私だけの世界

青江 いるか

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少年

「この世界は現実じゃない」

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 ええと。
 少年の言葉を理解するのに、数十秒を要した。
 やがて意味が飲み込めてくると、私は少年をまじまじと見つめた。この人、大丈夫かな……もしかしたら、かなり危ないんじゃないだろうか。
 なにも答えずにこのまま逃げ去ろうとも思ったけど、少年に現実を見せつけてやろうと唐突に思いつき、私は答えを返すことにした。
 「なに言ってるの? 現実じゃなかったらなんだっていうのよ」
 少年は路地の暗がりから出てきて、ずんずんと私のほうへ歩いてきた。怒ったような目をしている。まずいかも、と思い、私は咄嗟に身を引いた。
 「なに……」
 「いいか、この世界はお前の造った世界だ。お前の意思で造られ、天候も人も出来事も、お前の考え次第なんだ。ざっくり言えば、意思を持っているのはお前しかいない。他の人間は言わば、人形のようなものだ。偽物なんだよ、この世界は」
 私だけしか……意思を持っていない? 他の人は人形? そんなはずない。さっきまで亜梨沙と喋っていて……彼女はちゃんと意思を持っていた。こんなタイプが好きとか、数学って難しいよね、とか言っていたのに。
 少年は言う。
 「お前の考えていることはなんとなくわかる。確かに、人間らしく、考えを持っているかのように動いたりするさ。だが、お前の魂が生み出したものに過ぎない。たとえ相手が悲しい状況になって条件反射のように泣こうとしても、お前が笑えと強く思えば、相手は泣くことなく笑うんだぞ。それで自由意思が相手にあると思えるのか」
 そんなはずない。そんなはずはない。
 けれど、少年の言葉はとまらない。
 「お前は現実の記憶を忘れているようだが、時々、なにかを思い出すことがあるんじゃないか」
 違う。今日の幻聴と幻覚は、私の記憶から出たものじゃない。
 「おかしいと思ったことはなかったか。お前が願ったことが、ほとんど叶うことを。タイミングが良すぎると思ったことは? この会話や出来事は、少し不自然だと思ったことはないのか」
 違う。この間、父が早く帰ってくればいいなとは思ったけれど、それがその通りになったのは、私が願ったからじゃない。偶然に決まっている。他にも……絶対、すべて偶然に決まっているんだ。
 少年は、溜め息をついた。
 「その顔じゃ、信じてないようだな。まあ俺だって、お前の立場だったら信じてるかどうか怪しいが。しかし、信じてもらわなくちゃ困るんだよ。魂だけが肉体から離れ続けていると、やばいぞ。現実のお前の身体は、病院のベッドの上で眠り続けている。魂がそこにないんだから、当然だな。だが、このままだとお前の身体は死ぬぞ」
 「なっ……」
 死、という言葉が出てきて、私はびくっとした。
 死。暗く、おどろおどろしいものが、ベッドの上の私の身体を取り囲んでいる。そこに、大鎌を持ち、黒のフードを被った人物が……死神? そいつが大鎌を……
 これは私の妄想だ、それなのに、怖い……嫌だ、死ぬのは――
 「もうやめてよ」
 私は叫んだ。すると、恐怖が怒りに変わっていくのがわかった。
 そうだ、怯えることなんてない。自分の妄想に怯える必要はないし、ましてやこいつの妄想に影響されることもない。
 「だいたいね、魂が仮に存在するとしても、魂だけでこんな世界が造れるわけないじゃない。私は夢を見ているわけじゃないって、自分でわかっているから。ちゃんと寝て、食べて、話をしているの。記憶がとんでいるところなんてないし、おかしい展開もおこったことがないの」
 少年は、私の剣幕に驚いたようになってから、「あ――」と頭を掻いた。
 「そうだな、寝るときに見る夢とは違うんだよな。俺たちは、一人の魂が核となってできたこういう世界を、小世界って呼んでるんだが。まあもちろん、お前の魂の力だけでこの世界ができたとは言わねえよ。なんらかの外部からの力があったはずなんだ。それを、俺は探っている」
 ますます頭がこんがらかってきた。
 とにかく、こいつの言っていることはおかしい。私の日常のなかで、不自然なものと言えばこいつだ。
 私は言い返していた。
 「意味がわからないんだって、あんたの言っていること。あんた、一体なに考えてこんな嘘を言うの」
 少年は、怒ったような表情をした。
 「嘘じゃないぞ。簡単に説明できていないのは俺が悪いが、お前も少しは理解しようとしろよ。真っ先に否定ばっかしてるだろ。それに、俺だってお前がなにを考えているんだかわかんねえよ」
 私は、むっとした。
 「理解するもなにも、あんたの言っていることはおかしいんだって。だから、私が考えていることと言ったら、どうやったらあんたが変だってことを証明できるかってことだけだよ」
 「俺が言ったのはそういう意味じゃない」
 少年が、すばやく言う。
 「俺がわからないと言ったのは、お前の造ったこの世界のことだ。ここはある意味、理想郷だぞ。自分の思い通りに物事が回るんだからな。だが、お前の世界は、前の現実とたいして変わらない。なぜ、両親を仲良くさせようとしない? 好きな奴と付き合えるようにしない? 勉強が嫌いなら、なぜ、それをやらなくてもいいように世界を変えない? こういう風に小世界を造ってしまうのは、多少なりとも現実に嫌気が差した奴だ。だが、小世界でお前がしていることは、崩壊する前の現実に留まり続けていることだ。その日常が危ういものだったのだと、現実のお前は知ったんじゃなかったのか。なのになぜ、より安全そうな日常を造らないんだ」
 私は震えた。どうして知っている? 私の両親の仲がよくないことを。私に好きな人がいることを。勉強が好きではないことを。
 どうしてそれらを、目の前の少年は知っているの?
 少年の口調は、決してからかうようなものではなく、心底、不思議そうなものだった。けれど、そんなことは関係ない。
 わなわなと、手が、頬が、唇が、震える。怒りなのか、はたまた恐怖なのか、自分でもよくわからなかったけれど、次に私の口から出た言葉は、間違いなく怒りからきたものだった。
 「私は、絶対にあんたの言うことを信じない。もう私に近づかないで」
 そう叫ぶと、私は駆け出した。咄嗟に走ったので、家の方角とは逆のほうへ向かうことになってしまった。そのことに途中で気づいたけれど、別に構わないと思った。とにかく、あの少年から離れられれば、なんでもいい。
 お願いだから、もう私になにも言わないで。もう私の前に姿を現さないで。
 私は強く、そう願った。
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