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 卒業式は、あの合格発表から一週間後のことだった。

 式が終わると、校庭は生徒たちで溢れた。卒業生も在校生もいたし、抱きつきあったり泣きながら笑いあったりしている。真尋はそれをぼんやりと眺めながら、自分も友人たちと写真を取り合った。
 違うクラスの沙苗といまのところは顔を合わせずにいる。避けられているのかもしれない。いつもなら沙苗といる真尋に、友人たちは不思議な顔をしていた。

「別れたんだ」
「うっそお……えっ。だって同じ大学受けたんじゃないっけ」
「そこからもう、違ったって言うか……」

 真尋は何を伝えたらいいのか、わからなかった。沙苗がもう自分とは無関係である、というのがまだ受け入れきれていない。

「別々の大学に行くし、あー……沙苗は……」

 あれからちゃんと話ができないか。真尋は連絡を取ろうとした。電話はもう話すことはないと着信拒否をされ、家に訪ねてみても家族に謝られながらそれでも会わせてはもらえなかった。そうして時間が空いてしまうと、今度はどうしたらいいかわからなくなった。会って、それで。別れないでほしいと縋るのか、真尋を切り捨てて別の相手を選んだことを詰るのか。

 あれからずっと目が回っているような錯覚がある。ふわふわとして、自分が地に足をつけて歩いていないのではないか。こんなふうに友人と笑い合っていても、どこか意識が遠く感じられる。

「沙苗は、俺じゃなくて、アルファの彼氏がいるんだって」
「はっ? なんだよそれ」

 口にしながら、やっぱりそれは遠い出来事のようだった。なんで、自分が、沙苗の彼氏の話をしているんだろう。

「あっ」

 顔を顰めて話を聞いていた友人の一人が、何かを思い出したように声をあげた。

「そういえば、朝見たわ。三組の……名前なんだっけ、あのクラスに一人アルファって公言しているやつがいるんだよ」
「アルファ?」

 真尋が首を傾げていると、三池だろ、と名前が挙がる。

「そうそう三池……原川とくっついて歩いてて、気になったんだ」
「ああ、そういえば……」

 話し込む中で、ひとりが急に頭をかきむしると、もー! と声をあげた。

「なんだよそれ! 真尋のがずっといい男じゃん!」
「そうだぞ! 真尋はかっこいいぞ!」

 三池の話も沙苗の話もぴたりとやめて、急にぐしゃぐしゃと友人たちが真尋の頭をかき混ぜてくる。四方八方から手が伸びてくるので、真尋はされるがままだ。

「なんだよ。何言い出してんだよ」
「なんだよじゃねーし」

 真尋が笑うのに、頰をぐにぐにと揉まれる。もみくちゃにされ、背中をバン、と叩かれて真尋はたたらを踏んだ。

「カラオケ行こうぜ。ファミレスでもいい」
「おごってやっから」
「だからなんなんだよ、それは」

 気を使われているのはわかっている。馬鹿言ってんなと真尋は笑うが、笑う側からまた頰を抓られる。やめてほしい。変に泣きそうになってしまう。

 写真を撮ろうと移動する友人たちに断って、真尋は少し距離を置いた。ひとりになりたかった。校門近くの桜の下は塀のせいで日陰になっていて、人気がない。ほ、と息を吐いた。
 ひとり外れて騒ぐ生徒たちを眺めていると、特に飛び抜けて身長が高いものがぽつぽつと混ざっているのがわかる。アルファだろう。ベータやオメガの可能性もあるが、身長が高いというのは、一番わかりやすいアルファの特徴だった。その中のひとりの隣に、沙苗がいた。赤いマフラーは、これだけ距離があってもよく見える。
 一緒にいる相手が三池だろうか。目を細めて眺めて、真尋は彼のことを思い出した。

 まだ授業がある頃、一度三池と真尋は顔を合わせたことがあった。いままで同じクラスになったこともなく、接する機会がなかった。わざわざ会うような関係でもない。それでも顔は知っていた。あちらも同じようなものだろう。
 会話はしなかった。ただ頭のてっぺんから爪先までをまじまじと眺めて、フーン、と面白くもなさそうに鼻を鳴らされただけだ。
 真尋の高校ではアルファやオメガはそれほど数が多くなかった。バース性関係なくカップルは多様だが、どうしても恋愛の対象としてアルファはオメガを、オメガはアルファを意識しやすい。遺伝的な相性がいいと、フェロモンが好ましく捉えられるせいだろう。品定めのような視線を受けることは、初めてではなかった。あんなにあからさまなのは流石にあれきりだが。

 だがいまになって真尋は思う。あれは真尋がオメガだから見に来たのではないのだろう。彼氏としての真尋を値踏みに来たのだ。
 あの頃の二人の関係はどういうものだったのだろう。あの頃から、もう本当はそういう仲だったのか。うっかり考えてしまいそうになって、真尋は首を振った。いまさらだ。その頃にでも、その後にでも、ここに至る流れが変わるわけでもない。

(あ)

 そう、変わるわけではない。わかっている。だがふとした瞬間に、真尋の感情はすとん、と落ちてしまう。自分でも止めようがないのだった。もう彼女は、自分に向かって笑ってくれるわけではない。そのことを認識しなければならない、とまるで真尋を包み込むように襲いかかってくるものがある。足元がおぼつかない。どうして、どうして自分ではだめだったんだろう。かなしい、さみしい、さむい、くらい。どうして。真尋は知らず地面を見つめている。ゆらゆらと視界が歪む。

(俺が)

 歯を噛みしめる。熱い息が漏れた。周りの声が聞こえる中で、ひとり眦が熱くなるのを止められない。

(俺が、オメガじゃなかったら)

 詮無いことだ。研究が進んでいると時々ニュースは出るが、バース性は変えられない。だからオメガだから、ベータだから、なんて考えないと沙苗と言い合った。そういうものが関係なく、好きならいいと真尋は言った。好きならいいじゃんと、沙苗は笑った。そのはずだった。

(いいって、言った、のに)

 子供を産むオメガとしてではなく、男として沙苗に接することを真尋は望んだ。それでもどうしても、オメガということでの不利を時々意識した。小柄であること、筋肉がつきにくいこと、発情期による生活の乱れ。
 気になるなら、気にならなくすればいいと思った。自分がオメガであることそれよりも、彼女がオメガをパートナーにすることで何か言われないようにしたかった。バース性ではなく、男として彼女を守りたいと思っていた。必死だった。勉強はいくらでもすればいい。わからなければ繰り返し本を読み、問題を解き、先生を質問責めにした。筋肉をつけようと無理をして関節を痛めたこともある。そして親に勧められジムに通うようになった。柔道の道場にも通った。
 それでも、沙苗が選んだのは自分ではない。十年一緒にいても、これから一緒にいる相手にはなれないと言われた。

(俺が)

 どこまでも真尋の感情の底が抜けて行きそうなとき、ふっと花のような香りが鼻を掠めた。生花とは違う、香水でもない匂い。真尋のまわりを囲うようにふわりと広がっている。最近どこかで嗅いだ。どこでだったか。匂いがきついわけではないのに、気づくとそのことしか考えられなくなる。真尋はきょろきょろと辺りを見回して、校門にいる相手に気づく。相手はとっくに気づいていたのか、じっと真尋を見つめていた。

「南野」
「ゲッ」

 呼びかけられ、思わず声が出てしまう。距離はそれなりに開いていたが、真尋の顔と声が届いたのだろう、相手も顔をしかめた。

「北浦だっけ……なんでこんなとこいるんだよ」

 名前はともかく、高校までは伝えていなかったはずだ。もちろん制服を見ればわかるだろうが、こんなところに来るとは思わなかった。
 運命といったのは、理仁だったか。それでここまできたのだとしたら、ストーカーだ。真尋がぐっと肩に力を込めると、理仁は競った様子もなく、これ、と紙袋を取り出した。

「なんだよ」

 差し出された紙袋を警戒して真尋が動けずにいると、理仁は呆れたように溜息を吐いた。紙袋の口を少し開けて、真尋に見えるように傾ける。

「これ」

 グレーのチェックのマフラーだ。真尋は思わず首に手を当てた。あの合格発表の日、着けていって帰りには見当たらなかった。無くしたとばかり思っていたのに。

「ファミレスの椅子の上に落ちてたんだ」
「ふうん」

 礼を言うのが癪で、別に届けてくれなくても、と真尋はつい悪態をついた。

「持ち主がわかってるのに、渡さないのも気持ちが悪いだろ」

 匂いが気になるから洗濯はした。そう紙袋を胸元に押し付けられ、真尋は今度こそ受け取った。どうしても、ありがとう、とは言いたくない。紙袋を覗き込むように、うん、と相槌だけ打った。

「ストーカーかと思った」
「わざわざ? 俺が、おまえを?」

 言い方が嫌味ったらしい。自意識過剰と言外に告げられたようで、真尋はキッと理仁を睨みつけた。

「おまえっ、な……?」

 理仁の様子が、おかしい。妙に顔が赤い。目も潤んでいるし、息が早い。だが風邪や体調不良というわけでもない。もっと別の。
 強い香りが鼻をかすめて、真尋はぴっと背筋を伸ばした。

「おまえまたかよ!」

 そもそもフェロモンが出ているのがおかしい。こちらまでつられてしまうではないか。
 理仁は真尋を見つめ返して二度瞬きをすると、ああ、とようやく気づいたようだった。カバンからピルケースを取り出し、錠剤を飲んでいる。においから逃れるようにハンカチを強く押し当てていた。はあ、と熱の篭った息を吐いたかと思うと、今度は真尋を指差す。

「南野も出てる」
「誰のせいだよ!」
「この場合はどっちもどっちだ。近くにいたら出る」
「はあ!? じゃあ、どうすんだよ。大学」

 真尋も慌ててポケットを探り、薬を取り出して飲み込んだ。それを確認すると理仁は真尋から一メートルほどの距離を開けて、塀を背に並ぶ。

「相手の存在には慣れる。次からはこんなことにはならないはずだ」
「……本当か?」
「医者に相談して、確認してある」

 真尋は深々と息を吐き出すと、その場にしゃがみこんだ。額に手のひらを当てる。錯覚だと思っていても、めまいがひどい。頭痛がしそうだ。

「大丈夫か?」
「おまえのせいで大丈夫じゃない……」
「そうじゃない」
「あ?」

 何が言いたいのか。真尋が手のひらから顔を上げると、理仁は言い淀んだ。
 変なやつだな。真尋は思う。なんでこいつはここにいるんだろう。こんだけ嫌味ったらしい相手、自分だったらもう顔も合わせたくない。

「……今日も泣いてるだろ」
「はあー!? 泣いてないし」

 つい声が大きくなってしまった。どうしたとばかりに写真を撮っていた生徒たちがちらちらとこちらを振り返ってくる。真尋は顔を伏せて舌打ちした。
 悪い。謝ったのは理仁のほうだった。

「合格発表のときと同じ顔をしてたから」
「泣いてねえって」
「わかったよ」

 理仁は肩をすくめ、帰る、とわざわざ真尋の近くまで歩み寄った。
 いちいち宣言しなくていい。帰れ帰れ。真尋は猫でも追い払うように手を振る。

「南野」
「なんだよ」
「やる」

 頭のてっぺんに軽いものが乗せられる。一体なんだと髪から滑り落ちてくるそれを慌てて掬い上げる。白地にグレーのラインが入ったハンカチだった。
 どういう意味だ。

「いらねーよ!」

 真尋が立ち上がったときには、すでに理仁は校門を出ていた。足が早い。追いかけようとして、真尋はくちびるを噛んで立ち止まった。そんなことをする義理はない。くれるというのだから、こちらがどうしようが勝手だろう。あとで捨てるなりなんなりすればいい。
 真尋は苛々とマフラーの入っていた紙袋にハンカチを放り込もうとした。そうしてハンカチから、かすかに爽やかな、甘い花のかおりがすることに気づく。理仁のにおいだ。そういえば、理仁は顔にハンカチを押し当てていた。
 思わずスン、と鼻を鳴らしてしまい、自分の行動に真尋はひとりでクソ、と吐き捨てた。
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