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三章

G

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 食事を終えた後、俺はルッカさんから部屋の鍵を受け取った。
「ごめんなさい、今、手が離せなくて。……あっちに階段があるから、そこから上がってくれる?」
 忙しそうに誰かが食べ終えた皿とジョッキを運びながらそう言われて、俺は分かった、とだけ答えた。それから調理中のオバチャンに頭を下げて、酒場の奥へ進んだ。
 滑り台のような斜めに取り付けられた木の板に、だいたい等間隔で横長の木材が取り付けられた、簡素な階段。
 それを上ると、三つ部屋があった。倉庫が一つと、宿屋の客が寝泊まりする部屋が二つ。三つの部屋の扉には釘がそれぞれ一本、二本、三本と打ち込まれており、区別できるようになっていた。
 一本の部屋は倉庫。三本の部屋の前には、打ち込まれた釘に紋章が彫られたプレートが、紐でぶら下げられていた。しばしばこの町を訪れる商隊の紋章だそうだ。その商隊に、「どうせいつも空き部屋だから」とオバチャンが格安で倉庫として貸したらしい。中にあるのは持ち帰れなかった積み荷で、それは木材だ。
 鍵が挿しっぱなしになっていて不用心だが、木材は他所にもっていけば価値があるだろうが、幾ら魔物が出るとはいえ、森の中にあるこの町ではこれほど値打ちの低いものもないだろう。おまけに重いから、誰にも盗まれる心配がないというわけだ。
 俺があてがわれたのは釘二本の部屋だ。ただ、そこには先客がいると聞いていた。
 軽くノックして、「……どうぞ」と声が聞こえたので中に入る。
「おじゃましまっす」
 何と言っていいのか分からず思いついた言葉を口にしながら、扉を開ける。

 ――部屋の中には濃い紫色の触手と、それが飛び出る巨大な貝があった。

「うおっ!」
 こちらの世界に来て初めて見るモンスターに、興奮と恐怖が一気に押し寄せてきた。
 図鑑で見るアンモナイトに似た、バカでかい貝。巨大な貝殻を触手の塊が背負っていて、そこに目と口がある。襲ってきたらそれなりに危険そうだが、危険がないことは一目瞭然だった。
「……ああああ」
 アンモナイト似のモンスターの背に、妙齢の女が仰向けに寝そべっているからだ。
 だらしなく口を開け、だらんと両手と紫色の長く美しい髪を垂らし、こちらには見向きもせずにタバコを咥えている。
 右手が動き、タバコを掴んで口から外す。近くのテーブルに置かれた灰皿に灰を落とすのと同時に、口からふぅっと白い息を吐いた。
 そうやってモンスターの上でごろごろする様は、なんとなくバランスボールの上で運動をする女の人を連想させた。実際、見た目は結構似ていると思う。
「……ああー」
 また、訳の分からない声を漏らしながら、女が足を動かして上下に動く。
 思わず、その様を凝視する。
 女はスタイルがよかった。……心臓の辺りで大きな谷底を作る、二つの脂肪の塊が揺れ動く様子はとても扇情的で、気づいた時には視線が釘付けになっていた。
 身体を包む、パリッとしたスーツのような黒い服は肌の露出が少なかったが、それがむしろ彼女の色気を際立たせている。
 しばし見惚れて、それから情けない自分の姿に気づく。少しだけ顔を赤くしながら、俺は何気ない風を装って扉を閉め、無言で女がいる位置とは反対側のベッドに座った。こちら側には、彼女の私物らしいものは何もなかった。
 部屋はいたってシンプルで、中央にテーブルが一つ、そしてテーブルを中心に対照的に、両側の壁にベッドがぴたりとくっつけられて置かれていた。
 特にやることもなく、もう一度、女の方を見た。
 女の方は、こちらと違って荷物に溢れている。大きな凹みがある木の板とロープ、それにリュックと、防水性がありそうな、ツルツルした布で包まれた、子供が一人か二人は入れそうな大きな荷物。……よく見ると、アンモナイト似のモンスターの貝殻には、何カ所か太い杭のようなもの打ち込まれている。その杭を使って、木の板の凹みを貝殻の窪みに合わせてロープで固定し、荷を乗せるのだろう。
 荷は何だろう? 彼女は商人なのだろうか?
 少しだけ気になったが、確認する方法などない。
「……」
 暫く彼女を見つめて、それから溜息を吐いた。……挨拶はした。聞こえていなかったにせよ、無視されたにせよ、どうでもいい。これで、最低限のマナーは果たした。
 麻袋を開け、持ってきた本を取り出す。持ってきたのは、
『魔王伝承の事実究明 最新版 ~魔王が奪った宝玉とは、生物だった!? ロット博士の新理論~』
『これで完璧! マナー、礼儀作法四十八手!』
 の、二冊だ。と言っても、マナーの方はレコの家にいる間に殆ど読んでしまった。持ってきたのは、一応、マナーを確認する時があるかと思ったからだ。
 魔王伝承と書かれた方の本を取り出し、開いてペラっとページをめくった。
『かつて、今や滅びた魔族を率い、この世を支配しようと企てた魔王。強大な力を持ったかの者は、やがてある男に倒される。――倒した者の名は、異邦より訪れたという勇者。名を、勝(まさる)と言った』
 思わず、何度も同じところを読む。……まさる。その名を、再び聞くことになるとは思わなかった。
『勇者は武勇に優れ、強大な武器を持ち、妖精郷を救ったために妖精族の寵愛を受けた。各地の魔王軍を退け、ついに、魔王城へと向かった。……魔王を滅ぼした後には、多くのことが約束されていた。大国における伯爵の地位。その国の、美姫と誉れ高い末姫との婚約。人々の期待を背に、勇者と仲間達は共に魔王城に乗り込み、魔王を倒し――そして、勇者は豹変した』
 ……段々、雲行きが怪しくなってきた。
『仲間達を殺し、魔王を倒し。……その絶対的な力を認められ、魔族達にかしずかれて立場を変えた。例え武勇と絶大な力を持とうと、心はケダモノだったのだ。勇者まさるは魔王となった。
 まさるに敵う者はもはや地上のどこにもおらず、瞬く間に世界の全てを手に入れた。――そして、勇者の欲望は留まることを知らず、その手はこの世界の要石、とある古い王国に代々伝わる「宝玉」を奪うまでに至った。それ以降、世界から魔力を始めとする多くのものが枯渇し始め、真白き終わりの時代が始まった』
 そこまでがこの本の大前提となる、広く伝わっている伝承らしい。そこから先は、この本の作者であるロット博士が新しく提唱した、宝玉は鉱石ではなく、生物だったのではないかという話だった。挿絵では、角が宝石でできたユニコーンが描かれている。
「整理すると……異世界転生者がチートアイテムで無双して、魔王を倒したのはいいがそこで心変わりした挙句、この世界を維持する大切な何かを奪って世界を滅びに導いた、ってことか?」
 ――とんだクズだなぁ! このまさるって奴!
 俺がこの世界に送られたのって、同郷なんだからまさるの尻拭いしろって話じゃないよな?
 ため息をついて本を閉じ、顔を上げると、目の前に豊かな二つの山があった。
「うわぉう!」
 自分でも何を言っているのか分からない意味不明の叫び。黒く光沢のある薄い布地が、豊かな胸によって押し上げられているのをまじまじと見つめ、それから慌てて上を見た。
「……興味深い」
 こちらのことは意に返さず、その女は本の表紙をじっと見つめていた。
「遠い昔にお亡くなりになった、ロット博士の本だな。まさか、こんな所でお目にかかれるとは……」
 女の手が、スッと本に伸びる。流石にそれは見過ごせず、俺はその手を掴んだ。
 温く、柔らかい感触が伝わってくる。
「……これは、君の本か?」
 今初めて目に入ったような顔で、女が俺を見た。
「いや、借り物だ」
「その人に売ってくれるように頼んでくれないか? 何なら、その人が蒐集しているほかの本も見てみたい」
「頼んではみるが、ちょっと遠いから今は無理だ」
 すげなく断る。女はムッとした顔になったが、無理強いはせず、さっと俺が掴んでいた手を振り払い距離を取った。
「……少々、礼儀を欠いたな。申し遅れた、私はガナーセフと言う。このクラムフォレスト周辺にある都市、ブラッセオで図書館司書をしている者だ。こちらは、相棒のアンモー」
 アンモナイト似のモンスターを指してそう言い、こちらを見た。
 こちらが名乗るのを待っているのだろう、と分かるまで少しかかった。
「荒野に住まう巫女一族に拾われた、記憶喪失の人間です。名は景。クラムフォレストには、買い物で来ました」
 こちらも自己紹介を返すと、少し思案気な顔でフム、とガナーセフは頷いた。
「あの排他的な一族の客……ね。なら、蒐集している本を見せてもらうことは難しいな。君、この本を写させてくれないか? その代わり、多少のことなら何でも質問に答えよう。私はこれでもブラッセオじゃ知識人として通っている。大概の質問には答えられるだろう」
 それなら、レコに本を返せる。何も問題は起こらない。
 俺が頷いたので、これで交渉は設立した。
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