稲荷狐となまくら侍 -明治あやかし捕物帖-

山口 実徳

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月に吠える②

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 皆が一斉にひれ伏すと、狼になった禄郎が連れて来られて半ば無理矢理、祭壇に座らされた。
 羽織らされた着物の下は拘束されているのか、身体の自由が利かないらしく、終始苛立って唸り続けている。

 祝詞だか念仏だかお題目だかを唱え終わると、婆さんは禄郎の首根っこを掴んで、開け放った窓から月を見せた。
「アォ─────────────────ン」
 禄郎の遠吠えに、周りの人々は
「ありがたや、ありがたや」
と拝んでいるが、窓から
「うるせえ!!」
と怒鳴り声が聞こえると、婆さんはピシャリと窓を閉めた。これでは、遅かれ早かれ近隣から相談があったことだろう。

 禄郎を引きずって祭壇に据えた婆さんは、その前に座るとこちらを向いて、手前の方からひとりひとり呼び寄せた。
 改めて禄郎を拝んで帰る者もあれば、よもやま相談をして、婆さんの返事を聞いてから帰る者もあった。

「近頃、夫婦喧嘩が絶えなくて……」
 こんなところに来るからではないか。
「争いは良くない。犬神様のお怒りに触れる前にやめなさい」
 身動きとれない禄郎は、既に怒っている。

「職を失いました。いい仕事はありませんか?」
 こんなところで相談することなのか。
「職に貴賤はない。誇りを捨てて探しなさい」
 武士の誇りを捨てて青物屋で働いている、手本のような男が祭壇で唸っている。

 とうとう最後、コンコとリュウの番である。
 婆さんの脇には賽銭箱が置いてあり、御布施と書かれた包みも並んでいる。こうして日銭を稼いでいるのだ。
「お主ら、今日がはじめてじゃのう」
「はい! 犬神様に、ひと目お会いしたく参りました!」
 ハキハキ答えるコンコは、心を殺している。
 祠で過ごした300年、信心もないのに無理矢理連れて来られた者でも見て、今はその真似をしているのだろう。

 婆さんがチラチラと賽銭箱に目配せしていた。リュウは渋い顔をこらえつつ、袂から小銭を掴んで賽銭を投じた。
 婆さんは落ちる金の音を聞き、つまらなそうな顔をしている。どうやら足りなかったらしい。
「相談があって、ここに来たのだが」
 これっぽっちの賽銭で、と婆さんにいやしく思われた。どちらが卑しいのかと、リュウも婆さんと同じ顔をしてしまう。
「青物屋の禄郎は、今どこだ?」

 婆さんはギクリとした。上ずりそうな声を必死に抑えつつ、そっぽを向いて知らぬふりをした。
「市場の朝は早い、今は家で寝ておるじゃろう」
「嘘だ! 僕、禄郎さんが狼になるところを見たもん!」
 コンコが禄郎を指差すと、リュウは羽織らされた着物を剥いだ。やはり縄で縛られている。
「憑き物とは言え、元は人だぞ」
「ひどいことをするなぁ。お金まで巻き上げて、何でこんなことをするかな」

 コンコとリュウに犬神様の正体を明かされて、婆さんはあっさり観念した。
「新政府の禁断令で、心のりどころを失った者が多いのじゃ。そこへ現れたのが、犬神様に取り憑かれた禄郎じゃ。禁じられない神をあがめれば、罰せられることもない」
 婆さんの言うことが本当なら、行き場を失った信者たちを救済しようとしたのだろう。

 リュウは改めて部屋の装飾を一瞥した。ありとあらゆる宗教が混ぜこぜで、わけがわからない。
「陰陽道も修験道も、よくもひとつにまとまったものだな」
「犬神様を信じるていで、あとは各々おのおのの好きにやらせておるからのう」
 ひとつにまとまるための犬神様というわけだ。その気になれば、漬物石でもいいのだろう。

 稲荷狐のコンコには、どうしても気になる点があった。
「ちなみに、お婆さんは梓巫女だったの?」
「うんにゃ、ただの漁師の嫁じゃった。見たものを適当に真似ておった」
 やっぱりそうかと苦笑いをした。ムニャムニャ唱えられる言葉を、耳をピンと立てて聞いていたが、さっぱりわからなかったのだ。

「しかし、このことを禄郎は知らぬのだろう」
「そうだ、禄郎さん! 縛られたままじゃ、禄郎さんも犬神様も可哀想だよ」
「そうだな、まずは禄郎と犬神を斬り離すか」
 リュウが刀を抜くと、婆さんが悲壮な顔をしてすがりついた。
「やめてくれ! わしはどうして暮せばよい!」
 やはりお布施が目当てかと、コンコもリュウも呆れてしまった。この婆さんは、本音がすぐ出るところだけは助かる。

 コンコが祝詞を唱えると禄郎の鼻が縮み、全身から灰色の毛が落ち、指が伸びて鉤爪が引っ込んだ。
 すると同時に禄郎から煙が立ち上り、それが狼の形になり、刀を構えるリュウに牙を剥いて唸りを上げた。

 飛びかかろうと空を蹴ったその瞬間。
 青白い光を放った刀が振り下ろされると、狼は唐竹割に真っ二つ。
 斬り裂かれた狼は、腰を抜かした婆さんの左右を通り過ぎ、床をテンテンと転がった末、2匹のじゃれ合う子犬となった。

 犬神は、あやかしでも神でもあったので、力を弱めるだけで済んだ。
 リュウが子犬を抱き上げた。さて、封じるべきか崇めるべきか、悩むところである。
「迷える者を本当に救う気があるなら、この犬神は渡そう。その気はないか、信心に付け込むようなら封じる。どうだ?」
「偽巫女もダメだよ!」
 リュウの真剣な問いに、婆さんは迷っていた。こんな子犬が信心の拠りどころになるだろうか。子犬の世話を、この歳でやっていけるだろうか。
そもそも自分に、迷える者を本気で救えるのか。

 人間に戻った禄郎が、祭壇から転げ落ちて目を覚ました。
「禄郎さん! 大丈夫!?」
「ん……ああ、大丈夫だ。それが犬神様か?」
「何だ、知っていたのか」
「稲荷の子が祝詞を唱えた頃から、察したことと聞いたことしかわからん。だが大体わかったぞ」

 縄を解かれた禄郎は犬神様を抱えると、可愛いじゃないかと嬉しそうに破顔した。
「1匹もらってもいいか? 俺の片割れみたいなものだろう?」
「今は子犬だが、犬神だぞ!? 大丈夫なのか!?」
「半分になったから大丈夫だよ。可愛がれば賢い犬に育つよ。ねぇ、お婆さんも飼ってあげて」
 犬神を抱えた婆さんは、緩む顔をどうすることも出来なかった。人の信心は満たせないかも知れないが、犬神様が自分を救ってくれる気がした。

 飼うことを決意して顔を上げた婆さんは、目を見開いて唇をワナワナと震わせた。
「お、お、お、お稲荷様じゃぁぁぁぁぁ!」
 巫女装束に変化して、狐耳を露わにしたコンコに婆さんはひれ伏した。
「僕は、こんなところに座らないからね!」
 戸惑うコンコに頭を下げる婆さんに、犬神様は甘えてじゃれついた。
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