ひとひらの花びらが

山口 実徳

文字の大きさ
上 下
35 / 40

第35話・上野①

しおりを挟む
 金剛の初七日法要を終えた翌朝、騒がしい物音で目が覚めた。どこから何の音がするのかと窓から首を伸ばしていると、牡丹兄さんが後ろに立って耳を澄ませ、事情を解してやれやれと呆れた。
「ついにやるんだね、ありゃあ東征軍だ」
「東征軍……? やるって……」
 牡丹兄さんを見上げる私は、わかっていたが理解に蓋をした。しかし牡丹兄さんは、いつものように軽々とそれを蹴っ飛ばしたのだ。

「決まってんだろう? 彰義隊を潰すんだよ。錦の御旗に仇なして、兵隊相手に刃傷沙汰を起こして、解散命令にも従わないんだ。我慢の限界ってところだろうよ」
「でも、それは……」
 と、ぽつぽつとしか浮かばなかった反論を、たどたどしく放とうとした、そのときだ。とん、とん、とん、と落胆した足音が二階へと上がってきた。襖が開くと、踏み鳴らした音そのままの顔をした女将さんが板間へ入り、私たちの前でため息をつくように膝を折った。

「せっかく今日から店を開けようってぇのに。これじゃあ干上がっちまうじゃないか」
「勝ったほうが酒宴をやるだろうよ。それに備えてりゃあ、いいんじゃないかい?」
 牡丹兄さんの提案に、女将さんは「そうだねぇ」と頬に手を添えて迷っていた。
 東征軍も彰義隊も、陰間を買ってくれるのか。
 そもそも今日一日で、この戦いは終わるのか。
 ここ湯島まで、戦火が飛んでこないだろうか。

 さすが付き合いが長いと言うべきか。女将さんが巡らせる考えを察して、牡丹兄さんはあっけらかんと言い放った。
「私が芸姑に紛れて、三味を鳴らしてやるよ。これが花のお江戸だって、薩長の連中に見せつけてやるんだ」
「彰義隊は負けないよ!」
 私が立って声を上げると、牡丹兄さんも女将さんも、ぼんやりしていた山吹兄さんさえも息を呑み、目を丸くした。

 私の声を聞きつけた桔梗兄さんも二階へ上がり、どうしたのかと牡丹兄さんに尋ねた。桔梗兄さんは事態を理解し、火のついた私を静かに諭した。
「あやめ。鍛錬の折、上野から逃げる彰義隊士を目にしたんだ。東征軍が優位なのは明らかだよ」
「……逃げているのは、戦う気なんてさらさらなかった腰抜けだよ。それに籠城したほうが強いんだ」

 彰義隊の、彼の勝利を信じたくて、私は意固地になっていた。牡丹兄さんはそれを汲んで、私に寄り添いながら問う。
「そうだね、あやめの言うとおりだ、まだ勝ち負けは決まっていない。それに客になるなら陰間を知らない諸藩より、江戸を知る彰義隊のほうがいいってことだろう?」
 それを聞いて、私の目端から星が飛んだ。西洋人に吹っ飛ばされた記憶が、唐突に想起されたのだ。

「それだけじゃあないよ。西洋人はね、陰間も衆道も禁じているんだ。攘夷とか言ったくせに、公方様が開いた港に上がる西洋人に、媚びへつらう新政府だ。奴らが勝ったら私たちがどうなるか、わかったもんじゃないんだよ?」
 怒りに満ちた私の言葉は、戦いに備える彼が乗り移ったようだった。心底惚れてしまったから、考えが同じになったのかも知れない。

 だがそれが陰間茶屋の存亡に関わるのだとみんなが気づき、この板間の旗色が変わった。それを牡丹兄さんが言葉で示した。
「そうか、私たちの戦いでもあるんだね。何すりゃいいかわからないけど、茶屋を挙げて彰義隊を応援しようじゃないか」
「腹が減っては戦はできぬ、戦と言ったら兵糧ひょうろうだ。握り飯を作って彰義隊に届けるのは、どうだい?」

 女将さんの提案に、みんなが乗った。飯を炊こうと階段を降り、土間に入って米を研ぐ。米を入れ水を張った羽釜を竈門に乗せて、火を点ける。そして次の備えに米を研ぐと、呆れた笑みを滲ませた女将さんが、私たちを止めた。
「茶屋の戦でもあるんだろう? それなら私たちも腹を満たさなきゃあならないよ?」
 ハタとする私たちの間を縫って、女将さんは山吹兄さんの前に向かっていった。

「あんたも食べな? ひと口でもいいからさ」
「ちゃんと食べてるよぉ。七日も食べてなきゃあ、とっくにあの世に逝ってるよ」
 甘藷は逃してしまったが、山吹兄さんは少しずつものを口に出来るようになっていた。膳をたくさん残していたから、女将さんも気を抜けないのだ。

「骨と皮じゃあ、勃つものも勃たねぇからな。山吹が好きなものも、戴けねぇぞ?」
 牡丹兄さんが悪戯っぽくいじるので、山吹兄さんはぷぅっと頬を膨らませていた。桔梗兄さんがこらこらと、ふたりの間に割って入る。
「食べやすくしてもいいんだぞ? 卵粥にでもするかい?」
「ううん、お汁があれば飲み込めるから」

 山吹兄さんが取り戻していく元気が、この茶屋にとって希望の光となっていた。陰間でなければ生きていけない山吹兄さんを守らなければ、そんな思いが茶屋のみんなをひとつに束ねた。
 固い意志を声に乗せ、女将さんが私たちに号令を出す。私たちは、もう彰義隊の一員だった。
「あやめ、汁物を用意しな。しっかり蓄えて握り飯をたくさん作って、彰義隊に届けてやるよ。東征軍が腰を抜かすくらい、豪華絢爛に着飾ってね」
 私は力強く頷いて、鍋に水を張って火にかけた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...