14 / 45
第三章 3
しおりを挟む
洗い物の水音はすぐに止まり、クツナが戻ってきた。
「……何を呆けてるんだ」
「何だか、私、すごく誉められました……。こんなこと初めてです」
「別におだてたわけじゃないぞ。僕の職場の塾にも勘違いしてるおじさんがたくさんいるけどな、誉めて伸ばすっていうのは目下の者の機嫌を取ることじゃない。行動と結果を正当に評価するということだ」
「もう、逆にやるせない感じです」
「何の逆だかさっぱり分からないが」
クツナは用事があって出掛けるというので、シイカも帰り支度をした。
「僕は先に出るよ。茎川さんの依頼については考えていることがあるから、また連絡する。父も奥にいるから戸締まりだとかはしなくていい、それじゃ」
そう言って、クツナは出ていった。
シイカが忘れ物がないか一通り確認していると、クツナの父、クツゲンが居間に入ってきた。古いもののようだが仕立てのいい背広に、ネクタイのないワイシャツ姿だが、これがクツゲンの普段着である。
「あっ、あの、お邪魔……してます。クツゲン、さん」
以前シイカは、クツゲン本人から、名前で呼べばいいと言われていた。最初の頃に比べれば打ち解けてきたが、それでも少し、気後れしてしまう面もある。
「あれとは、仲良くやってくれているようだな」
「仲良いといいますか、そうですね、普通に」
「あれが、私生活上で友人を作るのは久しぶりだ。仕事でも世話になっているようだし、あなたには感謝している」
「そんな、私こそ……」
今日はずいぶん持ち上げられる日だ。照れていると、クツゲンが台所に向かった。飲むものを淹れるのだろう。
「クツゲンさん、私やります」
「あなたは、仕事が終わればこの家にとっては客人だ。そんなことさせるものかよ」
「でも」
「俺の指のことを、あれから聞いているんだな。心配無用、指が切れていても日常生活には問題ない。繭に対して無感覚になるだけだ」
そう言われると、シイカも手の出しようがない。所在なく座り直すと、クツゲンが麦茶のグラスを二人分持って戻ってきた。
「あれはどうせ、コーヒーでも出したんだろう。喉が乾いたろうに」
「そんなことはないですけど。す、すみません」
「言ったろう、客人だと。ああいや、帰るところだったのかな。これは失礼した。どうも家に依頼人以外が入るのが久しぶりで、調子が出ん」
「クツナさん、あまりお友達を家に呼ぶ方ではないんですね」
「うちはちょっと変わってるしな。繭使いの施術台なんか見られて、ありゃなんだと聞かれても困るんだろう。あれの母親は早くに死んだが、友達は多かった割りに、やはり家にはあまり呼ばなんだな」
「クツナさんのお母さんて、どんな方だったんですか」
「なぜ俺のところに嫁に来たんだろうと思うくらい、朗らかだったな。よく笑っていた。だから、自殺した時は皆が驚いた」
シイカの持っているグラスの水面が、かくりと揺れた。
「え……」
「隠したいことでもない。近所は皆知っていることだしな。首を吊ったんだ。遺体は、クツナが見つけた。なぜそんなことになったのかは、遺書もなく、誰も知らん」
「そんな……私、全然……」
「あなたが気にすることじゃない。いきなりこんな話をして悪かったが、妙に気を遣い合うよりはいいと思ってな。俺が見たのは、母親の遺体を縄から下ろしたらしいクツナが、その蘇生を試みている姿だった。母親の体にはまだかすかに繭が残っていたが、死にゆく体にとっては、それも生命の名残に過ぎない。繭使いには、死者復活の技術はない。それどころか、禁忌だ。それを知っていながら、ぼろぼろに崩れていく繭に触れていたあれはその時、まだ中学二年生だった」
シイカの喉は、乾いてひりついていた。けれど、もう一度グラスを持つだけの力が指先に入らない。
「あれの指が二本切れているのは知っているか? 俺が知る限り、その日の直前までは十本とも無事だった。母親を生き返らせようとして、無茶したのだろうよ。まあ俺も、人のことは言えないんだが」
「じゃあ、クツゲンさんも……?」
「さてな」
クツゲンが話し終えると、エアコンが低く唸る音だけが響いた。
何呼吸か置いてから、クツゲンが嘆息する。
「それ以来だ、それまでもそうそう友達なんぞ家に呼ばなかったあれが、いよいよ人をここに入れなくなったのは。それまでには一緒に遊んでいた女友達なんかもいたようだが、少なくとも家には上げなくなったな。だから、あんたは久しぶりの客人なんだ。仕事ではなく、この家のな。……変な話、しちまったかな」
「変だなんて、そんなことないです」
自分で思ったよりも強い口調になってしまい、シイカは慌てて、
「私には、どうしていいか分からないことですけど……」
と静かに付け足した。
するとクツゲンが、傍らにあったメモ用紙に住所のようなものを書きつけ、シイカに渡した。
「よかったら覗いてやってくれ。あいつのアルバイト先の塾だ。今日は特別補講とやらでここに行ったはずだ」
「え、でも、勝手にそんな」
「あんたは、あれや、もちろん俺の、部下でも家来でもない。興味を持ったら何でも見ればいいし、そうでなければ見なければいい。勝手なんてことがあるかよ」
「そう言われると、少し見てみたいような……」
「塾はちょうど、あんたの帰り道にあるよ。駅の近くだ」
クツゲンは、濃いしわの奥にある唇の端を、軽く歪めた。笑ったのかもしれない、とシイカは思った。
「……何を呆けてるんだ」
「何だか、私、すごく誉められました……。こんなこと初めてです」
「別におだてたわけじゃないぞ。僕の職場の塾にも勘違いしてるおじさんがたくさんいるけどな、誉めて伸ばすっていうのは目下の者の機嫌を取ることじゃない。行動と結果を正当に評価するということだ」
「もう、逆にやるせない感じです」
「何の逆だかさっぱり分からないが」
クツナは用事があって出掛けるというので、シイカも帰り支度をした。
「僕は先に出るよ。茎川さんの依頼については考えていることがあるから、また連絡する。父も奥にいるから戸締まりだとかはしなくていい、それじゃ」
そう言って、クツナは出ていった。
シイカが忘れ物がないか一通り確認していると、クツナの父、クツゲンが居間に入ってきた。古いもののようだが仕立てのいい背広に、ネクタイのないワイシャツ姿だが、これがクツゲンの普段着である。
「あっ、あの、お邪魔……してます。クツゲン、さん」
以前シイカは、クツゲン本人から、名前で呼べばいいと言われていた。最初の頃に比べれば打ち解けてきたが、それでも少し、気後れしてしまう面もある。
「あれとは、仲良くやってくれているようだな」
「仲良いといいますか、そうですね、普通に」
「あれが、私生活上で友人を作るのは久しぶりだ。仕事でも世話になっているようだし、あなたには感謝している」
「そんな、私こそ……」
今日はずいぶん持ち上げられる日だ。照れていると、クツゲンが台所に向かった。飲むものを淹れるのだろう。
「クツゲンさん、私やります」
「あなたは、仕事が終わればこの家にとっては客人だ。そんなことさせるものかよ」
「でも」
「俺の指のことを、あれから聞いているんだな。心配無用、指が切れていても日常生活には問題ない。繭に対して無感覚になるだけだ」
そう言われると、シイカも手の出しようがない。所在なく座り直すと、クツゲンが麦茶のグラスを二人分持って戻ってきた。
「あれはどうせ、コーヒーでも出したんだろう。喉が乾いたろうに」
「そんなことはないですけど。す、すみません」
「言ったろう、客人だと。ああいや、帰るところだったのかな。これは失礼した。どうも家に依頼人以外が入るのが久しぶりで、調子が出ん」
「クツナさん、あまりお友達を家に呼ぶ方ではないんですね」
「うちはちょっと変わってるしな。繭使いの施術台なんか見られて、ありゃなんだと聞かれても困るんだろう。あれの母親は早くに死んだが、友達は多かった割りに、やはり家にはあまり呼ばなんだな」
「クツナさんのお母さんて、どんな方だったんですか」
「なぜ俺のところに嫁に来たんだろうと思うくらい、朗らかだったな。よく笑っていた。だから、自殺した時は皆が驚いた」
シイカの持っているグラスの水面が、かくりと揺れた。
「え……」
「隠したいことでもない。近所は皆知っていることだしな。首を吊ったんだ。遺体は、クツナが見つけた。なぜそんなことになったのかは、遺書もなく、誰も知らん」
「そんな……私、全然……」
「あなたが気にすることじゃない。いきなりこんな話をして悪かったが、妙に気を遣い合うよりはいいと思ってな。俺が見たのは、母親の遺体を縄から下ろしたらしいクツナが、その蘇生を試みている姿だった。母親の体にはまだかすかに繭が残っていたが、死にゆく体にとっては、それも生命の名残に過ぎない。繭使いには、死者復活の技術はない。それどころか、禁忌だ。それを知っていながら、ぼろぼろに崩れていく繭に触れていたあれはその時、まだ中学二年生だった」
シイカの喉は、乾いてひりついていた。けれど、もう一度グラスを持つだけの力が指先に入らない。
「あれの指が二本切れているのは知っているか? 俺が知る限り、その日の直前までは十本とも無事だった。母親を生き返らせようとして、無茶したのだろうよ。まあ俺も、人のことは言えないんだが」
「じゃあ、クツゲンさんも……?」
「さてな」
クツゲンが話し終えると、エアコンが低く唸る音だけが響いた。
何呼吸か置いてから、クツゲンが嘆息する。
「それ以来だ、それまでもそうそう友達なんぞ家に呼ばなかったあれが、いよいよ人をここに入れなくなったのは。それまでには一緒に遊んでいた女友達なんかもいたようだが、少なくとも家には上げなくなったな。だから、あんたは久しぶりの客人なんだ。仕事ではなく、この家のな。……変な話、しちまったかな」
「変だなんて、そんなことないです」
自分で思ったよりも強い口調になってしまい、シイカは慌てて、
「私には、どうしていいか分からないことですけど……」
と静かに付け足した。
するとクツゲンが、傍らにあったメモ用紙に住所のようなものを書きつけ、シイカに渡した。
「よかったら覗いてやってくれ。あいつのアルバイト先の塾だ。今日は特別補講とやらでここに行ったはずだ」
「え、でも、勝手にそんな」
「あんたは、あれや、もちろん俺の、部下でも家来でもない。興味を持ったら何でも見ればいいし、そうでなければ見なければいい。勝手なんてことがあるかよ」
「そう言われると、少し見てみたいような……」
「塾はちょうど、あんたの帰り道にあるよ。駅の近くだ」
クツゲンは、濃いしわの奥にある唇の端を、軽く歪めた。笑ったのかもしれない、とシイカは思った。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
就職面接の感ドコロ!?
フルーツパフェ
大衆娯楽
今や十年前とは真逆の、売り手市場の就職活動。
学生達は賃金と休暇を貪欲に追い求め、いつ送られてくるかわからない採用辞退メールに怯えながら、それでも優秀な人材を発掘しようとしていた。
その業務ストレスのせいだろうか。
ある面接官は、女子学生達のリクルートスーツに興奮する性癖を備え、仕事のストレスから面接の現場を愉しむことに決めたのだった。
スケートリンクでバイトしてたら大惨事を目撃した件
フルーツパフェ
大衆娯楽
比較的気温の高い今年もようやく冬らしい気候になりました。
寒くなって本格的になるのがスケートリンク場。
プロもアマチュアも関係なしに氷上を滑る女の子達ですが、なぜかスカートを履いた女の子が多い?
そんな格好していたら転んだ時に大変・・・・・・ほら、言わんこっちゃない!
スケートリンクでアルバイトをする男性の些細な日常コメディです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる