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 発情期を明けてから、真尋は理仁とよく話すようになった。
 元々においがあると意識してしまう。以前はいる、と分かるとそれだけで頑なに視界に入れないように気をつけていた。意識していることを知られたくなかった。
 いまは逆だ。
 よく目が合うようになったな。理仁が言うので、見すぎているのではないかと不安になる。

「においがすると、つい探しちまうんだよな。変かもしれねーけど」
「変に気をとられるくらいなら、探した方がわかりやすい。近くにいれば気にならないだろ」
「うん」

 理仁が、自分にもそういうところがある、というので真尋は安心して相槌を打った。
「南野ってそんなに素直だったっけ?」と言ったのは武藤だ。叩いておいた。

 話す機会が増えるにつれ、一緒に過ごす機会も増えた。出された課題をこなしたり、資料を探したり。今日も区立図書館に共に行くか、と昼食の間に流れで決まった。
 ひとりで勉強をすることは苦ではない。集中もできる。だがいままでひとりで進めていたことが、誰かを頼るともっと先に進めることがわかった。武藤や寿とももちろんそうだが、理仁とはまた別のベクトルで話しやすい。

「ぶつかってもぜんぜん揺らがない感じがするっていうか」
「体格の問題か?」
「それもある」

 理仁の肩幅に、思わず真尋が頷く。途端に理仁は吹き出した。いつもの、口のはしが上がるだけの笑い方ではない。
 理仁って笑うんだな。つい真尋はぽろりと零した。

「それはこっちのセリフだ」
「あー、あの、ごめん」

 図書館へ向かう大通り。信号機を眺めるように、真尋は視線を彷徨わせた。赤信号に、横断歩道前にふたり並んで止まる。真尋はとんとん、と地面を爪先で蹴った。

「ずっと悪い態度とってたな、俺」
「気にしてるのか」

 ひょい、と顔を覗き込まれ、真尋は勢いよく顔を上げた。

「そりゃあ俺だって」

 理仁の顔を見て、真尋は何を言おうとしていたのか忘れてしまった。何も気にしていない。そう言わんばかりに、きらきらとした笑顔だった。それがとても眩しく感じられ、真尋は目を細めた。

「俺は南野と話せるようになって嬉しいよ」
「そ……そっか」
「ずっとどんなやつか気になってたから」

 ふうん。真尋は自分のくちびるが、もにもにと波打つのを感じた。精一杯引き締めるが制御ができない。

「がっかりしただろ。嫌なやつで」
「嫌なやつじゃないだろ」

 理仁は、もういつもの穏やかな表情に戻っている。真尋が見つめていると、その大きな手がスッと髪のほうへと伸びてきた。
 撫でられるのだろうか。
 避けるでもなく、真尋はその手の動きを待つ。不快ではない。そのことが、真尋には不思議だった。
 アルファは身長が高い人間が多い。野上も、先輩絡みの嫌がらせも、上から押さえつけるように頭を撫でられることがあった。加えて力の弱さや身長の低さをあげつらわれ、嗤われる。あれはひどく屈辱だった。
 さらに悔しいことに、そういう行為に身体が震えることもあった。自分よりも力の強い、体格のいい相手だ。振り払うことがせいぜいで、襟首を掴みあげることもできなかった。
 理仁はもちろんそういう人間ではない。だが真尋を侮辱した人間たちと、体格は同じくらいだ。それでも恐怖を感じない。動かずに待ちながらも、差し出すような心地でさえあった。
 じっと見つめる先で、理仁は真尋の髪の端に引っかかっていた葉を落とした。髪をひと束梳かれ、真尋はつい目を瞑ってしまう。髪の先に神経はないはずなのに、優しく撫でられたような錯覚がある。

「嫌なやつは、他人を庇ったりしない」
「庇う?」
「そもそも野上とのトラブルは、寿との間に入ったから起きたんだろう?」
「ああ……あれは庇ったっていうわけじゃない」

 真尋は頰をかいた。そんな感心されるようなものではなかった。美化されているのではないだろうか。真尋は居心地の悪さに口を開く。

「寿は震えてたし」
「うん」
「怖がってるのにほっとくわけにはいかないだろ。俺は、野上のこと怖くなかったから」

 理仁の微笑ましそうな顔に、真尋の視線が泳ぐ。どうしてそんな表情をされなければならないのか。むずがゆい。信号が変わったのを機に、真尋は理仁を視界から追い出して、大股で横断歩道へ踏み出す。

「それに俺だけじゃないじゃん」
「うん?」
「結局、野上とのことは俺がどうこうしたわけじゃない。アルファたちが根回しして話をつけたんだろ? 俺は一時しのぎしかできなかった」
「それは違う」
「え?」

 大股でずんずん進んだところで、理仁は難なく真尋の隣に並ぶ。そうすると、引き寄せられるように真尋は理仁を見上げてしまう。においのせいだ。きっと。真尋はそう思っている。

「俺たちが、アルファがそうするのは、群れを乱さないようにするためだよ」
「だからそれは、寿を放って置かないってことだろ? 何が違うんだ?」
「南野の行動とは根本が違うんだよ」

 寿を助けたわけではなく、野上を止めた。理仁は言う。何が違うのか、真尋にはわからない。野上が止まり、寿が助かる。それは同じことだ。

「どちらにせよ収まるならいいと思うけどな」

 理仁は苦い調子で頷いている。その自嘲する様子が気になったが、すぐにいつも通りの表情に戻ってしまった。
 いつも通り。
 とはいえ、最近の理仁は柔らかい顔をしている。
 真尋が理仁の顔をしっかり見つめ返すようになったのも最近なので、あまり自信はないが。本当に、ほんの少しばかり、柔らかい。そう認識している。
 初めて食事に、昼食に誘われたとき、理仁はずいぶんそわそわとしていた。そわそわしているというのが、真尋にもしっかり分かった。思わず二つ返事で頷いてしまったくらいだ。
 いままで理仁のことをきちんと見ていなかったのだと、そのとき真尋は認めた。
 気づかないようにしていた。分からないようにしていた。
 そうすることで自分を守れると思っていたからだ。
 だが理仁を認識したところで、その近くへと寄ったところで、真尋の中の何かが壊れることはなかった。理仁のあのときの言葉を、真尋は時々噛みしめる。そうしていつの間にか、目の前にあったひとつの枠が外れたように思う。なぜだか、理仁がとても眩しく感じられる。

 薄々わかっていたことだが、理仁は真尋にとって付き合いやすい相手だった。真尋に合わせてくれている部分もあるのだろう。
 食事に最初に誘ってきたのは理仁だが、その後は定期的に行くようになった。武藤や寿が取っていない講義のときや篠崎や緑川がいないときはもちろん、夕食を一緒に取る日もある。理仁は先輩から聞いたと真尋においしいラーメン屋を教えてくれたし、真尋は理仁にカップ麺のラインナップが多くて安いスーパーを伝えた。
 講義では当たり前のように隣に座る。においが近い。強くにおいに包まれてしまうのに、その存在が隣にいることがわかっているからか、集中ができる。
 食事がおいしい。勉強も捗る。
 さらには理仁といることで、真尋は明らかに絡まれにくくなった。
 大学ではまだ先輩のことがある。外では外で、オメガと分かるプロテクターをしているせいか一人でいるといやに声をかけられる。
 そういうことが、理仁といるとまったくなかった。いまも。
 防波堤にしたいわけではないが、歩きやすさに愕然としたものだ。

「どうした」
「いや、なんていうか、静かだなと思ったんだ」
「ああ……」

 理仁はすぐ言外の意味を把握したようだった。説明をしなくてもいい、ということは真尋の心をずいぶんと軽くする。合わせてくれているのだろう、と思うのはこんなときだ。

「俺は身長が高いから」
「ん?」
「身長のせいで怖がられてる」
「何言ってんだか」

 真尋に比べればもちろん高いが、アルファとしては普通だろう。いやどうだろう。真尋は首を傾げる。真尋にしてみれば、アルファ連中はみな背が高い。平均がわからない。うーん、と唸っていると、理仁の顔が緩んだ。気を使われただろうか。

「南野」
「なんだ」
「……あんまり居心地が悪かったら言ってくれ」

 伝えにくそうな口ぶりに、真尋は笑ってしまった。

「最近は減ったよ」

 真尋が変に先輩たちに絡まれているのは周知の事実だ。それでも時間が経ち飽きたのか、絡む人間は減った。それでも噂が残っているので、新しくちょっかいをかけてくる輩もいる。

「なくなっているわけじゃないんだろう」
「まあ、そうだな」
「一緒に解決策くらい考えさせてくれ」

 真尋はうん、と素直に頷いた。反発する理由は何もないと分かっている。

「ありがと」

 理仁を見上げるとやっぱり眩しい。真尋は思う。
 居心地のいいにおいに、自然と大きく息を吸っていた。口元が緩む。
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