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秋葉夕雲

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第三章

181 果てしない坂道

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「嘘……二匹も……?」
 逃げた熊の行く先は自分の仲間のもとだった。一匹でも強敵であるのは間違いない。それが二匹。
 二対一。単純な戦力差ではすでに倍。だが退くわけにはいかない。ここで退けばきっと熊はあの町へ向かう。そうなればきっと騎士団は壊滅する。あくまでも熊は一匹であるという前提で準備を進めていたはずだ。
「通さない。ここで私があなた達を、倒さないと!」
 熊は地響きと、風を纏って二匹同時に突進してくる。
 銀色の壁で防ぐ――――防いだ。はずだ。
「お、重い!?」
 神秘に感覚は通っていないはずだ。しかし盾から二匹の熊の巨体の重量がのしかかっているような重みを感じる。何なんだろうかこの敵は!
 巨体でありながら俊敏にそれもファティを取り囲むように動き、なおかつ正面に相対する熊は不用意に攻撃を仕掛けない。剣を出そうにもそんな隙はそうそうなく、攻撃に転じようとしてもさっと巨体を翻す。
 驚くべきことにこの熊たちは全く油断していない。体の大きさからも、数においても勝っており、誰がどう見ても有利なこの状況で一分の隙もない攻撃を仕掛けてくる。
 じりじりと焦りが募る。彼女にとって状況は不利に思えていた。
敵が二つというのは単純に敵戦力が二倍になるということではない。特に敵が一つの方向に固まっていなければ注意を全方位に向けなければならない。そのうえ攻撃の手数は二倍。
 それこそ実力差が四倍あっても二対一という状況はその差をひっくり返すことは不可能ではない。
 つまるところ。熊がファティをいまだに仕留めきれずにいるということは。ファティと熊の間にはそれ以上の力量差があるということだ。

 だがこの場にいるのは熊とファティだけではない。
 夜を裂くように白い何かがファティの体めがけて飛来するが、それを認識する前に体を盾が覆う。
「キャッ!?」
 戦いの場にそぐわない素っ頓狂な声が出るが恥ずかしがっている暇はない。
 視線の先にいたのは黒い蛇だった。
(もしかしてこの蛇も熊の仲間!?)
 が、その予想は外れていた。蛇から放たれた何かは熊にも当たっていた。効いているようには見えないが。
(仲間割れ……? ううん、もともと敵同士なの?)
 ファティは何となくハブとマングースの話を思い出す。もちろんあれとはスケールが違うが……なんとなく蛇と熊は仲が悪いように感じる。
 しかし厄介な闖入者が現れたことで戦いは膠着してしまった。蛇は何かを撃ちだすことはやめたが立ち去ろうとはしない。
 三勢力がにらみ合う状況がしばし続いたが、それを破ったのは誰でもなかった。

「いたぞ! 熊だ! 蛇もいる! 聖女様もこちらにいらっしゃるぞ!」
 聞き慣れた、アグルの声だった。

「アグルさん!? どうしてここに!?」
 それも一人ではない。軍勢と呼べる数の人々がそこかしこから現れた。
「うおおおおお!!!」
 雄たけびと、中には神に祈る声も聞こえる。騎士団はまず蛇に狙いを定めたようだ。
「神の御加護を!」
 騎士団と蛇が激突する寸前、
「ダメ!」
 盾を両者の間に出現させる。熊から目を離したそれを隙とみなしたのか、一匹の熊は巨体を驚くほど静かに、素早くもひっそりと身を滑らせ、その爪を振るった。
 しかしそれさえも銀色の鎧に防がれる。熊の爪は彼女の肌から紙一重のところで止まっていた。熊が近づいていることに気付いたファティは反撃を開始する。
(正面から斬りかかっても当たらないなら!)
 地面に手を置く。地面に亀裂が広がるが、それが意味するところは誰もわからない。いや、わかったときにはすでに手遅れだっただろう。地面から現れた銀色の刃が熊の体を切り刻んだ。
 ファティは地面から剣を湾曲させながら進ませることで熊からは見えないように攻撃した。初めての使い方だったので狙いが甘く、急所は外したが十分なダメージを与えることができた。
 右手は土煙を立てながら転がり、膝辺りには風穴があいている。まっとうな生き物ならもう動けないだろうが、熊ならばこの程度では即死することはない。
 それを証明するように再び咆哮が轟く。間近にいたファティはあまりの音に耳をふさぐ。騎士団の面々も驚きにひるむ。そのせいで誰もたった今斬り落とされた右手をもう一匹のラーテルに向かって蹴り飛ばしたのを目撃したものはいなかった。

 次にふっと熊はファティから目をそらす。後方の一匹と目を合わせる。ファティにはそれが助けを求める視線に見えた。ほんの、ほんの一瞬の出来事。

 後方の熊は何かを銜えると軽やかに走り去っていく。
 ファティの目の前にいる熊もまた飛びのこうとして、転んだ。片手を失っているのでバランスがとれなかったのだろう。
「邪悪な熊を逃してはなりません!」
「おおおお!」
 駕籠からカンツの指示が飛ぶ。団員たちはそれに応えて鬨の声を上げる。負傷した熊へと殺到する。
 逃げきれないと悟ったのか熊は遁走から闘争へと体勢を変える。負傷しているとはいえいまだに熊は騎士団を壊滅させられる力を持っている。
(私がやらなきゃ!)
 わずかに残った逡巡を振り払い。再び剣をあらわにする。今度は思いっきり振りかぶる。
 熊は残った腕で顔を庇うようなしぐさをするが、その腕ごと頭を切り裂く。真っ赤な血が間欠泉のように吹き出し見えてはいけないものが見えるほどにその体をえぐる。今度こそ間違いなく致命傷。
 しかしまだ動く。ファティからも先ほど逃げた熊からも遠ざかるように這っていく。
(どこに……行くんだろう?)
 仲間からも見捨てられ、もう間もなく死ぬ体で何故まだ動こうとするのか。痛ましい姿に思わず同情してしまう。しかしそう思ったのはファティだけだったようだ。
「まだ生きているぞ! 直ちに討伐し、悪石を砕くのだ!」
 誰かが叫んだ。ファティ自身その通りだと思う。あの熊はこの村だけじゃなく他の町や村を襲って多くの人々を傷つけた。許していいはずはない。でも……
「お待ちなさい! その熊と勇敢に戦ったのは聖女様です! 悪石を砕くのは聖女様であるべきです!」
 誰もが身をすくませる。熊に神秘を振るおうとした騎士団員は自身の厚顔さを、ファティは戸惑いから、それぞれ全く違う理由ではあったが。
 視線が一斉にファティの方へ向く。そう、彼女は期待されている。尊敬と崇拝の視線だ。前世では決して向けられなかった視線だ。この視線と期待を裏切ることは許されない。
 糸繰人形のようにふらふらと熊に近づき、銀色の剣を一閃させた。
 歓声が上がる。戦場にいる誰もが新たなる熊狩りの誕生を祝福していた。
 一斉にファティに多くの人々が駆け寄り、誰もが祈りと祝福の言葉を述べる。
 そこに一人の赤い髪を持った女性が息を切らせてファティの手を取った。
「ファ……聖女様、ご無事ですか!?」
「サリ! 貴女まで……」
「申し訳ありません聖女様! あの人に聖女様の住まいを案内したばかりにこのようなことになるとは! 私をお許しください!」
 一気にまくしたてるサリに目を白黒させたが、事情は呑み込めた。あの老婆をファティのもとに案内したのはサリらしい。
「謝らないでサリ。あの人の頼みを聞くって決めたのは私だから。あなたのせいじゃないわ」
 むしろこんなにも心配をかけてしまったことに申し訳なさを感じる。それに結局あの老婆の昆孫を助けられたのかどうかはわからない。自分がやったことは熊を殺したことだけだ。
「寛大な御言葉、誠に感謝します」
 手を取り合う二人を見て、誰もがこころを洗われずにはいられなかった。

(どうにかなったか)
 ここに来るまで騎士団は無傷だったわけではない。熊に率いられた魔物は確かに騎士団に損害を与えていた。それでも熊と直接戦うよりは被害が軽微だったことは確かだ。
 そして何よりも銀髪は無事だ。それだけでも犠牲の価値はある。それに何よりこれで銀髪も正真正銘の熊狩りだ。ますます名声が増すことは間違いない。しかしアグルの心は晴れなかった。
(そもそも熊が何故この季節に現れた? それも二体も。まさかとは思うが……ニュエルの仕業か?)
 熊に何らかの手出しを行って意図的に暴れさせることは、熊と何年も戦ってきたニュエルなら可能かもしれない。もしも失敗すればスーサンが壊滅しかねないが……その危険を承知しても銀髪をアグルやルファイ家から切り離したかったのかもしれない。確かにそれだけの価値はある。
(スーサンの策謀はどうあれ、被害が少なかったことは喜……いや待てよ?)
 今回の戦いは被害が少なく、短期間で戦闘が終わった。間違いなく。言い換えればそれは熊討伐に必要な経費が少なかったことを意味する。スーサンは熊の出没地域であるだけに中央から多額の援助を受けているはずだ。
 それは本来なら主に騎士団の滞在中の食費や俸給、死亡した場合遺族への恩給として消費される。今回熊との戦いにどういう形であれ勝利した以上多額の援助が得られることは間違いない。
 対して、スーサン以外は得をしたか? 何もしていない。熊を討伐した褒賞の大部分は銀髪のものだ。ほとんどの兵は死亡していない以上遺族への恩給はない。それどころか熊と出会ってすらいない兵には報奨金は送られない。スーサンまで行って帰ってきただけなら、文字通りの穀潰しだ。
 一匹の熊は逃げたとはいえもしもここで騎士団が解散されるようなことがあれば故郷へ帰る賃金があるかどうかさえ怪しい。一旦騎士団が解散されれば聖旗などただの布のついた棒切れと大差ない。行きのように誰もが無条件で食料を分けるとは限らないし、そもそもその食料が残っているかどうかさえ分からない。アグル自身、少なからず熊との戦いで兵が死ぬと考えていたから帰りの食料は行きよりも少なく見積もっていた。
(何ということだ。スーサンの連中は潜在敵も味方もほとんど失わずに我々の懐を傷つけたではないか)
 それに今回の手柄は全て銀髪のもの。それをよしとしない勢力も少なからずいるだろう。もちろん銀髪を取り込もうとする勢力もますます増える。教都ならいざ知らずこの辺境ではルファイ家の力も及ぶまい。
 だからこそ彼は思考する。
(いや、むしろこれは好機だ。何しろルファイ家の傀儡であるカンツはこのアグルよりも困っているだろうからな)
 どんな人間でも苦境に立たされれば頼れるものを探したくなる。それはどんな立場でも変わるまい。
 探せばすぐに見つかった。銀髪とは違い喧騒の中心からは離れている。するりと難しい顔をしているカンツに忍び寄る。肉体においても心においても。
「カンツ様。熊の討伐おめでとうございます」
「ん、ああ貴公か」
「銀の聖女様のお力いかがでしたでしょうか」
「素晴らしい神秘です。まさしく神の愛が形になったかのような銀色でした」
 心臓の鼓動が早くなることを自覚する。これは賭けだ。
「まさしくあの神秘はクワイの宝です。ルファイ家にこそふさわしい」
 ぴくっとカンツの頬が動く。
「その通り。聖女様のお力はルファイ家、ひいては教皇様のおそばにいることで磨かれるだろう。そなたもそう思うであろう?」
「その通りでございます」
 心中で満面の笑みを浮かべながら慇懃に答える。カンツはじろじろとアグルを値踏みする視線を向けている。
(愚かな。値踏みとは交渉前に済ませるべきだろう。これでこいつはもう俺を見切れない)
 賭けに勝った。これで彼の安全は確約された。少なくともルファイ家が優勢である間は。
(しかし……銀髪……あの女、また強くなっていたな)
 向こうでは熊の死体を焼いている。熊の死体はまた別の悪魔を呼び寄せると言われている。だから素早く火葬しなければならない。
 祈りをささげている一団がおり、その中心には銀髪がいる。あれの周りには確かに人が集まる。例え闘争の渦中であっても、血みどろの獣道であっても。
 銀色の髪と、圧倒的な力に惹かれてゆく。
 もしも、あれが道を誤ればだれもかれも果てのない坂道を下るようにどこまでも転げ落ちるのではないか。一抹の不安に襲われる。
(だからこそ俺がいる。俺ならばあの頭の悪いガキを使いこなすことができる)
 勝利に沸き立つ戦場で、その実皆の心がバラバラだったことに気付いているものは誰もいなかった。
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