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第五章
340 懐かしの故郷
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駕籠に揺られながら御簾に差し込むうららかな陽光は小春日和にふさわしい。御簾を開け放てば土と樹の匂いが漂うことだろう。
教都チャンガンの喧騒と策謀になれたこの身にはその穏やかさがありがたかった。
「あとどれほどでトゥーハ村に到着しますか」
「もうすぐですタスト様」
タストは一路トゥーハ村に向かっていた。目的は聖女様の活躍を故郷に伝える……という名目で蟻の転生者についての情報を入手するためだ。
トゥーハ村にかつて現れた蟻が転生者なのかどうか確信は持てなかったが、それを確かめるためにもこの調査をできるだけ迅速に行うつもりだった。
トゥーハ村の新たな村長は背が低く、それでもがっしりとした体格の日に焼けた肌がいかにも農夫という女性だった。アグルやファティが教都チャンガンに移住したことにより、繰り上げるような形で修道士になり、村長になったらしい。
ささやかながら、歓迎の席が設けられていた。
「ようこそいらっしゃいました御子様。歓待の用意ができずに申し訳ありません」
「いいえ。突然の来訪にもかかわらず礼を尽くしていただいたことを感謝します」
村長の言う通り、食卓に上がった料理はわびしかったが、それがこの村に初めて来て、ファティと出会ったことを思い出して、気分が良かった。
「それで、聖女様のご活躍をお聞かせいただけるとか」
興奮を抑えられぬ面持ちで村長が尋ねてくる。彼女にとって、いやこの村の住民にとって聖女とは誇りそのものなのだろう。
「はい、それでは――――」
ファティの活躍、行動、それらを手短にまとめて聞かせる。タストとしてはあくまでもついでの用事なのでさっさと済ませたかったが、村長が根掘り葉掘り聞くので、話を終えることは難しかった。
「おおお……何と素晴らしい。聖女様こそ神が我らに与えたもう奇跡です……」
村長は滂沱の涙を流し感動している。放っておけば朝から晩まで涙を流しそうだ。
「近頃村々で病が流行っているという話も聞きますが……聖女様の恩寵があれば必ずや我らに祝福があるに違いありません……」
流行り病? そんな話は聞いていなかったけれど……進軍に影響はないのだろうか。
いや、それよりも村長の相槌が途切れた今こそ話題を変えるいい機会だ。
「村長殿。私が以前聞いた話によると聖女様はこの地で蟻と戦ったとか」
「はい。あの憎らしい蟻のことならば、昨日のことのように思い出せます」
そうして村長が語りだしたのは蟻がいかに邪悪で卑劣だったかということだ。それに対してサリやアグルがいかに勇敢に戦ったのか、神も照覧いただいているに違いない……はっきり言えば以前ファティから聞いた内容に脚色を加えただけの内容だった。
聞きたいのはそういうことではないのだけれど、セイノス教徒にとって正しいか、清らかであるか、というのは一大事なのだ。
(というか、まずアグルさんに話を聞いておけばよかったんじゃ……)
自分の要領の悪さに辟易する。とはいえここまで来てしまった以上なにも聞かないわけにはいかない。
「ええ、そういうわけでサリ殿とそのご一行が蟻の討伐に向かいました」
話をまとめると、アグルの兄トラムが蟻に殺され、その蟻を討伐するためにサリが村人を率いたらしい。
「それからどうなったんですか?」
「熊に襲われたサリ殿が村にお戻りになったのです。いえ、もちろん村を危機から救うためです。決して逃げたわけではないでしょう」
セイノス教徒にとって魔物から逃げることは恥だ。だからサリが責められると思ったのか、村長は慌てて弁解していた。しかしタストが気になったのは別のことだ。
「蟻はどうなったんですか?」
「熊に食われたのでは? 野蛮な魔物らしく殺し合ったのでしょう」
それはありえないはずだ。武器を使い、灰色の体を持つ蟻。恐らくそれは転生者が率いる蟻のはず。そもそも転生者なら魔物を操れるはず。熊と殺し合うわけはない。いや、もしかしたら強力な魔物は操れないのかもしれないけれど。
「熊と蟻が争ったのでしょうか」
「どうでしょう。少なくともサリ殿と一行は熊に手傷を負わせました」
「熊に傷を? できるのですか?」
「無論。我らは聖女様の成長を見守る栄光を賜りましたから。魔物同士で殺し合い、挙句に滅びる蟻とは違います」
実はタストも熊を去年見ている。高原を出発した後、西のスーサンで直接目視した。正直に言って十数人では傷一つつけることさえできないだろう。ふと、ありえない妄想をしてしまうが、それを振り払うように質問した。
「翌年も灰色の蟻と戦ったのですよね? 同じ蟻ではないのですか?」
「確かに……逃げ延びた蟻がいたのでしょうか」
その空白期間に何があったのだろうか。それを知るためには次の村、テゴ村に行く必要がある。
翌日。隣村であるテゴ村を訪れた。そこもたいしてトゥーハ村と変わり映えのない村だった。
予想通りの歓迎に慣れてきたタストは話を受け流しつつ、村長から目的の話題に誘導することに成功した。
「ではまずこの村はトカゲに襲われたのですね?」
「はい。忌々しいトカゲが我々の家を踏み荒らしました。そののち、蟻が攻め入ってきましたが、神の家を脅かすことは叶わず、騎士団が到着すると逃げていきました」
誇らしそうに説明する村長に対してタストはある疑念が強くなることを感じていた。
「……蟻に殺された人はいたのですか?」
「たまたま私たちの村を訪れていた巡察使様が我らに教会に隠れているようにお命じになったのち、ただ一人蟻に立ち向かっていきました。あの方こそまぎれもなく神と救世主の教えに従う敬虔なるセイノス教徒でした」
涙ぐむ村長の話を冷静に検分してみると、蟻が自ら襲った人間は誰もいないのだ。それどころかむしろ……。
「で、では被害は……何か被害はありましたか?」
「村を穢れた魔物に蹂躙されたことは我々の最大の恥辱です」
お前の心情は聞いてない!
そう叫びたいのをぐっとこらえてより深く話を聞きだす。
「被害といえば……近くの家畜がいなくなっていたのでそれも襲われたのかもしれません」
「家畜? どんな家畜ですか?」
「い、いえ、たいしたことはありません。御子様がお気になさるようなことでは……」
どうやらたいしたことらしい。嘘を見抜く能力なんかなくてもそれくらいわかる。
「申し訳ありませんが正直に答えていただけませんか?」
タストが圧力をかけるとあっさり折れた。
「その……紙を作っている家畜です」
「家畜? 家畜が紙を作っているのですか?」
「聖別(マディール)によって聖なる知恵を授けられた魔物です」
予想すらしていなかった言葉に呆然とする。魔物が紙を作っている。当たり前のように使っていた紙を作っているのが誰なのか、今まで気にしてすらいなかった。
「い、いえ、もちろん教会の認可は降りています。いかに聖別(マディール)を受けた魔物とはいえ魔物が作った紙など使いたくはないかもしれませんが……」
タストの沈黙をどう解釈したのか、テゴ村の村長は早口でまくし立てる。
「……聖別(マディール)を受けた魔物は他にもいるのですか?」
「え、ええ。畑仕事をしている土ネズミです。田畑を耕しております」
「土ネズミが自ら畑を耕しているのですか?」
「ええ」
「……その土ネズミを見ることはできますか?」
「と、とんでもございません! 御子様に穢れた魔物をお見せするなど我らテゴ村の恥! そのようなことはなさらなくてもよいのです!」
隠しているのではなく、気を遣って貴人に穢れた魔物を見せようとはしていない。だからこそ、上流階級にはどれが魔物によって作られた品物なのかがわからない。
「その、魔物に仕事をさせるのは普通なのですか?」
「え、ええ。魔物どもに仕事をさせるなど御不快かもしれませんが、これも聖典に従ってのこと……」
確かに聖別(マディール)を受けた魔物は働かせるべきだと聖典にも書かれている。タストは今まで魔物の仕事というものを地球でいう家畜のように畜力を利用して畑を耕したりする程度だと思っていた。
しかし、話を聞く限りではきちんとした農業や製紙技術を魔物は持っている。
知らない。
そんな話は今まで一度も聞いたことがない。自分は何も知らない。
ごく普通の農民がどのように暮らしているかなんて、全く知らなかった。ファティは知っているのだろうか。……恐らく、知らない。
セイノス教徒はとにかく穢れを嫌う。その象徴である魔物を嫌う。聖女とされる彼女に魔物の話題を持ち出すことさえ避けただろう。
もしも、仮に。
魔物の側から見れば魔物が奴隷のように扱われているように見えたのだとしたら?
元は人でも魔物として生を受けた誰かはどう思うだろうか。それでも、人を手助けしようと思うのだろうか。
きっとそうだろう。少なくとも今まで襲ってきた誰かを返り討ちにしたことはあっても、積極的に襲ったのはアグルの兄トラム一人だけだ。
むしろ、人に危害を加えようとする熊やトカゲを退治しているようにさえ感じる。背中に冷たいものが走る。
もしもそれが正しいのなら――――。
「僕たちはとんでもない勘違いをしていたんじゃ……?」
ぽつりとつぶやいた言葉は煙のようにかき消えた。
教都チャンガンの喧騒と策謀になれたこの身にはその穏やかさがありがたかった。
「あとどれほどでトゥーハ村に到着しますか」
「もうすぐですタスト様」
タストは一路トゥーハ村に向かっていた。目的は聖女様の活躍を故郷に伝える……という名目で蟻の転生者についての情報を入手するためだ。
トゥーハ村にかつて現れた蟻が転生者なのかどうか確信は持てなかったが、それを確かめるためにもこの調査をできるだけ迅速に行うつもりだった。
トゥーハ村の新たな村長は背が低く、それでもがっしりとした体格の日に焼けた肌がいかにも農夫という女性だった。アグルやファティが教都チャンガンに移住したことにより、繰り上げるような形で修道士になり、村長になったらしい。
ささやかながら、歓迎の席が設けられていた。
「ようこそいらっしゃいました御子様。歓待の用意ができずに申し訳ありません」
「いいえ。突然の来訪にもかかわらず礼を尽くしていただいたことを感謝します」
村長の言う通り、食卓に上がった料理はわびしかったが、それがこの村に初めて来て、ファティと出会ったことを思い出して、気分が良かった。
「それで、聖女様のご活躍をお聞かせいただけるとか」
興奮を抑えられぬ面持ちで村長が尋ねてくる。彼女にとって、いやこの村の住民にとって聖女とは誇りそのものなのだろう。
「はい、それでは――――」
ファティの活躍、行動、それらを手短にまとめて聞かせる。タストとしてはあくまでもついでの用事なのでさっさと済ませたかったが、村長が根掘り葉掘り聞くので、話を終えることは難しかった。
「おおお……何と素晴らしい。聖女様こそ神が我らに与えたもう奇跡です……」
村長は滂沱の涙を流し感動している。放っておけば朝から晩まで涙を流しそうだ。
「近頃村々で病が流行っているという話も聞きますが……聖女様の恩寵があれば必ずや我らに祝福があるに違いありません……」
流行り病? そんな話は聞いていなかったけれど……進軍に影響はないのだろうか。
いや、それよりも村長の相槌が途切れた今こそ話題を変えるいい機会だ。
「村長殿。私が以前聞いた話によると聖女様はこの地で蟻と戦ったとか」
「はい。あの憎らしい蟻のことならば、昨日のことのように思い出せます」
そうして村長が語りだしたのは蟻がいかに邪悪で卑劣だったかということだ。それに対してサリやアグルがいかに勇敢に戦ったのか、神も照覧いただいているに違いない……はっきり言えば以前ファティから聞いた内容に脚色を加えただけの内容だった。
聞きたいのはそういうことではないのだけれど、セイノス教徒にとって正しいか、清らかであるか、というのは一大事なのだ。
(というか、まずアグルさんに話を聞いておけばよかったんじゃ……)
自分の要領の悪さに辟易する。とはいえここまで来てしまった以上なにも聞かないわけにはいかない。
「ええ、そういうわけでサリ殿とそのご一行が蟻の討伐に向かいました」
話をまとめると、アグルの兄トラムが蟻に殺され、その蟻を討伐するためにサリが村人を率いたらしい。
「それからどうなったんですか?」
「熊に襲われたサリ殿が村にお戻りになったのです。いえ、もちろん村を危機から救うためです。決して逃げたわけではないでしょう」
セイノス教徒にとって魔物から逃げることは恥だ。だからサリが責められると思ったのか、村長は慌てて弁解していた。しかしタストが気になったのは別のことだ。
「蟻はどうなったんですか?」
「熊に食われたのでは? 野蛮な魔物らしく殺し合ったのでしょう」
それはありえないはずだ。武器を使い、灰色の体を持つ蟻。恐らくそれは転生者が率いる蟻のはず。そもそも転生者なら魔物を操れるはず。熊と殺し合うわけはない。いや、もしかしたら強力な魔物は操れないのかもしれないけれど。
「熊と蟻が争ったのでしょうか」
「どうでしょう。少なくともサリ殿と一行は熊に手傷を負わせました」
「熊に傷を? できるのですか?」
「無論。我らは聖女様の成長を見守る栄光を賜りましたから。魔物同士で殺し合い、挙句に滅びる蟻とは違います」
実はタストも熊を去年見ている。高原を出発した後、西のスーサンで直接目視した。正直に言って十数人では傷一つつけることさえできないだろう。ふと、ありえない妄想をしてしまうが、それを振り払うように質問した。
「翌年も灰色の蟻と戦ったのですよね? 同じ蟻ではないのですか?」
「確かに……逃げ延びた蟻がいたのでしょうか」
その空白期間に何があったのだろうか。それを知るためには次の村、テゴ村に行く必要がある。
翌日。隣村であるテゴ村を訪れた。そこもたいしてトゥーハ村と変わり映えのない村だった。
予想通りの歓迎に慣れてきたタストは話を受け流しつつ、村長から目的の話題に誘導することに成功した。
「ではまずこの村はトカゲに襲われたのですね?」
「はい。忌々しいトカゲが我々の家を踏み荒らしました。そののち、蟻が攻め入ってきましたが、神の家を脅かすことは叶わず、騎士団が到着すると逃げていきました」
誇らしそうに説明する村長に対してタストはある疑念が強くなることを感じていた。
「……蟻に殺された人はいたのですか?」
「たまたま私たちの村を訪れていた巡察使様が我らに教会に隠れているようにお命じになったのち、ただ一人蟻に立ち向かっていきました。あの方こそまぎれもなく神と救世主の教えに従う敬虔なるセイノス教徒でした」
涙ぐむ村長の話を冷静に検分してみると、蟻が自ら襲った人間は誰もいないのだ。それどころかむしろ……。
「で、では被害は……何か被害はありましたか?」
「村を穢れた魔物に蹂躙されたことは我々の最大の恥辱です」
お前の心情は聞いてない!
そう叫びたいのをぐっとこらえてより深く話を聞きだす。
「被害といえば……近くの家畜がいなくなっていたのでそれも襲われたのかもしれません」
「家畜? どんな家畜ですか?」
「い、いえ、たいしたことはありません。御子様がお気になさるようなことでは……」
どうやらたいしたことらしい。嘘を見抜く能力なんかなくてもそれくらいわかる。
「申し訳ありませんが正直に答えていただけませんか?」
タストが圧力をかけるとあっさり折れた。
「その……紙を作っている家畜です」
「家畜? 家畜が紙を作っているのですか?」
「聖別(マディール)によって聖なる知恵を授けられた魔物です」
予想すらしていなかった言葉に呆然とする。魔物が紙を作っている。当たり前のように使っていた紙を作っているのが誰なのか、今まで気にしてすらいなかった。
「い、いえ、もちろん教会の認可は降りています。いかに聖別(マディール)を受けた魔物とはいえ魔物が作った紙など使いたくはないかもしれませんが……」
タストの沈黙をどう解釈したのか、テゴ村の村長は早口でまくし立てる。
「……聖別(マディール)を受けた魔物は他にもいるのですか?」
「え、ええ。畑仕事をしている土ネズミです。田畑を耕しております」
「土ネズミが自ら畑を耕しているのですか?」
「ええ」
「……その土ネズミを見ることはできますか?」
「と、とんでもございません! 御子様に穢れた魔物をお見せするなど我らテゴ村の恥! そのようなことはなさらなくてもよいのです!」
隠しているのではなく、気を遣って貴人に穢れた魔物を見せようとはしていない。だからこそ、上流階級にはどれが魔物によって作られた品物なのかがわからない。
「その、魔物に仕事をさせるのは普通なのですか?」
「え、ええ。魔物どもに仕事をさせるなど御不快かもしれませんが、これも聖典に従ってのこと……」
確かに聖別(マディール)を受けた魔物は働かせるべきだと聖典にも書かれている。タストは今まで魔物の仕事というものを地球でいう家畜のように畜力を利用して畑を耕したりする程度だと思っていた。
しかし、話を聞く限りではきちんとした農業や製紙技術を魔物は持っている。
知らない。
そんな話は今まで一度も聞いたことがない。自分は何も知らない。
ごく普通の農民がどのように暮らしているかなんて、全く知らなかった。ファティは知っているのだろうか。……恐らく、知らない。
セイノス教徒はとにかく穢れを嫌う。その象徴である魔物を嫌う。聖女とされる彼女に魔物の話題を持ち出すことさえ避けただろう。
もしも、仮に。
魔物の側から見れば魔物が奴隷のように扱われているように見えたのだとしたら?
元は人でも魔物として生を受けた誰かはどう思うだろうか。それでも、人を手助けしようと思うのだろうか。
きっとそうだろう。少なくとも今まで襲ってきた誰かを返り討ちにしたことはあっても、積極的に襲ったのはアグルの兄トラム一人だけだ。
むしろ、人に危害を加えようとする熊やトカゲを退治しているようにさえ感じる。背中に冷たいものが走る。
もしもそれが正しいのなら――――。
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