棘を編む繭

クナリ

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第三章 6 

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 翌日の火曜日。
「入部希望者ですか? 一年生?」
 目の前に立ってそう言ってきた尾幌エツに、シイカは圧倒されそうだった。
 放課後の化学準備室のドアをノックしてみると、中から出てきたのは、まっすぐな髪を肩先まで下ろした女生徒だった。整った顔立ちは大人びていて、二年生と聞いていたが、シイカにはとても自分が一年後に同じ雰囲気をまとえるとは思えない。
「あ、ええと、そうなんです。私、鳴島といいます、化学が好きで……詳しくはないんですけど、それでもやっぱり、好きなものですから」
 本当は化学など、授業の内容ですらシイカはさっぱり興味が持てなかった。そして相変わらず、慌てると語彙が幼くなることに赤面する。
「中へどうぞ。実質部員は二人しかいないようなものなので、構えることはないですよ」
 広々とした隣の化学室とは違い、科学準備室は狭い。戸棚の中に入っている器具は、シイカには用途さえまるで分からない。
「座ってください。火曜と木曜は、もう一人の部員はほとんど来ないので、あとは顧問の茎川先生くらいしか来ません」
 茎川からもそう聞いている。だからこそ今日来たのだ。エツと関係を深めるには、二人きりになれる日の方が都合がいい。
「あの、先輩は」
「尾幌といいます」
「尾幌先輩は、ご趣味などは」
「趣味? 一応、部活ですね」
 シイカは昨晩、エツと何を話せばいいのか、必死に考えた。そして、特にこれといった話題が思いつかなかった。趣味など聞き出せれば何とかなるかと思ったが、それが化学ではシイカには盛り上げようがない。
 慌てるシイカに、エツが穏やかに語りかけた。
「そんなに緊張しないで。私、女子の後輩がここに興味を持ってくれるなんて、とても嬉しいの。平語で放してもいい?」
「へ、へいご?」
「敬語じゃなくて、普通にってこと」
「いいに決まってますよ、私、後輩ですし」
「ありがとう。よかったら、何かやってみる? その辺りの器具なら、どれでも使えるから。準備の仕方も、洗い方も教えてあげる」
 口調が砕けると、互いの間の空気も柔らかくなった。シイカの肩から重さが取れる。
 その時、化学準備室の引き戸が開いた。
「あれ、珍しいね。尾幌と空木以外の生徒がいるなんて」
 果たして、入ってきたのは茎川だった。シイカにも、あるかないかのかすかなこわばりが、エツから感じられた。シイカと茎川はお互いに顔見知りだが、目配せもせずに初対面のふりをして挨拶を済ませる。
「先生こそ、こんなに早く準備室に見えるなんて珍しいですね」
「ああ、たまにはね」
「約束しましたものね。私を避けたりしないって」
「そ、そうだね。尾幌、あまりその話は」
 茎川の声を無視して、エツがシイカを振り向く。
「鳴島さん、下の名前は何ていうの?」
「シイカです」
「シイカちゃんね。私ね、この先生に告白したの、先週」
「尾幌!?」
「隠すようなことではないと思いますから。少なくとも、私にとっては。私は、だめならだめで、これまで通りに過ごしたいと思っています。でも少なくとも、お返事をいただけるまでは無理みたいです。ごめんなさい、私の方から避けないでくださいってお願いしたのに」
 エツが机の上で重ねた手が、細かく震えているのがシイカにも見えた。
「いや。今日のところは、僕が席を外すよ。君を避けてるわけじゃないからね」
 そう言って、茎川は出て行った。深く息を漏らして、エツがシイカを見た。目元がうるんでいる。
「あれはね、断り方を考えてるの。分かるのよ、それくらい」
 エツは、スカートのポケットからハンカチを取り出して目元を抑えた。「ごめんね、変な感じになって」と言うので、慌ててシイカは首を横に振る。
「シイカちゃん、女同士、どこか行こうか。こんな狭いところにいて、いいことなさそうだもんね、今日は」
「あの、私、誰にも言いません。今の話」
 エツが照れたように笑う。
「ありがとう」
 二人は席を立った。鍵を閉める必要はないというので、引き戸を閉めただけで化学準備室を後にする。
 昇降口に着くと、シイカの下駄箱は当然ないので、エツに
「私お手洗いに行くので、先輩は先に出ていてください」
と言ってその場を離れようとした。外履きは昇降口の脇に隠してある。
「エツ」
 男子の声がして、二人は振り向いた。そこには、黒い髪を緩めの七三分けにした、眼鏡の男子生徒が立っていた。
「トワノ」
「珍しいな、今日はもう帰りか?」
「トワノは今日生徒会で、部室には来ないでしょ。いいじゃない」
 この人が空木トワノか、とシイカは胸中でつぶやいた。髪の分け方が緩くても、やはり七三だとかなり真面目そうに見える。
 エツは手早くローファに履き替えると、昇降口を出て行った。シイカもトイレに行くふりをして、外履きに履き替える。
「お待たせしました、尾幌先輩。今の方、もう一人の部員さんですか」
 なるべく自然にそう確認を入れる。
「そう。空木トワノっていうの」
 さっさと校門へ向かおうとするエツの後ろで、シイカは振り返った。トワノはまだ、エツを見送っている。シイカは目を凝らした。トワノの体を包む繭が見える。
 トワノの繭は落ち着きなく動きながらも、温かみを湛えていた。
 人の心を覗くようで少々後ろめたいため普段は控えているが、こうした繭を見るのは、シイカにとっては心地よかった。
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