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 顔合わせの日、知的な雰囲気をまとった美青年の姿に心をときめかせたのも否定しない。だが、二人きりになった時、ヴィルジールはにべもなく言い放ったのだ。

『商売をするうえで大事なのは信用だ。アルブレヒト伯爵家の名前があれば仕事がしやすくなる』

 その冷たい言い草に、ミネットの心もたちまち凍りついた。

『あなたは……自分のために私たちの家を利用するのですか?』

『俺が声をかけなければ一家全員路頭に迷っていたんだ。もっと感謝してほしいな、ミネットちゃん』

 馬鹿にするような呼び方に、ミネットは怒りで顔を真っ赤にした。

「みんなのためですもの。今更結婚を拒んだりしませんわ。でも――あなたは別。肩書だけの伴侶よ」

 十三歳の少女がぷんすかと頬を膨らませる様子は、さぞかし幼く映ったのだろう。ヴィルジールはしばらく笑いを押し殺して後ろを向いて肩を震わせていたが、気が済んだのかくるりとミネットの方に向き直る。

『わかった。俺だって子供に手を出すほど女に飢えてないからな』

 貴族らしくない軽口に、ミネットは軽蔑の念を込めて眉をひそめた。

『だが、商売の邪魔はしてほしくない。外では仲のいい夫婦を装うこと。家庭円満をアピールした方が相手も心を開きやすいからな』

『どうぞお好きなようになさって。でも家では話しかけないでください。お部屋も別です』

『仕事の時間が不規則だから、その方がいいだろう。じゃあこれからよろしく俺のかわいい奥さん』

 ただ単に由緒あるアルブレヒト伯爵家の名が欲しかっただけ――いくら政略結婚を覚悟していた自分も悔しくてたまらなかった。彼を無視し続けることが自分なりの抵抗手段だった。

 両親がいればなんとかやっていける、そう思っていたのに、二人は天気の荒れた日に馬車が崖から落ちて還らぬ人となってしまった。ミネットには家族と呼べる人がヴィルジールしかいなくなってしまった。

 一年間の喪が明けても悲しみに沈む彼女を、ヴィルジールは強引に夜会に連れ出した。毎回新しい宝飾品やドレスを用意し、最新の化粧品で爪の先まで磨くように使用人に命じた。はじめはひどい人だと思っていた。放っておいてほしかった。

 だが外に出れば嫌でも仲のいい夫婦の仮面をかぶらなければならない。何度か出席するうちにミネットも意地になって、円満な夫婦を完璧に演じてやろうという気になった。食事にも気を遣い、湯浴みの時には念入りに肌を磨いた。ストロベリーブロンドは艶が出るまでしっかりとブラッシングした。偽りの笑顔でも、嘘の抱擁でも、虚しいほど甘い言葉でもかまわない。秘密を抱えるのはスリリングで――楽しい。

 ヴィルジールと過ごす時間が、いつしか純粋に楽しいと思えるようになっていた。たとえ本心でなくても大切に扱われるのが嬉しかった。胸の奥が温かくなってくすぐったい気持ちになる。それが恋だと気づくまで少しもかからなかった。

 だが、自分から肩書だけの関係だと突き放しておきながら、好きになったからやっぱり仲良くなりましょうと言うのは都合がよすぎるだろう。

 だからずっと恋心は胸に秘めたままだった。

「明日はティアム侯爵閣下の夜会に呼ばれているから、早く休むんだぞ」

「わかっています」

 現実に引き戻され、ぼそりと気のない声を絞り出す。

 社交の季節になると貴族たちは王都にあるタウンハウスで過ごすことが多い。

 やがて、馬車はなだらかな丘の上にあるアルブレヒト伯爵家のタウンハウスに到着した。中に入れば、二人が一緒に過ごすことはほとんどない。会話もここまでだ。

 その線引きをしたのはミネット本人なのだから、さっさと部屋に引き上げる彼を呼び止める権利はない。


 翌日、レースとフリルがたっぷりあしらわれたシャンパンブルーのドレスを着て、ティアム侯爵の屋敷を訪問した。

 二人での挨拶が済むと、たいていヴィルジールは他の招待客のもとに商談を交えた世間話をするために離れていき、ミネットも他の夫人や令嬢の会話に加わることがほとんどだ。今日も同じように、あまり興味のない流行服の話に相槌を打っていた。

 侯爵家には大勢の客がホールに詰めかけ、廊下にも人が溢れているような状況だった。

(少し息苦しい……)

 昨夜、あまり寝つけなかったこともあって、ミネットは軽い眩暈を感じていた。

「少し外の空気を吸ってきますね」

 そう告げて世間話の輪からはずれると、解放された中庭に向かう。他人の家を勝手に歩き回るのは常識的ではないと思いながらも、一人になれる場所を求めていつの間にか奥の方まで来てしまっていた。

「……夫婦をやめたいんです」

 ふいに生け垣の陰から密やかな声が聞こえてきた。どきりとしたのはそれがヴィルジールの声だったからだ。

「まあ。それは奥様も……なの?」

 話し相手はどうやらティアム侯爵夫人のようだ。

「わかりませんが……」

「それなら……こちらへ……誰にも内緒よ」

 くすっと楽しそうに笑う夫人の朗らかな顔が浮かぶようだ。

 見つかったらどうしようと心配になったが、どうやら二人はさらに奥の方へ歩いていった。屋敷の中に入ったようだったが、あちらはさすがにプライベートな場所なのでこれ以上ついていくわけにはいかない。

(夫婦をやめたいって言っていたわよね? 誰にも内緒って?)

 冷や汗が背中を伝う。

(まさか、浮気とか……)

 ティアム侯爵夫人はミネットよりもずっと年上だが、年齢を重ねても肌艶はよく、包容力のありそうな柔らかい雰囲気をもった女性だ。彼女に誘われたら男性の方だってその気になってしまうかもしれない。現にヴィルジールはついていったではないか。

「私なんかじゃ……」

 とてもではないが、相手にならない。

 その場に留まっているのがこわくて、ミネットは急いで夜会の会場に戻ってきた。そこではダンスが始まっており、戻るなりミネットも他の招待客に声をかけられ何人かと踊った。何かしていないと不安で押しつぶされそうだったからだ。

 ヴィルジールが姿を現したのはしばらく経ってからだった。

 ティアム侯爵夫人と一緒にいたことを聞けずに、悶々とした気持ちを抱えながら馬車に乗り、カーテンの隙間から外の景色を眺める。

「真っ暗だろう、何か面白いものでも見えるのか?」

「別に……」

 顔を背けたままミネットは答える。

「そうそう。ティアム侯爵夫人から新作の美容液の試作品をもらったからミネットにやる。これを塗るともっと……」

「いりません。私は今のままで十分です!」

 浮気相手かもしれない人物からの貰い物など手にしたくない。

「まあ、それでもかまわないが……ん? そのカードはなんだ?」

 ヴィルジールが眉をひそめてミネットのポケットを指さした。そこから何枚かのカードの端が見えていた。

「ダンスの時にもらったんです。ぜひまた踊りましょうって」

 誰と踊ったかなど覚えていない。一方的に渡されたものだが、その場で突き返すわけにもいかず受け取ったものだ。

 ポケットから取り出したカードの名前を確かめようとすると、彼に素早く取り上げられた。

「あっ、返してください!」

「ふうん……ぜひ二人きりでお茶でもどうですか、と書かれているな、誰にでも渡しているのだろうが」

 ヴィルジールは目を細める。

「そんな言い方しなくたって……」

 たしかにあの場で書いている様子ではなかったから、あらかじめ書いたものを相手に渡しているのだろう。

「君には必要ないだろう、今後の商売のいい取引先になるかもしれないから俺がもらっておく」

「どうぞご勝手に」

 なんでも仕事の話かとミネットは呆れてそっぽを向いた。

 そこで顔を逸らしたりしなければ、ヴィルジールの苦虫を嚙み潰したような表情を見ることができただろう。手にしたカードを自身のポケットに入れ、ぐしゃりと握りつぶしたことも当然ミネットは知る由もなかった。



 数日後、別の伯爵家の夜会に招待された時、いつも通りヴィルジールと離れたミネットは、ホールでばったりとティアム侯爵夫人と遭遇してしまった。

(会いたくなかった――)

 げんなりしそうになるが、そんな顔をしては夫婦間に何かあったのかと勘繰られてしまう。

「ミネットさん。先日は楽しい時間をありがとう」

 夫人はうふふと微笑を浮かべた。すでに彼女の周りには数人の貴婦人が集まっていた。

「こちらこそ、とても有意義に過ごすことができました」

「ヴィルジール卿にお預けした新作の美容液、使い心地はどうだったかしら? あれ、薔薇水を加工したりして私が開発に携わったのよ」

 ニコニコと笑みを絶やさずに尋ねられ、ミネットは引きつりかけた笑顔をなんとか自然な形に持っていった。

(受け取ってもいないなんて、面と向かって言えないわよね。こんなに人がいる前で夫人の好意を無下にした失礼な人間の烙印を押されたら、ヴィルジールの仕事にも支障が出てしまうわ)

 浮気をされているかもしれないというのに、それでもミネットの優先順位の不動の一番はヴィルジールだった。

「あ、あの、とても良かったです。ふっくらもちもちというのでしょうか。お肌にハリが出たのを実感できました」

 白粉をのせた頬に手を当て、にっこり笑ってみせる。

「それはもちろんヴィルジール卿に塗っていただいたのよね?」

「え?」

 そんな事実は一切ない。普通の化粧品は自分でつけるものだろう。だが、仲のいい夫婦なら夫にクリームを塗ってもらうこともあるのだろうか。夫婦仲を怪しまれてはいけないと思い、ミネットは大きく頷いた。

 するとティアム侯爵夫人をはじめ、周囲にいた貴婦人たちから「きゃー」と嬉しそうな、恥ずかしそうな弾んだ悲鳴が上がった。

「それはよかったですわ」

「もしかして、以前お話していた例の新美容液?」

「本当に仲がよろしいんですのね」

「そんなに効果があるなら私も買いますわ!」

「私も!」

 たかがミネットの感想だけでここまで盛り上がるとは思っていなかったので、戸惑いながらも愛想笑いを続ける。


「塗るだけでバストアップするなんて夢のような話よね」

「ふふっ、本当に。やっぱりアルブレヒト伯爵ご夫妻は憧れのふたりですわ~」


「え、今なんて……」

 ティアム侯爵夫人の言葉に、ミネットの思考にぴしりとひびが入る。

「お胸、ハリが出てふっくらしたんでしょう?」

 無邪気な笑みを向けられて、ミネットの顔はみるみる真っ赤になっていく。

(塗る場所まで聞いてなかったわ!)

 すると自分はもらった美容液をヴィルジールに塗ってもらったのだとあけすけに報告し、肌に張りが出たなどと堂々と主張してしまったことになる。

「い、いえ、あの、実はそれ自分で塗って――」

「もう! いまさら照れなくてもいいのよ」

 すでに場は明るくきゃあきゃあと盛り上がるばかりで、誰もミネットの釈明など聞こうとしない。

(ど、どうしよう……)

 恥ずかしすぎて、目に涙が滲んだ。

「す、少し風に当たってきますっ」

 その場にいるのがいたたまれなくなって、ミネットは中庭に急いで駆け出した。

「どういうつもりであれをもらってきたのかしら!」

 両頬を大きく膨らませながら、ミネットはこぶしを握り締める。

 まだ子供っぽいということなのだろうか。あれを使って少しは女としての魅力を磨けと言いたかったのだろうか。

 ティアム侯爵夫人は女ながらもああして美容系の商品を開発し、ヴィルジールとも対等に商売の話もできそうである。

(美人だし、話はうまいし、私とは真逆だ。もしかしてあの日ヴィルジールはティアム侯爵夫人に美容液を塗り……)

 そこまで考えて、ぶんぶんと大きく首を横に振る。

「やあ、先日はどうも」

 後ろから声をかけられてミネットは飛び上がるほど驚いた。

「えっと……」

 振り返って顔を確認するが名前が出てこない。身なりからして上流貴族だということはわかるのだが。

「コンラート・バーダです。カードを渡したはずですが、私など眼中にないですよね?」

 じわりと充血した瞳の中年の男は、困ったように頭をかいた。

「あ、ダンスの時の……ごめんなさい、カードをなくしてしまって」

「かまいませんよ。それより今夜もおひとりですか?」

「夫は仕事の付き合いもあるので。私がいると邪魔ですから」

 ミネットがいても何も役に立たない。できることは言われた通り仲のいい夫婦を演じてみせるだけ。

「おやおや、こんな素敵な奥様をほったらかしとは理解できませんな」

「仕方……ありませんわ」

 震える指先を握り込んで微笑む。

「気丈に振る舞う姿もいじらしい。では今夜は二人きりでもう少しお話しませんか?」

「えっ」

 ぐいっと腕を引かれてミネットは慌ててその場に留まろうとするが、想像以上に強い力で抵抗が無意味だった。ずるずると引きずられて薄暗い生け垣の方へ連れていかれる。

(やだ。声……出さなきゃ)

 そう思うのに、突然のことに体が強張り、焦るばかりで喉がカラカラになってかすれ声しか出ない。

「他の既婚女性にはない初々しく甘い匂いがたまらない」

 両肩を掴まれて酒臭い息が頬にかかり、ミネットはぎゅっと目をつぶった。

「は……離して! いや……っ」

 コンラートから離れようとしても背中が生け垣に当たって、それ以上避けられなかった。足元からぶるぶると震えて涙が溢れそうになった時だった。
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