ひとひらの花びらが

山口 実徳

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第38話・上野④

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「女将さん! 兄さんも、ここから逃げて! 大砲を撃っている方角なら、兵隊はいないよ!?」
「あやめは!? あやめも逃げよう!」
 今のうちに、今すぐにでも上野から離れようと、茶屋のみんなが私に手を差し伸べた。しかし、私が手に取ったのは救いではなく、形見にしようと置いてあった死んだ隊士の刀だった。

「女将さん、兄さん、ごめんなさい。奴らに茶屋を潰されるなら、戦って死んだほうが、ましなんだ」
「馬鹿だねぇ、あやめは! あんた、まだまだ年季が明けないじゃないか!」
 女将さんは滲む視界を袖で拭って、憎まれ口を私に叩いた。それが何だか可笑しくて、今生の別れになるかも知れないというのに、涙の一滴もこぼせず笑みを返した。

 そして兄さんたちを煽るように、彰義隊の陣地が煙を上げた。今度は隊士も、差し入れに駆けつけた人々までも巻き込んでいる。舞い上がる肉体と降り注いだ血飛沫から、大砲が据えられた方向を冷徹に見定める。
「不忍池のほうだ! みんな、不忍池に逃げろ!」
 そう声を張り上げながら、不忍池の畔には一門の大砲もなかったのに、と疑問が浮かんだ。その答えは東征軍が、すぐに示した。

 みんなを逃がそうと向いた不忍池の先、本郷の陣から爆音が轟いた。硝煙の尾を引いて不忍池を軽々越えた砲弾は、この陣地の誰を選ぶことなく、誰も避けることもなく、言ってしまえば当てなく襲いかかった。
 あれほど遠くから届くなんて、と彰義隊士が絶望していた。あの大砲もまた西洋人から仕入れたのだとわかったところで、成す術がないことには変わらない。ただただ虚しく叩きのめされるのみである。

 私が掴んでくれると信じて後ろ髪をたなびかせ、茶屋のみんなが不忍池への斜面を滑り降りていく。
 すると茶屋との縁を断ち切るように、砲弾が私とみんなの間に落ちた。土煙が晴れ、不忍池を覗えるようになった頃には、互いの生死を確かめられなくなってしまった。

「みんなは必ず生きている。だから、あやめも湯島に逃げるんだ」
「嫌だ! 私は戦い抜くんだ!」
 かぶりを振る私を抱きしめて、彼は不忍池の畔へ下りようとした。が、私が拒んだ退路を砲弾が阻む。私も彼も爆風に煽られて、陣の中へと押し戻された。
 泥だらけになりながら薄く目を開け、互いの無事を確かめあった。真っ赤な襦袢を切り裂いて、破片が切った彼の傷を固く縛る。

「傷は浅いよ、歩ける?」
「大事ない。あやめは……よかった、綺麗だ」
 身体を起こして立ち上がると、東征軍が黒門口を突破した。隊士が剣を振るっているが、押し戻せば雁鍋屋からの銃撃を食らう。彰義隊は陣を守るのが精一杯で、それもじわじわと蝕まれていく。

 東征軍が押し寄せたなら、もう砲撃される心配はない。しかしそれと入れ替わりに、本郷に引いた兵が不忍池の畔を駆けてくる。
 それを認めた上官だろうか、山の端々にまで轟けと銅鑼声を張り上げていた。
「退却! 退却だ! 北進し体勢を整えよ!」

 口いっぱいに広がった苦渋を噛み締めて、寛永寺へとひた走る。木々の隙間が開けるたびに、不忍池の畔を進む東征軍がこちらに迫る。この勢いならば逃げ切れるか、それとも対峙するのかと、彰義隊に緊張が走る。

「あやめ、俺が食い止める! その間に逃げ切れ! そして茶屋に帰るんだ!」

 彼はぴたりと足を止め、東征軍を迎え討とうと刀を構えた。彼を置いて逃げるだなんて、私にそんなことが出来るはずがなく、誰かの形見の刀を抜いて東征軍に突きつけた。

「これは、私たち陰間の戦いでもあるんだ。彰義隊に甘えてばかりじゃ、いられないよ」

 迫りくる東征軍を睨んだまま、彼は観念して覚悟を決めた。私より一歩前に出て、柄をぎゅっと握りしめ下段に構えた。
「あやめ、君には綺麗なままでいてほしい。先陣を切るから、後ろから頼む」
 それじゃあ、あべこべじゃないかと最後のひと言にフッと笑った。何があろうと生き抜いて、ふたりで愛を確かめたくて、私は刀を上段に構えた。

「相手は鉄砲隊だ、木陰を使って引き寄せるぞ」
 私は生唾を飲み込んで、彼の背中に頷いた。
 鉄砲に縋る東征軍が、根津から坂を駆け上がる。その頭が覗いた瞬間、彼は木陰から躍り出て横一閃に刀を振るう。崩れ落ちる兵士の身体が、後に続く一団の行く手を阻んだ。

 彼に続こうと踏み出す私を、彼は乱れる東征軍を伺ったまま背中で制した。
「深追いするな。生きる、それが我々の使命だ」
「やっぱり、私なんかより君のほうが強いよ」
 命令に従った、ただそれだけだと彼は自嘲を覗かせた。

 這々ほうほうていだった鉄砲隊だが、体勢を整えて木漏れ日を遮る影に照準を合わせた。私たちは木陰ひとつに身を潜め、樹皮を蹴散らす弾幕のわずかな隙間に好機を伺う。
 討つか、引くか、選択を迫られた私たちは、手を重ね合わせて心を通わせ、ひとつになった。

 怯んでいる、奴らは来ない。

 ほんの一瞬の隙をつき、退却していく一団の最後を務めて生きるため、諦めないため、戦うために北へ北へと走り抜ける。
「ねぇ、どこへ行くのかな」
「この北の根岸だ、東征軍が手薄らしい」
 新政府は、彰義隊の退路まで用意していた。若い生命を失いたくない慈悲なのか、手玉に取っているのだと知らしめるためなのか。
 いずれにせよ、透けて見える新政府の思惑が悔しくて、溢れた涙に私は溺れた。

「あやめ、湯島に帰るんだ。生きていれば、いつかまた逢える」
 彼の言葉に顔を上げ、涙を拭ったそのときには、彰義隊士はひとり残らず姿を消した。
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