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第一部 血族
21哀しき知らせ①
しおりを挟む王妃セファニアの死は、瞬く間に冥界中に伝えられた。冥府を囲むように存在する数多の小世界……暗黒界はもちろんのこと、炎獄界、腐樹界、幻霧界、幻獣界、魔獣界、女妖界、虚無界、永久凍土……そして遠くは奈落門まで、それらの世界に住むすべての冥界貴族、および魔族が、悉く喪に服すことを命じられた。
とりわけ冥府の冥王宮はいつにも増して陰鬱な空気に包まれ、誰もが偉大なる闇神の悲しみの深さを思い知った。
しかし王は、王妃のために荘厳な葬儀を執り行ったのち、休む間もなく再び黒の戦装束に戻り、胸に喪章をつけた魔族の軍を率いて冥界の奥地へと旅立っていった。
平定途中の氷獣界をそのまま放置しておくわけにはいかなかったからだ。
一方、ヴァニオンが領地である炎獄界に戻ったのは、王妃の葬儀から地上界の暦でいうところのおよそ一週間を経てからのことだった。
愛する継母セフィを失った悲しみからなかなか立ち直れずに冥王宮の自室に籠ろうとするナシェルを励まし、酒を断たせて少しはまともな食事を摂らせ、生まれたばかりの王女と対面させて己の為すべきことの優先順位を再認識させ、その後は尻を叩いて暗黒界に送り届け通常の政務に復帰させるという、おそらくヴァニオンにしか出来ないであろう一連の難仕事を終わらせるまでは、私用で帰宅することなどとても出来なかったのだ。
久々に帰宅したヴァニオンは愛馬・炎醒の背から飛び降りて、手綱を家臣に預けると足早に屋敷の中に入った。
突然帰宅した若主人を出迎えようと集まってくる人々を無視して、着替えもせずに離れに向かう。
気がかりは、離れに幽閉しているサリエルのことだった。セファニアの死を、彼は知っただろうか。そうだとしたら、おなじ境遇にあった天上界の女神が消滅したことで、サリエルの生きる意思もまた薄弱になっているのではないか……。
離れに向かって廊下を歩むヴァニオンの耳には、いつもならばサリエルのつま弾く物悲しい鳥琴の音が聞こえていた。天王の情人であったサリエルは、ここに囚われて百年以上経つ今でも、天王レオンへの想いが忘れられず、思い出の曲を弾いては泣き暮らしているのである。
……だが、今日はどうしたことだろう。いくら離れに近づいても鳥琴の音色は聞こえてこない。ただひっそりと静まり返っているばかり。
(……まさか……)
嫌な予感に襲われたヴァニオンは駆け出し、サリエルの居室の分厚い扉に飛び付くようにして、鍵を解錠する手間さえもどかしく中へ踏み込んだ。
「サリエル!」
返事はない。ヴァニオンは部屋を見渡し、愛しい姿を探した。
「サリエル……!?」
衝立の向こうの高い寝台の上に、身じろぎする気配を感じた。
走り寄って衝立越しに覗くと、白い部屋着姿のサリエルが寝台の上に身を起こす所だった。
無事か……、と、ヴァニオンはひとまず胸をなでおろす。
「……………」
サリエルの青い瞳が、警戒と不服従の色を濃くしてヴァニオンを見上げた。たとえ命が尽きようとも、自尊心だけは失うまいという意思が感じられる。
なんだ、その眼は……、と口を云おうとしたヴァニオンより先に、サリエルが口を開いた。
「……お帰り……なさいませ……、」
そして彼は眼を逸らした。
燃え立つような瞳でこちらを睨んだときの気高さは一瞬にして消え失せ、かわりに浮かんだのは、“もう、何もかもどうでもよい……”とでもいいたげな、無気力な表情。
ヴァニオンは溜息をついて、羽織っていた緋色の裏打ちのマントを外した。衝立の背にそれを引っ掛け、喉の渇きを覚えて卓上の水差しを取る。杯に注がずに、直接喇叭呑みで水を含んだ。
「元気がないな。どうした? 鳥琴も弾けないほど弱っちまったのか?」
俯くサリエルの蒼白い姿を、ヴァニオンは観察する。……返事はない。まるで飛ぶことを忘れた青い鳥だ。
サリエルはただ瞳を伏せ、呼吸をするのも億劫そうにじっとしている。その頬は人形のように生気がなかった。
「おい……何とか云ったらどうだ」
ヴァニオンは寝台のへりに腰かけ、サリエルの腕を掴んだ。途端、あまりの細さに驚き、手を引く。……今より少しでも力を入れていたら、簡単に折れてしまっていたに違いない。
サリエルは腕を掴まれた痛みで、ようやくヴァニオンがそばに来たことに気づいたようだった。貌を持ち上げ、ヴァニオンの若く逞しい姿を目の前にして、彼は初めて怯えたように肩を震わせた。……そして、彼は、ヴァニオンの纏う衣装がいつもと違うことに気づいて、その立派な肩章といくつもの房飾りのついた黒い葬服を不思議そうに見上げた。
「ああ……この服か。王妃の葬式だったんだ。今は喪中だからな」
「王…妃……。セ、セファニア様が……?」
サリエルの顔が驚愕と悲しみに歪んだ。今初めて聞き知ったのだろう、その瞳に途端に涙が溢れだす。
サリエルは両の手で貌を覆って静かに嗚咽を漏らしはじめた。
彼にとってセファニアは正真正銘の同族。同じように冥界に住む囚われの身として、実際に会ったことはなくとも心の支えになっていた。
天の神族でありながら、冥界に嫁ぐことを受け入れ、冥王の妻となったセファニア。
しかし彼女は命の女神として莫大な神司を持つがゆえに、冥王の愛を受けても神族としての神々しい容姿を失うことはなく、冥府の城で皆に慕われて、静かに暮らしていたと聞く……。
(セファニアさま……。それに比べ私は…………)
自分とは、同じ冥界に囚われた神でもあまりに境遇が違いすぎる。
サリエルは月の女神と音楽の神、夫婦ではない二人の間に生まれた“庶子”である。両親の位もさほど高くないので、セファニアとは身分も天地の差があった。神司も、ここ冥界に連れて来られた途端に儚く消え去ってしまい、今も同郷のセファニアの「消滅」すら、感じ取ることができなかったのである。
天王の妹であるセファニアは、ここ冥界でも冥王に愛されて、巨大な冥界の頂点に立つ者の妃としてその生を終えた。なのに自分は、ここにいることさえ誰にも知ってもらえず、ただこの男の性奴隷として幽閉される身……。
境遇のあまりの違いを、サリエルは情けなく思う。
どうしてこうなってしまったのだろう?
セファニアが冥王の愛を受け入れたのと同様に、自分もこの魔族の愛を受け入れれば済むのか?
だがセファニアは冥王の妻となったことで、司も誇りも失ったわけではない。あくまで清らかに、女神として誇らかに生きたのだ。
自分がこの男の愛を受け入れるという事は、それとは違う。
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