泉界のアリア

佐宗

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第一部 血族

3 不吉な占い①

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 暗黒界エレボスから冥界の都である冥府まで、死者の歩みと共に行けばゆうに1500日はかかろう。しかし、ナシェルの乗る黒天馬・幻嶺セルシオンは駿馬の中の駿馬であった。宙を疾駆し千里を一日で往く。


 冥府の中心部、冥王セダルの宮殿を訪れたナシェルは、幻嶺の鞍上から背徳の魔都を眺め下ろす。
 天を覆うは暗鬱なる黒雲。我が物顔に宙を横行するは怪鳥ガーゴイルの群れである。

 相も変わらず死者の行列は芋虫のごとき速度で審判の間を目指しており、彼らの手足を縛する戒めからは軋んだ音が鳴り止まない。彼等は3年もかけて、冥界の最果てである三途の川ステュクスからこの宮殿を目指して歩いてくるのだ。

 宮殿の最下層にある審判の間において、彼等は冥王セダルからそれぞれの生前の功罪に応じて審判を下される。
 たいていの者は微罪を償い魂を浄化し、次なる生へ転生を果たすが、なかには大罪を犯したものもいる。そういう者は炎獄界ヘレス虚無界フィエートなどで奴隷として苦役を強いられる。そのあまりの過酷さに耐え切れず消滅する魂もいる。
 また奴隷としてさえ残す価値もないと冥王が断罪した魂は、冥界の最下層である奈落ゲヘナ行きの印璽を押され、即刻永久の闇に葬り去られるのだ。
 魂が消滅すれば生まれ変わることはできない。魂の浄化以外の、冥界のもう一つの仕事がこれである。大罪を犯したものが再び地上界で悪事を働かぬよう、その魂を消滅させてしまうこと。奈落への切符は常に片道であり、その発行は冥王の御璽ひとつできまるのだった。






 突然の訪問者が彼らの縄張りを侵しているのに怒り、怪鳥たちはギーギーと叫びを発して幻嶺セルシオンを取り囲む。無礼な包囲者たちに対し、死の神の愛馬は鼻を鳴らして応えた。
「卑しき魔獣ども」
 唇に笑みさえ浮かべてナシェルは云い放つ。
「お前らがこの冥界の狭き空をその汚らしい瘴気で穢し続けていられるのは、誰の寛大さゆえだと思っている? この剣の一振りで、お前らなど絶滅させてしまうことができようものを」

 その言葉を解したか、はたまた美貌の青年神の放つ冷気に怖気づいたのか、怪鳥たちは喚くのをやめて醜い顔を見合わせる。
「それとも種の絶滅もいとわずこの私に楯突こうというのか? その度胸だけは誉めてやる」
 ナシェルは云うなり、腰に佩いた剣を抜きかかった。炎獄界の焔で鍛えられた神剣・蒼眸の慈悲エイルニルである。
 鞘から少し垣間見せるだけで、その刀身からは黒々と光る神気が満ち溢れ、その力のあまりの大きさに、あわれな魔物たちはギャッと叫んで後ずさった。

 ナシェルが幻嶺の腹を蹴る振りをしただけで、彼等は完全に恐れをなし、惨めな悲鳴を上げて逃げ出し、あっという間に視界から消えうせた。
「ふん、毎度毎度、学習能力のない奴等だ」
 闇の王子はせせら笑い、乗騎に軽く鞭を入れる。主人の意を汲んだ幻嶺は、そのまま下方に見えている宮殿目指して駆け下りてゆく。ナシェルの黒髪は風を受けて優雅に靡き、その漆黒のマントは、黒き流星のように尾をひいて流れた。



◇◇◇



 冥王セダルの宮殿は、魔族たちの暮らす都の最も高い丘の上に、堅固な要塞のように聳え立っている。その規模は暗黒界エレボスにあるナシェルの居城と比べてもはるかに大きい。地盤となっている堅い岩盤を掘り下げて、地下数十階まで造らせたのだという。幼いころをここで過ごした彼ですら、まだ未知の場所は腐るほどある。

 幻嶺セルシオンが、宮殿の中庭のひとつに翼をはためかせて降り立つ。つむじ風が巻き起こり、中庭や回廊に居た侍女たちはドレスの裾を押さえて抗議の声を上げようとした。しかし馬の背からひらりと降りた長身をみるなり、代わりに出たのは切なげなため息。
「ナシェル様だわ」
「まあ、冥府にお越しになるなんてお珍しい……、お目にかかれるなんて、幸運よ」
「立派になられて。本当に陛下に似て麗しいお姿ですこと」
 ひそひそと云いあい、魔族の宮女たちは柱の影からナシェルを覗き眺める。

 ナシェルは侍女たちの関心など無視して、漆黒のマントを翻し歩き出した。冥王や家臣たちの政務の場である外殿を避け、王の私的な住居と後宮がある内殿に入る。

 病を抱える女神セファニアは、奥まった所にある寝室に引きこもっている。子供を身ごもってからは一層、人前に姿を現さなくなった。

 紅い絨毯の張られた壮麗な回廊を歩みながら、彼の思うことは美しき継母のことばかりである。

 神々しき天上界の神族……、麗しき囚われの姫。そして義理の息子との間の子を宿してしまった、罪深き王妃。セファニアのことを考えるたびに、ナシェルの体には灼熱の炎が奔る。愛の名の下に、その炎は拷問のようにナシェルの体を突き貫く。焼けた鉄串のように。
 しかし同時にそれは、棘をふくんだ快楽。禁断のものと知りつつそれに身を委ねることは、神としての単調な毎日をうるおす、唯一といってよい危険な娯楽であった。
 堕ちてゆくと判っていながら、彼はそれをとめる術を知らぬ。ただ奈落の底を見つめて己の愚かさを嘲笑するのみ。一時の遊戯のために身を滅ぼすかと、ヴァニオンは何度も激しく彼を責めたけれども。

「身を滅ぼす……結構ではないか。死ぬる術をほかに知らぬ我が身だ……。この思いが罪というなら謹んで、裁きを受けよう。もっとも……」
 ナシェルは呟く。
「もっとも、あれ・・に私が裁けるかどうか知らんが……」
 己を半身と呼び溺愛するあれが、果たして己を罰することができるのか……?
 ふ、と自嘲するも、それは一瞬のこと。彼は考慮すべき今ひとつの問題を思い出し、眉を顰めた。
 セフィの腹の子のことだ。

 父となる気持ち……、ナシェルの心はほんの僅かな歓喜と、押しつぶされそうに大きな後悔とで、張り裂けそうになる。その子の父親はあくまで冥王だ。自分はあくまで腹違いの兄として振舞わねばならぬだろう。生まれてくる子、そして父をも騙し続けなければならないという、自責の念や不安。そうした感情が心中で渦を巻くのだった。

 さて、今後どうするか……。

 自問するも、自棄的な己がいつも居て、なるようになれと結論を出すのを拒んでいた。
 憎らしい冥王への反発と挑戦と、もう後戻りはできぬとの想いから、彼はヴァニオンのいう「一時の遊戯」をかたくなに続けているのだ。



「兄上?」
 物憂げに歩くナシェルの姿を、見咎めて呼びかける者がある。それは露台に設けられた椅子から腰を上げ、もう一度ナシェルを呼んだ。
「兄上、お久しぶりでございます」
「……エベールか」
 ナシェルを兄と呼ぶその人影は、冥王の第二王子エベール・サロニエル・ヴェルゼフォニアである。

 ナシェルの異母弟にあたり、神と魔族・双方の血を引く半神半魔の王子だ。
 彼はテラスのテーブルの向こうにひっそりと立ち、ナシェルのほうを見つめていた。

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