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36 理仁視点

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 理仁の両親は、真尋と同じように二人ともベータだった。

 真尋の家と違うのは、その二人が強くアルファにコンプレックスを持っていたことだ。そして母親のほうが、その劣等感は強かった。
 アルファという理由だけではないかもしれない。
 思い返して見ても、物心ついた頃から、理仁はとにかく母親に笑いかけられたことはなかった。
 保育園、幼稚園、小学校とそれなりに友人はできる。家族関係に触れることもある。そうすると、自分の家がそことは違う、と気づく。

『どうしてあの子のお母さんとは違うの』

 問いかけが、うっかり口からこぼれてしまったことがある。母親はそれでも理仁の方を見なかった。いいわよ、とてらいなく言った。

『いいわよ別に。あの子のお母さんがいいなら、あの子の家の子になれば。どうせアルファだものね。喜ばれるかも知れないわね』

 今思い返して見ても、あれは本気だったと理仁は思う。実際、そういう話を母親は兄にしていたと後々知った。
 そのときは、泣いて謝って、それでも理仁は許されなかった。外に引きずり出されて、扉を閉められた。父親が帰ってくるまで泣いても懇願しても家は開けてもらえなかったし、ドアを叩くとうるさい、と反対側のドアから強く叩かれてそれ以上叩くこともできなかった。

 父はごめんな、とよく言った。

『母さんにも理由があるんだよ。労ってあげないといけないんだ。ごめんな。わかってしてほしい』

 理由を聞いても答えが帰ったことはなかった。理由があればそうしていいと思っているのか。年齢を重ねるにつれて、そう思うようにもなったが、確認したことはない。

 母は不安定で、あんたなんか、と言いながらよく怒り、よく泣いた。そして泣いた母を抱きしめて大丈夫だよ、大丈夫だよ、と父が囁く。そして父は、『母さんが辛いから、見えないよういまは部屋にいなさい』と理仁を追い払う。自分の部屋でも母の声はよく聞こえた。

『アルファなんか』
『アルファがなんだって言うの』

 理仁は直接叩かれたり、暴力を振るわれたわけではない。部屋は清潔に保たれているし、食事もある。服も、本も、おもちゃも与えられた。それは間違いがない。
 ただ、母が理仁を見ないだけだ。見るときは、大抵は冷たい目をしていて、睨まれた。何かを探るように、執拗に見つめられることもあった。

 母が子供に対してそういう人、ということであったなら、もっと早く諦めがついただろう。理仁もこんなに複雑な感情は抱かなかったかもしれない。
 だが弟が生まれて、母が変わった。
 理仁の友人の母と同じように、弟に優しく語りかけ、頷き、抱きしめる。最初は弟が小さいからだ、と思っていた。赤ちゃんだから、そう向き合っている。きっと自分だって乳児の頃は、そうだったのだろう。

 だから弟の写真を撮る姿に、理仁は愕然とした。

 自分とは明らかに違うのだということに気づいたからだ。
 理仁の写真がないわけではない。親戚の家で親戚と撮ったこともある。家では、何かの節目に理仁だけの写真を撮る。

 弟とは、母は一緒に写る。

 理仁には与えられなかったものだった。
 弟が生まれて母が変わったのかと一瞬思ったが、そうではなかった。理仁への対応は相変わらずだ。理仁は弟が嫌いなわけではなかったが、とにかく近寄ることもできなかった。
 いまでは慕わしげに兄ちゃんと呼ばれもするが、どこか遠い存在だった。

『俺のせいかもしれないなあ』

 そう言ったのは、母の兄だった。
 小学六年生の夏、祖父の葬式の席で伯父と会った。精進落としの食事を終え、皆が雑談するのを横目に建物の中庭に出たところで呼び止められたのだった。

『何が伯父さんのせい?』
『きみの母親がきみにしている仕打ちについて言っている』

 理仁は伯父を見上げ、日差しに目が眩んだようにぎゅっと閉じた。しゃわしゃわ、と蝉の声がやたら大きく聞こえていた。

『もうわかるだろう?』

 理仁の母は、ずっと兄に比較されて育ったらしい。伯父はアルファで、特に成績も良く、母は優秀な成績を取っても兄には及ばないと見向きもされなかった。
 お兄ちゃんはあんなにできるのに、あなたはだめねえ。毎日母親からそう言われるのだと母は兄を詰った。

『俺は母親を止めきれなかった。早々に家を出たほうがいいと思ってそうしたが、余計に拗れたかもしれない』

 伯父が中腰になり、自分と目線を合わせるのを、理仁は不思議な気持ちで見ていた。母は、自分と同じなのか、と思った。

『お前が生まれたときも、心配はあったけど、きっと親になればと思ってしまったんだよな』

 間違いだった。伯父は苦いものを噛みしめるように視線を一瞬落とした。そういえば、今日はこの人の父親のお葬式だ。そんなことを不意に思った。

『理仁。俺んちにくるか?』
『……行かない』

 それがただ遊びに行く、という話ではないことは理仁にもすぐにわかった。考えるよりも先に、返事が口から出ていた。
 伯父は理仁の髪をぐしゃぐしゃと撫で、そうか、と相槌を打った。

『理仁、あのな、誰に何かを言われても、たとえば辛いところから逃げても、それは間違いじゃないんだよ』
『それはわかるよ』
『いや、……うん。でも覚えていてくれ。おまえががんばったことは、何があっても消えることじゃない。だから俺のところに来たくなったら来ればいい。何かあったら相談しろ。そのことで、お前の何かが失われるわけじゃないから』

 伯父の言葉は理仁にもわかる。わかるが、それはきっと自分に向けられる言葉ではないだろうと思ってしまった。
 弟に対する母親の態度を見るたびに期待してしまうことをやめられない。弟がいい成績をとって褒められているのを見れば、自分もいい成績ならいつか気にかけられることもあるのではないか。
 母親の期待に応えられる子供とは何かを考えていた。
 いい子ね。そう弟に向けられる言葉がひとつでもこちらに与えられないか。勉強をがんばってみたり、児童生徒会に活動に尽力したり、できることをとにかくやった。
 それ以外の方法がわからなかった。



 誘いのことは時々思い出したが、時々連絡をくれる伯父は、その話を蒸し返すようなことはなかった。特に家族間の雰囲気は変わらないまま、理仁は中学に上がった。
 その年は、珍しくアルファの入学が多かったらしい。理仁もそうだが、アルファ同士はなんとなくお互いのバース性が感じ取れる。ベータやオメガもそういったものがあるのかもしれないが、そういったものは俗説とされ、あまり詳しく研究されてはいない。それでも勘のようなものが働く。アルファとは、なんとなく近くにいるだけで仲間意識が芽生えた。

 理仁のクラスの担任になったのは、優しく穏やかなオメガの若い先生だった。プロテクターがあるのですぐにオメガと分かり、クラスの中でも悪童と呼ばれる子供たちにからかわれることも多く、いま思い返せばしゃれにならない悪戯をされていることもあった。

 まだ自分たちは幼かった。バース性については説明されていたし、アルファは秩序を守るものと知っていた。だからアルファの意識が強いものたちは、悪戯を問題視し、なるべく先生の近くにいた。

 アルファとオメガ、プロテクターをする意味、発情期、抑制剤。知識はあった。だがあの頃、理解はしていなかったように理仁は思う。秩序を乱してはいけない、オメガを攻撃してはいけない。そういう意識は、知識とは別のところで存在した。いつの間にか当然として認識されていた。

 まだ幼く、バース意識が低いものが多い時期だった。それでいて、バース性に興味があるものは多かった。
 そのせいでその年に事件が起こってしまった。原因は、悪童たちの担任に対するたちの悪い悪戯だった。

 プロテクターを壊す、抑制剤を隠す。行ったものたちは、深く考えていたわけではないらしい。ただプロテクターの下はどうなっているのか、抑制剤を飲まなければどうなってしまうのか。先生の困ったところが見たい。そんな幼稚な発想だった。
 そしてその場所に居合わせた、悪戯とは無関係のアルファの生徒が、担任のうなじを噛んでしまった。

 アルファは、理仁の友人だった。日直でふたり教室に残り、日誌を提出しに行った友人が、事件に巻き込まれた。なかなか戻ってこない友人を怪訝に思い、職員室に行ったことで理仁は事件を知った。先生や生徒を振り払い、担任をひとりで抱え込んでいる友人は、理仁の知っている姿とはまるで違っていた。

 友人は、アルファであることに誇りを持っている人間だった。家族にも愛されて、少しわがままで幼いながらの傲慢さもあったが、それさえも好ましいくらい、清々しい性格をしていた。

 どうしてこんなことに。

 体格の大きい先生や上級生のアルファたち数人でようやく友人が押さえつけられるのを、理仁は呆然とただ見ていた。
 友人は、どうしてしまったのか。
 その後すぐに、アルファの生徒、その保護者が集められ、状況の説明があった。ショックを受けるかも知れないから、全生徒に説明するより前にとのことだった。
 事の経緯を説明後、担任は学校を離れることを説明された。事故とはいえつがいになった生徒はどうなるのかの説明はなかった。今後はこのようなことがないよう、再発防止に務めます。それで終わった。

 保護者として参加した母は、静かにその話を聞いていた。特に何も言われなかったので、一緒に帰途についた。理仁が母の後ろを歩いていただけだが。その道中一度だけ、母は理仁を見た。正面から。

『アルファって犬みたいね』

 はっと理仁は身震いした。母の、いつかの探るような冷たい視線の意味を、なんとなく理解した。躾のできていない、家畜を見るような目だ。

 実際自分がそうであるとは理仁は思わない。母は、自分の兄や理仁を傷つけたいだけだ。成長し、それくらいのことは理仁にも分かるようになった。それでも、その言葉は理仁の深い部分に刺さった。
 担任を噛み、他を威嚇する友人を思い出す。

 あれは理仁だったかも知れない。


 その日、理仁は初めて自分から伯父に連絡した。
 抑制剤を無心するためだった。
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