地上のような太陽や月星の光とは無縁だ。見上げたところで赤黒き洞窟世界の天井部が目に入るだけだから。
しかし優雅な空中散歩を早々に切り上げて、麗神は馬首をめぐらし冥府の丘に聳える王宮の方角へと旋回を始めた。
珍しい客……いや、客とは云えないか……、その気配を感じたのだ。
颯爽と、そして凛とした輝きに満ちたその若き神の気。彼が唯一待ち焦がれている、神々しい気の持ち主が、今おそらく王宮へ来訪したのである。
悦びに、思わず口元が緩む。
青馬が翼を水平にし疾走を始めると、彼の黒髪は長い幟のようにたなびいて揺れ、その姿は誰にも気取られることのない一陣の風となって、王宮の方角へ吹き抜けた。
青黒毛の若馬は降下を始めた段に至って、最後の抵抗とばかりにやんちゃな所を見せ、主人の意を汲まず王宮の馬場から離れた、裏手の広大な練兵場へと降り立った。平時であり訓練時間も終了しているため、幸いにも無人であった。
「帝影!」
叱られても何処吹く風の黒天馬は、翼を畳んだまま暢気に蹄を鳴らして並足で厩舎のある馬場の方へ歩き始めた。やはりまだ意のままに乗りこなすには早いようだ。
行き会った数名の武官に目を剥いて驚かれながら、ぽくぽくと歩いて城廻りを迂回し厩舎の前に辿り着くと、彼はひらりと典雅な身のこなしで帝影の背から降り立った。
手綱を受け取ろうと駆け寄ってきた侍官を制して、自ら帝影を引いて厩舎に入る。
長年の最愛馬・闇嶺を筆頭に八頭余の愛馬が両脇に並んで繋がれており、主を見るとまるで礼でもするかのように次々と頭を垂れてゆく。
その闇嶺の隣に、たった今繋がれたと思しき闇嶺の子・幻嶺の姿があった。だが幻嶺の主の姿はない。
「幻嶺、久しいな。元気にしておったか」
速駆けで到着したのか、まだ体躯から湯気を昇らせている幻嶺の鼻先を、そっと撫でてやる。幻嶺は頭を低くしつつも慇懃無礼にぶるんと、鼻息だけで応じた。
「気位が高く愛想の無き所は相変わらず主人似よ」
これの主は何処へ行ったと問えば、既に王宮へ入られたとの侍官の答えであった。
「またもすれ違いか」
帝影の利かぬ気のおかげでまたしても鼻先を掠めて行かれた。苦笑しつつセダルは、帝影の世話を侍官に任せ、愛しい姿を求めて足早に宮殿内へ戻った。
花蜜を求めて飛ぶ虫の如く、その残香を頼りに内宮へと歩を進めれば、程なくして白亜石の彫像の居並ぶ回廊で彼を捕まえるに至った。
「死の影の王」
優美な眉を微かに顰めながら振り返った麗しの死神は、冷たい眼光ながらも最低限の礼儀をちらつかせるように僅かに目礼する。
「陛下……、久闊をお詫び申し上げます」
必要以上に余所余所しいのは照れくささの裏返しなのか、それとも今日ばかりは言いなりにはならぬ、という強固な意志の表れであるのか。
「本当に……久しいな」
以前逢ったのは一月も前だった、と思い返しながらセダルは、己と全く同じ相貌の半身を抱きしめようと手を伸ばした。非情にも王子はそれを一歩壁側に退がって躱し、顎を引いて無表情に告げた。
「今日は、大事なお話があって参ったのです」
冥王セダルはさすがに気分を害し紅の双眸を細めた。
「ほう! それはさぞかし重要な用件であろうな。大した用でもなくばそなたが自ら参じることなどあるまい。何せこの一年というものたった二度だ、そなたがここを訪れたのは。一度は先月の閲兵式。もう一度は半年前の例祭の、勲功者褒章式であったかな。式典でもなければ余には会わぬということか」
ついでに云えばその二度きりだ。閨を共にしたのは。
さらに云えばここ半年間で三回ほど冥王自ら暗黒界に密かに行幸したが、いずれも王子は鋭い勘を働かせ疑似天に身を隠した後だった……これは考えすぎか?
「ですから無沙汰はお詫び申し上げております、陛下」
「そのつれない態度も詫びてほしいものだ。近うよれ、顔を見せよ」
硬い気を帯びたまま王子は渋々一歩進み出て見上げてくる。彼も成長し、千歳を超えてからは殆ど外見に差はなくなったが、まだ僅かに己の方が背が高いようだ。
長い睫毛に縁取られた母譲りの群青色の瞳を間近に捕らえ、セダルは感悦のあまり唇を奪おうとしたが、それを止めるかのように王子が、
「乗騎をまた増やされましたか。見慣れぬ馬でしたが」
と己の騎装に目をやり尋ねてくる。
「なんだ見ておったのか…」
「着地しそこねて練兵場から戻っておいでになる処が、そこの窓から全てつぶさに見えました」
「……先年生まれた闇嶺の子で、帝影と付けた。幻嶺の弟だな。最近乗り始めたが、気性が荒くてまだ思い通りにならぬ。誰かのようにな」
「……」
王子はきりりと眉を寄せ微かに目を逸らした。
「だが……気位の高い若馬を思う様に調教するのは、なかなか楽しいぞ……」
「……ッ、お戯れを!」
王子の頬にさっと朱が差すのを確認してから、セダルはその流麗な頤を指先で掴んで持ち上げた。
「ふふ、余は馬の話をしておるのだ」
唇を強く吸うと、王子は諦めたように躯の強張りを解いて王に従った。
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