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第二章

3.恋物語

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  別荘に帰るなり、アルエットはすぐに部屋にこもって夢中になって本を読んだ。

 あんなに寂しいと感じていた孤独な時間が、今ではかえってありがたい。誰にも邪魔をされずに物語の中に入りこめるのだから。



 ランプの明かりだけで文字の列を目で追っていく。



 物語は、セヴランという王子とリエルという孤独な伯爵令嬢が互いの身分を隠して出会い、恋に落ちるという内容だった。それぞれ親が決めた婚約者がいながらも恋心を抑えきれず、駆け落ちまで考えるようになるが、それが王子の婚約者にばれてしまい、彼の将来を想うなら身を引けと言われた伯爵令嬢が涙ながらに一方的に別れを告げる。



「ああ……どうなってしまうのかしら……」



 いじわるな婚約者が姉の姿と重なって、主人公の令嬢が気の毒でならない。いつの間にか目に溜まっていた涙の雫がぽたりとページに落ちてしまい、慌ててドレスの袖で目元をぬぐう。



 時計の針はすでに深夜を回っていて、暖炉の火もすでに消えてしまっていた。

 アルエットはソファから立ち上がってベッドに滑り込むと、ヘッドボードに寄りかかって続きを読み進めた。



 ページはもう半分を超えていて、物語は切ない空気を孕みながら結末へ向かっていく。王子の婚約者が過去にも王子に近づこうとしていた女性たちの命を狙うような危険な脅迫行為を行なっていたことが発覚したり、伯爵令嬢の婚約者にも裏の顔があったりと怒涛の展開から、最後にはセヴランとリエルの婚約が認められ、二人は抱擁と熱いキスを交わして物語は幕を閉じた。



「よかった……」



 本を閉じて漏れるのは安堵のため息。そして胸の奥に宿る温かい光。



(彼が物語の人物と同じ名前にするから……)



 まるで自分と青年の物語のように感じられて、アルエットは頬を染めた。掌で触れると少し熱い。ずいぶんと本の中にのめり込んでしまったようだ。



「か、勘違いしてはだめ。偽りの名前を名乗るのにちょうど手元にこの本があったからでしょう」



 今のミスダールには同じ年頃の人間は見かけないから、退屈しのぎに相手をしてくれているだけだろう。青年の優しさはアルエットだけに向けられた特別なものではない。あとで傷つかないためにもそこははき違えてはいけない。



(だけど不思議……。歳が近いというならジェルマン様だってそうだけど、あの人とは違う。セヴランはそばにいても嫌な気持ちにならない)



 それはきっと青年が必要以上にアルエットの心に踏み込んでこないからだろう。無遠慮な姉の婚約者はこちらの気持ちを考えることなく近づいてきて、平気で土足で心を荒らしていく人間だ。



(セヴランに会いたい……)



 ランプの明かりを消してベッドのシーツを肩まで引き上げ、アルエットは目をつぶった。









 翌日、図書館の庭園の一角でアルエットはセヴランと再会した。



「読みました。最後に二人が幸せになって本当によかったです。現実ではつらいことばかりだけど、本っていいですね。どんな人にもなれるし、どんな体験もまるで自分のことみたいに感じられて」



 ベンチに腰掛け、アルエットは本のざらついた表紙を指先で撫でた。



「つらい現実を変えたいと思ったことは?」



「そんなこと、とうの昔に諦めてしまいました。私が声を上げても誰にも届きませんから」



 アルエットは苦笑いを浮かべた。答えながらそんな自分が情けなくて瞳が潤む。



「今まではいなくても、これからの未来は誰にもわからない」



「ふふ、セヴランは優しいですね。たしかにこれからのことは誰にもわかりませんよね」



 もしかしたらアルエットを大切にしてくれる人が現れるかもしれない。希望を持って生きろと彼は慰めてくれているのだ。



 瞬きすると、小さな涙の粒がぱちんと弾けて春の空気に溶けていった。



「また別の本を借りましょう。セヴランは図書館には入ってみましたか? 面白そうな本がたくさんあるんですよ」



「リエル。せっかくだから、その言葉遣いを改めないか?」



「え?」



「本当の名前も、身分も、住んでいるところも知らない。それならここで知り合った俺達は対等な関係だ」



「……もしかして、友人になってくれるのですかっ?」



 使用人にすら避けられていたアルエットにとって、友人を作ることは憧れの一つだった。



 ただの話し相手から友人として接してくれるという青年の懐の広さにアルエットは感心する。



「……まあ、そんなところだ」



 アルエットが身を乗り出して尋ねてしまったからなのか、セヴランはおかしそうに笑った。



(へ、変な人間だと思われたかしら)



 頬が熱くなって、慌てて彼から目を逸らす。



「では、図書館へ行こうか」



「は……、じゃなくて、う、うん……」



 気恥ずかしくて、返事がごにょごにょと小さくなってしまった。



 先に立ち上がった彼に倣ってベンチから腰を上げると、突然右手を引かれる。慌てたアルエットは前のめりによろけた。



「すまない。思っていた以上に体が軽くて驚いた」



 そう言って転びそうになったアルエットを抱き留めたセヴランは、申しわけなさそうに眉根を下げた。



 驚いたのはこちらの方だ――



 心臓が口から飛び出しそうになってしまった。背が高くほっそりとして見えるセヴランだったが、勢いよくよろめいたアルエットを受け止めても微動だにしない。その上、背中に回されている腕は力強くアルエットを支えている。



 ほんのりと鼻腔をくすぐるフレグランスは深くて清廉な森の空気のような落ち着いた香りがして、大人の色気をもろに浴びてしまったような感覚にくらくらと眩暈がした。



「大丈夫か、リエル?」



「だい、じょうぶ……」



 バクバクと心臓が高鳴っているのを気づかれないように、そっと彼から離れる。しかし、右手は繋がれたままだ。



(このまま……行くの?)



 いくらセヴランが優しくても、どんな女性にもこういうエスコートをするのだろうか。少々やり過ぎではないのか?



 思い浮かべた比較対象が残念な男ジェルマンしかおらず、アルエットは頭を振って大嫌いな公爵令息の顔を脳内から振り払った。



 温かくて大きな手に包まれながら、アルエットは前へ歩き出した。

 
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