この街で

天渡清華

文字の大きさ
上 下
32 / 61
3

3-6

しおりを挟む
 夢中だった。ガラスの向こうのスタッフはもちろん、キヨヒトのことすら見えていなかった。ただひたすら、聞こえてくる音とキヨヒトの歌声に集中した。
 間奏でキヨヒトが、満足げな笑顔でシュウの肩に肩をぶつけてきた。あっちを見ろとあごをしゃくる。そこには、あっけにとられたような、感動したような、そんないくつもの顔。
「さすがだな、俺の歌い方にあわせる余裕まであるなんて」
 歌い終わると、キヨヒトに力強く肩を抱かれた。心なしか、瞳が潤んでいる。数年越しでシュウをデビューさせることを考えていたキヨヒトにとっても、報われた思いがしただろう。
 シュウは内心、本当にほっとした。初めて歌を聴くスタッフだけでなく、キヨヒトまでも実力で殴ることに成功したらしい。それになにより、やはり歌は楽しい。
「よし、次はシュウにメインを歌わせて、俺がハモに回るぞ」
「はい!」
 キヨヒトがガラスの向こうのスタッフにマイク越しに伝えると、即座に反応のいい返事。心なしかさっきより動作も機敏だ。キヨヒトとシュウは笑顔を見あわせる。
「見ろ、さんざんいろんなプロと接してきたスタッフがこうなんだから、俺達の歌は世間をあっと言わせるぞ」
 シュウは高揚している心を感じながら、強くうなずいた。野望がむくむくと立ち上がってくる。
 全国に、世界に、自分達の歌が流れる。もう、あんな狭くて限られた客しか入れない店で歌うのはやめだ。あのうるさくて欲望に澱んだ街も出よう。広い世界に飛び出して、大勢の人達の前で歌おう。
 再び流れ出した曲に、シュウはつや消しの野望を詰めこむようにして歌った。

 シュウは録りたての歌をダイスケに聴いてもらおうと、HEAVENの前でタクシーを降りた。もうそろそろ閉店の時間だから、帰るダイスケと一緒に部屋に行ってしまおうという魂胆だ。
 タクシーを降りてすぐだというのに、身体にまとわりつく熱気にたちまち汗が出てきた。腕で額の汗を拭いながら、店の裏口に回る。
 シュウは裏口のドアに手をかけようとして、少し離れた所で壁にもたれて立っている人影に気づいた。壁に預けた頭は少し上を向き、ネオンのせいで星も見えない夜空を見上げているようだった。その横顔とすらっとした背格好に、見覚えがある。
「……ダイスケさん?」
 影はシュウの方を向くと、ゆっくり歩いてきた。顔がネオンの明かりに照らされる。やはりダイスケだ。左手にはコック帽を持っている。
「どうしたの、そんなとこで」
 すぐ会えてうれしかったが、店には休憩スペースもあるのに、暑い中なぜわざわざあんな所にいたのか。少し気にかかる。
「うん、ちょっと休憩」
 ダイスケは少し疲れているのか、力なく笑う。
「最近忙しいんじゃない? 大丈夫?」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】忌み子と呼ばれた公爵令嬢

美原風香
恋愛
「ティアフレア・ローズ・フィーン嬢に使節団への同行を命じる」  かつて、忌み子と呼ばれた公爵令嬢がいた。  誰からも嫌われ、疎まれ、生まれてきたことすら祝福されなかった1人の令嬢が、王国から追放され帝国に行った。  そこで彼女はある1人の人物と出会う。  彼のおかげで冷え切った心は温められて、彼女は生まれて初めて心の底から笑みを浮かべた。  ーー蜂蜜みたい。  これは金色の瞳に魅せられた令嬢が幸せになる、そんなお話。

(本編完結・番外編更新中)あの時、私は死にました。だからもう私のことは忘れてください。

水無月あん
恋愛
本編完結済み。 6/5 他の登場人物視点での番外編を始めました。よろしくお願いします。 王太子の婚約者である、公爵令嬢のクリスティーヌ・アンガス。両親は私には厳しく、妹を溺愛している。王宮では厳しい王太子妃教育。そんな暮らしに耐えられたのは、愛する婚約者、ムルダー王太子様のため。なのに、異世界の聖女が来たら婚約解消だなんて…。 私のお話の中では、少しシリアスモードです。いつもながら、ゆるゆるっとした設定なので、お気軽に楽しんでいただければ幸いです。本編は3話で完結。よろしくお願いいたします。 ※お気に入り登録、エール、感想もありがとうございます! 大変励みになります!

お兄様、奥様を裏切ったツケを私に押し付けましたね。只で済むとお思いかしら?

百谷シカ
恋愛
フロリアン伯爵、つまり私の兄が赤ん坊を押し付けてきたのよ。 恋人がいたんですって。その恋人、亡くなったんですって。 で、孤児にできないけど妻が恐いから、私の私生児って事にしろですって。 「は?」 「既にバーヴァ伯爵にはお前が妊娠したと告げ、賠償金を払った」 「はっ?」 「お前の婚約は破棄されたし、お前が母親になればすべて丸く収まるんだ」 「はあっ!?」 年の離れた兄には、私より1才下の妻リヴィエラがいるの。 親の決めた結婚を受け入れてオジサンに嫁いだ、真面目なイイコなのよ。 「お兄様? 私の未来を潰した上で、共犯になれって仰るの?」 「違う。私の妹のお前にフロリアン伯爵家を守れと命じている」 なんのメリットもないご命令だけど、そこで泣いてる赤ん坊を放っておけないじゃない。 「心配する必要はない。乳母のスージーだ」 「よろしくお願い致します、ソニア様」 ピンと来たわ。 この女が兄の浮気相手、赤ん坊の生みの親だって。 舐めた事してくれちゃって……小娘だろうと、女は怒ると恐いのよ?

私のことを愛していなかった貴方へ

矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。 でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。 でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。 だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。 夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。 *設定はゆるいです。

ブレスレットが運んできたもの

mahiro
BL
第一王子が15歳を迎える日、お祝いとは別に未来の妃を探すことを目的としたパーティーが開催することが発表された。 そのパーティーには身分関係なく未婚である女性や歳の近い女性全員に招待状が配られたのだという。 血の繋がりはないが訳あって一緒に住むことになった妹ーーーミシェルも例外ではなく招待されていた。 これまた俺ーーーアレットとは血の繋がりのない兄ーーーベルナールは妹大好きなだけあって大いに喜んでいたのだと思う。 俺はといえば会場のウェイターが足りないため人材募集が貼り出されていたので応募してみたらたまたま通った。 そして迎えた当日、グラスを片付けるため会場から出た所、廊下のすみに光輝く何かを発見し………?

超絶美形な悪役として生まれ変わりました

みるきぃ
BL
転生したのは人気アニメの序盤で消える超絶美形の悪役でした。

婚約破棄はいいですが、あなた学院に届け出てる仕事と違いませんか?

来住野つかさ
恋愛
侯爵令嬢オリヴィア・マルティネスの現在の状況を端的に表すならば、絶体絶命と言える。何故なら今は王立学院卒業式の記念パーティの真っ最中。華々しいこの催しの中で、婚約者のシェルドン第三王子殿下に婚約破棄と断罪を言い渡されているからだ。 パン屋で働く苦学生・平民のミナを隣において、シェルドン殿下と側近候補達に断罪される段になって、オリヴィアは先手を打つ。「ミナさん、あなた学院に提出している『就業許可申請書』に書いた勤務内容に偽りがありますわよね?」―― よくある婚約破棄ものです。R15は保険です。あからさまな表現はないはずです。 ※この作品は『カクヨム』『小説家になろう』にも掲載しています。

婚約者すらいない私に、離縁状が届いたのですが・・・・・・。

夢草 蝶
恋愛
 侯爵家の末姫で、人付き合いが好きではないシェーラは、邸の敷地から出ることなく過ごしていた。  そのため、当然婚約者もいない。  なのにある日、何故かシェーラ宛に離縁状が届く。  差出人の名前に覚えのなかったシェーラは、間違いだろうとその離縁状を燃やしてしまう。  すると後日、見知らぬ男が怒りの形相で邸に押し掛けてきて──?

処理中です...