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第32話 第七章 人の夢
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一階と二階の間の踊り場に着くと、階段の下に、斯波方先輩は立っていた。
「……よう。来ちまったのかよ」
「あなたを、……許しません」
私は階段を下り切って、先輩の前に立つ。
「分かったんだな、真相が」
「はい。きっと、蟲が持っている記憶は、取り憑いた人間に近しい人のものほどはっきりと見えるんですね。その方が、ダメージも大きくて自殺させやすくなりますし。たまらないですね。でもお陰で、……分かりました」
「蟲どものお陰で、俺ら、色んなこと知り合っちまったな。新九郎や柚子生さんにも、昔何があったのか、よ。分かり合うって、あんまり良いことばっかりじゃねえよな。そうか……お前も見たか。それ、新九郎のか?」
私の肩に乗っている緑の粒を先輩が示した。さっき、一坂に浴びせられたものの残りだろう。私はそれを払い落とす。
「はい。一坂は、……死にました」
「辛そうだな。お前、昨日までの鉄面皮とは、別人みたいな顔だぜ」
私は階段を下り切り、正面から斯波方先輩と相対した。先輩の眉間の傷が、痛々しく赤い。
「私、綾花、さんの……記憶も見ました。先輩との思い出を」
「恥ずかしいな。馬鹿みたいな顔してただろ、俺」
苦笑した斯波方先輩が、そこで真顔になる。
「悪かったな。……あんまり近寄んな。危ねえぞ」
ぐにぐにとうごめく、分厚い緑色の繭の中に包まれた先輩が、そう言った。とても、取り去れる量じゃない。多少の耐性があろうと関係無いくらい、どう見ても致死量の蟲。
「嘘をついたんですね。ずっと、ずっと、先輩は死にたかったんですね。今夜、自分は死んで、私だけを生き残らせようとしてたんですね。先輩が私と一緒に隠れずに降りて行ったのは、自分だけが死ぬためだったんですね」
「嘘ってわけじゃねえよ。できれば、生きていたいさ。でも、駄目だった……どうしても。俺が生きる理由は、もう、無くなっちまったから。それに、……綾花の記憶に、逢いたかった。どうしても、……どうしてもな。そうしたら、死んでも構わないってくらいによ。でも、お前はそうじゃない。生きる理由が、まだ見つかってないだけだ」
「私が生きる理由は、生きていたい理由は、今日見つかって、なのに今、……無くなろうとしています」
先輩が、間の抜けた顔になった。本当に、予想外なのだろう。
「私は、人間なんて、いつどこで誰が死んだっておかしくなくて、だから、そんなのは別に大したことじゃないんだって思ってました。交通事故に遭った芸能人も、祖母や親戚も、夜煌蟲に取り憑かれて飛び降りた同じ学校の生徒も、誰が死んだって、心なんて痛まなかった。私は、母親が死んだって多分泣きません。でも、死んで欲しくないと思える人が、初めてできました。今日、何度も私を助けてくれた人です。私なんかを、……怪我してまで……助けて、くれた……自分の方が、凄く……辛いのに……」
言葉が嗚咽に紛れて、しどろもどろになって行く。
でも、何と伝えても、きっとどうしようもなく、この人はもうすぐ消えてしまう。自分で、そう望んでいるから。
それを止める力が、今の私にあるとは思えなかった。そう思うと尚更強く込み上げてくる感情に、私は自失しかけていた。
「私じゃ駄目だって、分かってます。でも、せめて、生きててくれたっていいじゃないですか……!」
何を言っているのだ、と自分でも思う。
不条理な想い。理屈に合わない感情と行動。私は産まれて初めて、人間になったような気がした。
その私を誕生させた人が、いなくなろうとしている。
涙がぼろぼろと溢れた。先輩は困った顔をした。
「時森。俺は、お前が大事だ。でも、もう考えを改める気はねえ。手遅れだしな。俺は、綾花が死んだ時に、もう死体同然だったんだ。それが、やっと土の下に入るだけさ」
私は、斯波方先輩の顔を見上げた。柔らかく、緩んだ目。
「生き延びろ。蟲どもに見せられた通りだ、あの人は自分ではお前を殺さないだろうが、隠れてるに越したことはねえ。……あの人の家に、呼ばれたことはあるか?」
私は首を横に振る。
「凄く荒んでるんだよ。あの人の見てくれからは想像つかないくらいに、汚ねえ部屋でな。一度誘われたんだよ、本人に。ちょうど綾花が死んで、参ってた頃でな。部屋まではついて行っちまったが、その気になれなくて帰った。文芸部の他の男ども含め、何人も誘惑に乗っちまってたみたいだけどな。お互いに遊びのつもりだったか、そうじゃないかの差はあってもよ。男も女もお構いなしでな。なるほど、そもそもは接触感染だったわけだ、蟲どもは。今夜水道を使ったのは、ほんの仕上げか」
そう言いながら、斯波方先輩が一歩後ろへ下がった。
「耐性のせいかな、まだあんまり深刻な状態じゃないみたいだが、確実に俺の頭の中が作り変えられていってるのが分かる。こんな感じなんだな。じゃあな、時森。さすがに、お前に最後まで見せるわけにはいかねえよ」
先輩が、背中をこちらへ向ける。
「待って、……待って、ください」
「俺は今日まで、ずっと待ったんだ。もう帰らないものを待ち続けた。いい加減くたびれて、俺もこの場所から、出て行くのさ。やっと……やっと、だ」
止めなければならない。どんなに無力でも、止めなければ。でも、足が動かない。
太く低い先輩の声が、廊下に響く。
「時森。命が、この世で最も尊いと思うか? 意地も生きがいも失って、本当の意味でてめえが、ただ呼吸するだけの肉の塊だと思えても? 生きてさえいれば、どんな形でも構わないと、そう思うか?」
私は立ち尽くしたまま、何とか声を絞り出した。
「今は、……思います。今なら、……思う……!」
「そうだな。俺もそう思うよ。だから、――……さよなら」
涙で視界が歪む中、朧な緑の光をまといながら、斯波方先輩の姿は廊下の奥に消えて行った。きっと、焦がれ焦がれて追い求めた、綾花さんの記憶に包まれながら。
私は制服の袖で涙をぬぐい、先輩が行ったのとは逆の方へ振り返る。職員室へ。
斯波方先輩は、隠れていろと言った。一坂も。
でも私は、今夜だけは、逃げ隠れしたりしない。
会わなければならない。
あの人に。
怒りが、私の胸を焼いていた。
「……よう。来ちまったのかよ」
「あなたを、……許しません」
私は階段を下り切って、先輩の前に立つ。
「分かったんだな、真相が」
「はい。きっと、蟲が持っている記憶は、取り憑いた人間に近しい人のものほどはっきりと見えるんですね。その方が、ダメージも大きくて自殺させやすくなりますし。たまらないですね。でもお陰で、……分かりました」
「蟲どものお陰で、俺ら、色んなこと知り合っちまったな。新九郎や柚子生さんにも、昔何があったのか、よ。分かり合うって、あんまり良いことばっかりじゃねえよな。そうか……お前も見たか。それ、新九郎のか?」
私の肩に乗っている緑の粒を先輩が示した。さっき、一坂に浴びせられたものの残りだろう。私はそれを払い落とす。
「はい。一坂は、……死にました」
「辛そうだな。お前、昨日までの鉄面皮とは、別人みたいな顔だぜ」
私は階段を下り切り、正面から斯波方先輩と相対した。先輩の眉間の傷が、痛々しく赤い。
「私、綾花、さんの……記憶も見ました。先輩との思い出を」
「恥ずかしいな。馬鹿みたいな顔してただろ、俺」
苦笑した斯波方先輩が、そこで真顔になる。
「悪かったな。……あんまり近寄んな。危ねえぞ」
ぐにぐにとうごめく、分厚い緑色の繭の中に包まれた先輩が、そう言った。とても、取り去れる量じゃない。多少の耐性があろうと関係無いくらい、どう見ても致死量の蟲。
「嘘をついたんですね。ずっと、ずっと、先輩は死にたかったんですね。今夜、自分は死んで、私だけを生き残らせようとしてたんですね。先輩が私と一緒に隠れずに降りて行ったのは、自分だけが死ぬためだったんですね」
「嘘ってわけじゃねえよ。できれば、生きていたいさ。でも、駄目だった……どうしても。俺が生きる理由は、もう、無くなっちまったから。それに、……綾花の記憶に、逢いたかった。どうしても、……どうしてもな。そうしたら、死んでも構わないってくらいによ。でも、お前はそうじゃない。生きる理由が、まだ見つかってないだけだ」
「私が生きる理由は、生きていたい理由は、今日見つかって、なのに今、……無くなろうとしています」
先輩が、間の抜けた顔になった。本当に、予想外なのだろう。
「私は、人間なんて、いつどこで誰が死んだっておかしくなくて、だから、そんなのは別に大したことじゃないんだって思ってました。交通事故に遭った芸能人も、祖母や親戚も、夜煌蟲に取り憑かれて飛び降りた同じ学校の生徒も、誰が死んだって、心なんて痛まなかった。私は、母親が死んだって多分泣きません。でも、死んで欲しくないと思える人が、初めてできました。今日、何度も私を助けてくれた人です。私なんかを、……怪我してまで……助けて、くれた……自分の方が、凄く……辛いのに……」
言葉が嗚咽に紛れて、しどろもどろになって行く。
でも、何と伝えても、きっとどうしようもなく、この人はもうすぐ消えてしまう。自分で、そう望んでいるから。
それを止める力が、今の私にあるとは思えなかった。そう思うと尚更強く込み上げてくる感情に、私は自失しかけていた。
「私じゃ駄目だって、分かってます。でも、せめて、生きててくれたっていいじゃないですか……!」
何を言っているのだ、と自分でも思う。
不条理な想い。理屈に合わない感情と行動。私は産まれて初めて、人間になったような気がした。
その私を誕生させた人が、いなくなろうとしている。
涙がぼろぼろと溢れた。先輩は困った顔をした。
「時森。俺は、お前が大事だ。でも、もう考えを改める気はねえ。手遅れだしな。俺は、綾花が死んだ時に、もう死体同然だったんだ。それが、やっと土の下に入るだけさ」
私は、斯波方先輩の顔を見上げた。柔らかく、緩んだ目。
「生き延びろ。蟲どもに見せられた通りだ、あの人は自分ではお前を殺さないだろうが、隠れてるに越したことはねえ。……あの人の家に、呼ばれたことはあるか?」
私は首を横に振る。
「凄く荒んでるんだよ。あの人の見てくれからは想像つかないくらいに、汚ねえ部屋でな。一度誘われたんだよ、本人に。ちょうど綾花が死んで、参ってた頃でな。部屋まではついて行っちまったが、その気になれなくて帰った。文芸部の他の男ども含め、何人も誘惑に乗っちまってたみたいだけどな。お互いに遊びのつもりだったか、そうじゃないかの差はあってもよ。男も女もお構いなしでな。なるほど、そもそもは接触感染だったわけだ、蟲どもは。今夜水道を使ったのは、ほんの仕上げか」
そう言いながら、斯波方先輩が一歩後ろへ下がった。
「耐性のせいかな、まだあんまり深刻な状態じゃないみたいだが、確実に俺の頭の中が作り変えられていってるのが分かる。こんな感じなんだな。じゃあな、時森。さすがに、お前に最後まで見せるわけにはいかねえよ」
先輩が、背中をこちらへ向ける。
「待って、……待って、ください」
「俺は今日まで、ずっと待ったんだ。もう帰らないものを待ち続けた。いい加減くたびれて、俺もこの場所から、出て行くのさ。やっと……やっと、だ」
止めなければならない。どんなに無力でも、止めなければ。でも、足が動かない。
太く低い先輩の声が、廊下に響く。
「時森。命が、この世で最も尊いと思うか? 意地も生きがいも失って、本当の意味でてめえが、ただ呼吸するだけの肉の塊だと思えても? 生きてさえいれば、どんな形でも構わないと、そう思うか?」
私は立ち尽くしたまま、何とか声を絞り出した。
「今は、……思います。今なら、……思う……!」
「そうだな。俺もそう思うよ。だから、――……さよなら」
涙で視界が歪む中、朧な緑の光をまといながら、斯波方先輩の姿は廊下の奥に消えて行った。きっと、焦がれ焦がれて追い求めた、綾花さんの記憶に包まれながら。
私は制服の袖で涙をぬぐい、先輩が行ったのとは逆の方へ振り返る。職員室へ。
斯波方先輩は、隠れていろと言った。一坂も。
でも私は、今夜だけは、逃げ隠れしたりしない。
会わなければならない。
あの人に。
怒りが、私の胸を焼いていた。
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