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北方遠征編

降伏報告

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 二日後、ロルフはレオニクスの案内で沼地に来ていた。
 実際に来てみれば、沼地とは言え草の背は高く、遠くから見たら草原と見えなくもない土地である。

「この湿地帯の向こうがアイズオジュかあ」

 ロルフは目の上に手をやって覘くような仕草をするが、もちろん見えるわけではない。

 一通り見て満足したのか、ロルフは懐から紙を取り出してここまでのメモも続ける。趣味と実益を兼ねた地図作りをステラクラスの治療と他の二つの派閥の返答待ちの間に続けているのだ。

「フロスト・ブレイヴから一番近い人間の都市ですけれど、沼地の影響で一番遠い都市と言えますよ」

 レオニクスが後ろからやってきて、ロルフの呟きに応えた。
 先の決闘以来、ロルフによく話しかけにきて、こうして地図作りにも協力してくれている。曰く、実力が本物だと分かったからだとか、あれだけの力を見せつけられて慕わない闘牙族はいないだとか。
 武闘派と根っこは同じだな、なんてロルフは心の奥底で思いながらも受け入れている。

「これ、水に潜れたりしませんよね……」

 ピレアが細長い木の棒を沼地に突きながら言った。
 大抵の場所は泥に捕まるようにゆっくりと沈むのだが、時折、勢いよく沈む。草の茂みに隠され、小高い丘も見えるためか、ピレアが慎重に突きながら奥に進んでいた。

「危険なものはいる?」

 ロルフがレオニクスと傍に控えているアプリカドに聞いた。
 二人の答えは「否」。それを聞くとロルフは口元を緩めた。

「ピレア、大丈夫らしいし、少し潜ってみる?」
「ええっ! イヤですよぉ……」

 ピレアが湿地帯で飛び跳ねた。ちゃぷん、と音が鳴る。

「じょーだん。流石にこの寒さで浸かれとは言えないよ」

 ロルフも湿地に手を置いた。予想よりも、ぬるい湿気がロルフの手を迎え入れる。

「ボスからすれば寒いかもしれないっすけど、まだ温かい方っすよ」
「ここの水は温水だから、フロスト・ブレイヴに帰るまでの着替えがあれば大丈夫ですよ」
「もってないですぅう!」

 湿地帯の真ん中でピレアが頭を振り乱した。

「しないよ。流石にさせるならアプリカドにするから!」
「っす」

 ロルフの叫びに反応して、アプリカドが腰の武器を外した。

「いや、しなくていいから。沼地に浸かった後に外を長時間移動させるって言うのはどうかと思うよ。体調崩す可能性あるし、体が冷えて動きが鈍くなるかもしれないじゃん。一応アイズオジュから近いんだからさあ」
「沼地を超えるのは並大抵の労力ではありませんがね」

 レオニクスが前に出た。足首までを泥に沈め、アイズオジュの方向を睨む。

「藁や草を敷いて横断するとか、過去にやった記録は?」

 湿地帯に草葉を落として横断するための道を作るのは、軍勢を動かすという点においては常套手段である。

「そうは言いましても生えているのはこの湿地帯の辺り。他の植物は食用にもなりますので、それをして沼地を超えても、結局は食糧不足で立ち止まりますよ。周りからの印象もかなり悪化して、勝ったのかどうかわからなくなります。そもそも、この沼地を超えるだけの草葉を集められないって言うのがまずもって問題です」

 レオニクスが手を広げながら、辺りを見た。ロルフも同じく周りを見る。
 湿地が近いということで地盤が緩んでいるのか、大木は生えておらずあっても腰あたりまでの草。それも、年がら年中生い茂っているような植物ではない。
 逆に言えば、生い茂っている今は先程アプリカドも言ったようにここにしてはまだ温かい季節である証明だろう。

「噂通り、このルートで大軍が押し寄せることはほとんどないか」
「陸続きのサフアンか、船を使って大河を渡航することによって大量輸送ができるカイーブから、というのが祖父の代からの人間侵攻の予想です。有力なのは沼地に少数の兵を配備してこちらの数を減らし、サフアンからの突撃。ある程度押したところで大河を利用した物資の大量輸送をカイーブから。勇者一行と人間が来たときは、カイーブ近郊で戦いました」

 ロルフは頭の中で新しく描いた地図に駒を置く。
 サフアンの方面は配下の神狼族から聞いただけだが、獣道のような抜け道は少しあり、一人が抜けられるかどうかだがかく乱には使えるだろう。開けた場所での戦闘以外に、その小道をどちらが抑えるかというのが重要になってくるはずだ。そうなった際、数も多く死んでも甦る物量の人間と、個人の武勇に勝るが数が少ない質の闘牙族、どちらが小道を最後まで制圧下に置けるのか。

「沼地を抜かれたらフロスト・ブレイヴが脅かされるのは間違いないですけど、両翼からの援護が前提の話ですよ」
「え、でもですよ、私たちを賄えるほどの食糧生産ができるようになった今は、乱取りしていけば食糧問題はかいけつするんじゃないですか……なんて、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 言葉の途中で人の気配がしたからか、ピレアが沼地に足を埋めながら、勢いよく頭を下げ始めた。
 気配を感じ取れていないのか、レオニクスが呆れたような驚いたような顔でロルフを見る。ロルフは、とりあえず肩をすくめた。

「まあ、そこはお爺様の時とは違うからな。だが、軍に必要なのは食糧だけじゃない。武器も、規律を守るために異性もいる。矢は少量だが生産されているが、銃は闘牙族の間ではコストに見合った働きを見込めないからな。弾が尽きれば銃としての今後を捨てて無理矢理強化して殴り掛かるか、邪魔を覚悟で背負い続けるしかない」

 弾に籠められる魔力量程度では、闘牙族の皮膚を傷つけることはできない。
 鈍器としての利用も同様で、精密な機構を駄目にする覚悟で殴り掛からない限りは威力を発揮できないだろう。

「軍の外に下卑な欲望を求められても、一対一では闘牙族に敵うわけがない。別の種族に行けばそこも積極的な敵に回すだけだしな。アイズオジュからの輸送には沼地を通らねばならないが、自力で動けないものを運べるような沼ではない」

 レオニクスが完全にピレアに説明するような形で言い切った。
 ピレアの言葉の途中で現れたメゼスの分身体が粘体から人間の形に代わる。

「短期間でフロスト・ブレイヴを壊されるだけでも被害は甚大だけどねぇー。資材的にも、精神的にもぉ、ちょぉーっと、アレイスター・ヘネラールの不利になるよねぇ」

 流石に人間態になれば気づいてはいたのか、レオニクスが悠然とメゼスに振り返る。
 胸は多少張っており、ロルフと同じように認められているわけではないらしい。

「アファナーン殿か。如何した?」

 硬質な武人然とした声が大気を揺らす。

「えっとねぇ、不遇派の……えっとぉ……」
「スパイトフル?」

 ロルフが口を挟む。

「あぁ。そうそう。スパイトフル・ラングレーが降伏するってさぁ。開門するからぁ、乗り込むってぇ。えっと……ステラクラス・ヴェルシッチの傷も良くなったしぃ、武闘派も引き連れていくので、帰ってきてって」
「相分かった。戻りましょうか、ガイエルさん」

 前半は最初に会った時のような雰囲気で、後半はやわらかくレオニクスが言う。
 ロルフは右手を口に当てて、人差し指だけを一本、立てた。払うように動かす。

「もう少しでここの地図が完成するから、ちょっとだけ時間くれないかなあ」

 メゼスの空虚な翡翠がロルフを見た後、得心が言ったように光が戻ってきた。

「レオニクス・ヘネラールはぁ、いちおー闘牙族の軍隊のとりまとめだから先に帰ってきてもらうけどいーい?」
「俺はいいけど」

 ロルフはそう言って、レオニクスを見つめた。
 レオニクスが首を縦に動かした。

「あまり遅くならないでくださいよ」

 そう言って、一足先に戻り始める。メゼスの「チョコチップクッキー、食べるぅ?」という声が聞こえて、「要らない」とレオニクスが断った。二人が、メゼスの短距離転移で消える。フロスト・ブレイヴまではたどり着かないから、メゼスの散らばした粘体を中継地点に、何度か行うのだろう。

 アプリカドが立ち上がり、ピレアが沼地から出てきてロルフに近づいた。

「で、用件はなーんだ」

 ロルフが草の影に言った。
 金糸雀色(かなりあいろ)(少しくすんだ、黄色)の髪をした、小柄なピレアよりも小柄で細身の雷獣、ベルファが現れる。
 先の気配の一つ。きっと、メゼスも正体を探っていたから出るのが遅れたのだろうと、ロルフはあたりをつけている。

「クノヘ様からの伝言がございます」
「俺に?」
「陛下への手紙は、既に届けて参りました。万が一私が捕まった際、漏れると厄介なのでガイエル様には口頭で言うようにと、厳命されております」
「重要な話だなあ。人払いは? 必要?」

 アプリカドが一歩下がり、ピレアも続いた。

「いえ。神狼族の皆様には知っていただく必要もあるかと思います」

 アプリカドとピレアの動きが止まった。

「で、その用件は?」

 ベルファの紫眼がゆっくりと持ち上がり、ロルフの黄色い目と合った。

「アレイスター・ヘネラールへの警戒を怠るな、と」
「アレイスター?」
「はい。アラクネが前四天王の家系に手紙を送っているのはご存じかと思います。あれは、一通ではなく、多数送っていたと、エルマロ・オフィシエ様が直々にヴァシム城に持ってこられました。最初の一通だけ封を開け、残りは見もせずに陛下に全て献上すると」
「あー」

 エルマロは、これまでの無駄に傀儡を借りるなどと同じく、完全に忠誠心だけを示す、ご機嫌取りのパフォーマンスである。
 一方のアレイスターのは疑惑を逸らすための意味合いも含むパフォーマンスか。散り散りになった手紙と言うのはインパクトは大きく、他の手紙があるのかという追及をできる人はいないだろう。しかも、散り散りにしたのはレオニクスだ。

「南部に居るオフィシエ様だから多くの手紙が来た可能性はございますが、ヘネラール家にも一通だけとは考えにくいと思います。くれぐれも、陛下の身に凶刃が降りかかること無きように、と。クノヘ様からの命にございます」
「じゃあ、リザの槍でも持っておこうかな」

 大剣は修復中であり、早く直さなくてはいけないのだが、何となく大剣を闘牙族に見せるのは気が引けている。

「陛下さえご無事であれば」

 ベルファが頭を下げた。
 ベルファの本心と言うよりも、バックのナギサの意思だろう。

「じゃ、そうする」

 ベルファが腰を上げた。

「そういやさ」

 ベルファの腰がまた下がる。

「雷獣はこの沼地を突貫できる?」

 ベルファの目が沼地に向いた。

「闘牙族や人間よりは速く踏破できますが、あまり推奨できないルートにはなります」
「ん。どーも」

 ロルフは手をひらひらと振ってから背を向けた。ベルファの気配が遠くに離れていく。

「じゃ、とりあえずメゼスに会えるような道を通りながら帰りますか」
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