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第一部 血族
7 闇の王①
しおりを挟むまるで姿見に映る己が、鏡を抜け出し襲い掛かってくるかの如く……。
それは真っ直ぐにこちらに向かってくる。
ナシェルは息を止めた。
いや……鏡ではない。冷静になれ。よく見ろ、あれは……。
己の本体だ。
冥界の王、闇の神。
己の……。
なぜここにいる。
という問いを、ナシェルは歯の裏でせきとめた。足を止めたまま動けず、彫刻のように立ち尽くす。
竦んでいるナシェルの目の前まであっという間の速さで近づいてきた冥王は、彼の傍に寄るなり彼をひっしと抱きすくめた。
否、抱きすくめたというよりは倒れ掛かったという方が正確か。ナシェルはそのあまりの勢いに不意を突かれてよろめいた。冥王の体を思わず抱きとめながら、側背の壁画に背をぶつける。息が詰まった。
抗議の声を上げようとした唇は、一瞬の差で間に合わなかった。セダルの唇が、早業というべきほかない急速さで迫ってきて、口から飛び出しかかった文句を塞いでしまったのだ。
「……!?」
顔を背けようとするも、背中に廻された手がするりと這い上がってきて、首筋を掴まれる。
息すら吸えぬ激しい口付けに、眩暈すら覚える。
「……待っ……陛、下」
手で押して何とか隙間を作ると僅かだが圧迫感から解放された。息の継ぎ目に、何とか言葉を吐き出す。
「何? 聞こえぬ」
セダルは仄かな抗議を無視して一層体を摺り寄せ、激しく唇を貪った。
息苦しさに口を開くと、途端に舌が滑り込んでくる。掻き回されるような感覚に、意識が遠のく。
それ以上の抵抗を諦めると、冥王は満足げな笑みを浮かべ、身を屈めてナシェルの首筋に唇を押し付ける。
鎖骨を舐め上げられ、ナシェルはびくりと身を震わせ、眼を閉じた。
必死に押し返そうとしていた手はいつの間にか遠慮がちに、冥王の服の袖を掴んでいる。
「……んっ」
耳を噛まれ、思わず声が漏れる。
挨拶がわりの口付けにはもう慣らされてしまっているが、今日の王は普段より幾分熱が籠っていて戸惑った。
強く撥ねつけようと思えばできなくもない。だが……。
冥王と己の奇妙な関係について、ナシェルはうまく説明する言葉を持たぬ。冥王は亡きティアーナを媒体として、分身たるナシェルをこの世に産ませた。有り余るおのれの神司を分け与える者として。その意味では父子、また本体と分身とも云える。
そして千年以上の刻を経、今ここにいる己は冥王の孤独を癒すための道具に成り下がっている……。
冥王が己をそのように貶めたのだ。長い長い教育という名の調教の果てに。
小さかった己ははじめ、ただ冥王を思慕し、全てを受け入れていた。
だが今は違う。すでに成神となった己は彼の狂気に倦み、逃れようともがいている。
だがその一方で、彼を本当に打ち捨てることができるのかと問われれば、それは否だ。なぜなら……。
王が、耳元で囁く。
「どうした、もう抗わぬのか……」
ふふ、と苦笑しながら覗き込んでくる紅玉の瞳は、明らかにからかいを含んでいる。ナシェルは物足りなく感じたが、さっきまで嫌がっていた手前、やめてくれるなと云うのは屈辱的に思え、むっと唇を尖らせてそっぽを向いた。
冥王は華やかな笑い声を上げた。
「そなたは分かりやすい子だ、ナシェル」
「もう子供ではありませぬ」
「余の生きてきた年月に比べれば、大抵の者は歯も生えぬ子供であろうよ、そなたとて……そういえば幾つになるのであったかな」
「さあ……」
ナシェルは首を傾げる。セダルはナシェルの掴みどころのない答えに不満を感じたのか、優美な眉を顰めた。
並んで立つと双子のように瓜二つの二人である。唯一異なる所といえば、瞳の色だけだ。
冥王の紅玉の瞳。天上界の神族の中で異端とされ見放された、忌まわしい血色だ。
だがこれほどまでに深い、慈愛に満ちたうつくしい真紅を、ナシェルは他に知らぬ。
父は断じて、醜くなどない……。
その昔……、創世主は三つの世界を造った。神々と、人と、異形の者たちのために。それが天上界、地上界、冥界である。
創世主は云った。
「吾が子である神たちを天の世界アルカディアに住まわせよう。そしてアルカディアの王を天王とし、神族の長としよう。
人間たちを地上界テベルに住まわせよう。そして吾が子たちに見守らせよう。
人が死んだのちに訪う世界を、冥界としよう。そこで人は生前に犯した罪を、暗黒の中で反省し償わなければならない。そして真に償った者のみが、もう一度人として生まれることができるようにしよう。
冥府にて人々の罪の重さを決める支配者を、冥王としよう。吾が子たちのうちの一人を冥界に落とし、これにあてよう」
そしてすべきことを終わらせてしまうと、子供達を残し新たな世界を創造するために異次元に去った。
天の世界アルカディアには神の子たちが住まい、互いに司るものを分担し、遍く精霊たちを支配して幾つもの巨大な浮き城を造った。彼等は光を司ることになった神々の長男、レオン神を長として、天王と呼んだ。
そして、彼らの中で唯一、黒髪と紅眼をしていたセダルを、冥界に落とすことに決めた。
彼等はセダルを追放すると、互いに結婚して子をもうけ、天界は繁栄していった。
一方、天界を追われ、ひとり冥界に落とされたセダルは長い間孤独に打ちひしがれ、狂気のなかで彷徨った。
突然やってきた、みたこともない美しい若者を、冥界に棲みついていた異形のものたち……魔族や、魔獣たちは、遠巻きに、恐々しながら見ているだけだった。
惚れ惚れするような容姿のうえに、すさまじい魔力を持っていると一目でわかったので、ある者は怖れ、追い出すべきだと云ったし、ある者は、この冥界を統一する王がついに現れたのではないかと云った。だがセダルが相変わらず神々への呪詛と悲しみの合間で狂気し、暗闇で蹲っていたので、誰も声をかけられずにいた。
……だが、彼のもとに、天界からひとりの女神が降りてきて彼を孤独から救った。
彼女はティアーナ……、天上界のお祭り騒ぎの毎日の中で、唯一、冥界へ追放されたセダルを気にしていたのだ。彼女は心配になって、自ら冥界の門をくぐり、やってきたのだった。
彼女の献身的な優しさと愛によって、ほとんど実体を失いかけていたセダルは永の狂気から目覚め、冥界を統べるという役割を思い出し、冥界統一に乗り出した。
セダルとティアーナは本当に愛し合っていたのに、天界の神々は、セダルがティアーナを連れ去ったのだとか、たぶらかしたのだとか噂して、ますますセダルを邪神と忌み嫌った。
ティアーナは冥界で子を……ナシェルを産んだが、元来アルカディアの神族には冥界の瘴気は毒であったので、それによって病み、消滅してしまった。
ティアーナは死に、残されたのは、双子のようなこの一対の父子のみ。
他のものはすべて、自分たちを置いて去っていく。
セファニアも、じきに去ろうとしている。
ナシェルには、冥王の孤独が分かる。
一万ほどいた金髪碧眼の神々の中で唯一、黒髪赤眼をしていたのだから、異端と呼べなくはない。
しかしその本性は決して邪悪などではなかったはずだ。
異形の者を蔑視し、追放し、闇神を狂気せしめた天上界の神々を、ナシェルも憎んでいる。
父が異常なほどに自分を愛するのも、己の孤独への恐怖からなのだろう。そしてまた、同じような容姿を持って生まれてきたナシェルを、己のように孤独にしてはならぬという思いからか。セダルは文字通りナシェルを溺愛した。
今に至るまで、ずっと……。
「父上、いい加減離してください、息苦しゅう存じます」
照れくささの裏返しに、ぞんざいに手を振り払うと、セダルは眼を細める。
「せっかく久しぶりに会えたのだ、もう少し嬉しそうにしてくれてもよさそうなものであろ。親不孝者」
云いながらも再び腰に手を廻してナシェルを引き寄せ、悪戯っぽく笑む。反応を楽しんでいるかのようだ。
「そういえば、どうしてここにおいでなのです。狩りの途中では……? それと氷獣界の戦況は?」
「伝文が届いたか? 前線のほうは膠着状態でな、ジェニウス(冥王の腹心)に任せておる。何とかするであろ。それより、こちらに戻る途中で幻獣界に立ち寄り、野生の黒天馬の群れを見つけたはいいが、こちらも手勢が少なかったのでな。慌ててそなたに使いをやったが、すぐ気づかれて逃げられた。凄かったぞ、100頭はいたな」
冥王は興奮気味に語った。馬を趣味とする王は、たびたび野生の黒天馬を捕獲し、手慣けた黒天馬を繁殖させて楽しむ。
氷獣界のさらに奥、永久凍土で暴れている魔獣を調伏するため軍を出しているが、こちらはあまり成果は上がっていないようだ。ナシェルの治める暗黒界は地上界と天上界へ向けての要砦で、こちらも重要であるため、ナシェルは討伐に加わる必要はない。
「そなたこそ、なぜここにおる。余に会いとうなったか」
ナシェルは息を呑んだ。この奥にはセファニア王妃の部屋があるのだ。そこから出てきた自分と鉢合わせて、冥王は疑いを持っただろうか?
「え? ええ、まあそんな所です。伝文を見て、黒天馬狩りの加勢に参じようか否かと……。しかしたとえ間に合わずとも、とりあえず冥府《ここ》まで来れば近々陛下がお帰りになられるだろうと思い、こうして待ち伏せておりました」
そう誤魔化すと、冥王はすっかりのせられた様子だ。
「よしよし、部屋で待っておれ。セファニアの顔を見たらすぐ参るゆえ」
王妃に会うだと? それはまずいと、とっさに、歩き出した王の腕を掴んでしまった。
嘘が口をついて出た。
「王妃はお寝み中でした、ご気分がすぐれぬとのことで……今しがた、見舞いに伺いましたが、侍女たちに追い返されてしまいました。今はそっとしておいたほうが……」
「そうなのか……余も案じていたのだが」
セダルは表情を曇らせたが、ナシェルが自分の腕を強く掴んでいるのを見て、またふわりと微笑む。
「わかった、そんなに急かさずとも良い。すぐ、抱いてやる」
「は……ぁ……?」
どうやら完全に勘違いをさせてしまったようだ。
呆気にとられているナシェルを、冥王はいきいきした仕草で促す。
「珍しいな、そなたから誘うなど」
声を低めたのは一応周囲に憚ってのことなのか。廊下の真ん中でいきなり脇目もふらずに襲い掛かってきておいて今さら何を憚るというのだろう。だが幸いにも、彼らのいる廊下に臣らの気配はなかった。
もたもたしている暇はない、とばかりにセダルは歩き出している。逆にがっしりと腕を掴まれて、引っ張られるままナシェルは後に続いた。
セファニアとの関係を感づかれるかと肝を冷やしたが、どうやら取り越し苦労だったようだ。予定には無い展開だがここは仕方がない……。
一本どころか二、三本抜けた王は嬉しそうに云ったものである。
「暗黒界など放っておいて、ずっとここに居ればよいのに」
「ですが私に暗黒界を賜さったのは父上ではありませんか」
「やっぱり取り上げてしまおうかな」
と平気な顔をして宣う父を、ナシェルは唖然と眺めるしかない。
「領地を没収されるほどの失敗はしておりません」
「それなら早くへまをせよ。これもそなたと過ごしたいが故だ。領地が無くなればまたこの城で余と仲良う暮らせるではないか。そうすれば今よりもっと沢山抱いてやるぞ、そなたの望みどおり」
「……」
眩暈で視界がぐるぐる回る。ナシェルは無言で天井を仰いだ。
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