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転
易水
しおりを挟む旅立ちは夜明け前のことだった。
出立の知らせを受け取ったときから、ろくに眠ることができなかった。寝不足の頭に早朝の寒気は却ってありがたかった。
この時間特有の静けさに、誰もが口数を少なくしていた。
ほとんど音もなく、旅立ちの儀式は粛々と進められていった。太陽がまだ姿を現さない薄暮の中、それは現実を漂白してしまったかのように淡い色をしていた。
荊軻は高漸離から離れた場所にいた。
秦への正使として整えられた身なりに、もうかつての面影はどこにもない。酒肆で歌い笑い転げていた頃が夢のようにさえ思える。彼はにこりともせず、他の高官たちに混ざって直立していた。
儀式が終われば宴が始まる。豪華な酒食が回ってくる。
高漸離の杯にもなみなみと酒が注がれる。だが、口を付ける気にはならなかった。
これを飲み干せば、荊軻は旅立ってしまう。用意された車に乗り、二度と戻ってこない。
高漸離は辺りを見渡した。居並ぶのは皆この日に招待された者ばかりで、高漸離が手配した楽人たちは当然だが一人もいない。きっとまだ遠く離れた場所にあるはずだ。
誰一人として、荊軻の元に連れていけなかった。
自分は荊軻のためにならなかった。なにもかもが遅すぎた。
再び目を荊軻の方へ戻す。
彼の周りには人々が集っている。ひっきりなしに話しかけているのは、敵国へ旅立つ勇士を励まそうとでもいうつもりか。
高漸離は立ちあがりかけ、また座った。
今この場にいる者の中で無位無官はきっと自分一人だ。上卿の地位にある荊軻とはつり合いが取れない。彼の前に立とうとしても、きっと邪魔をされるだろう。
高漸離は口を付けないまま、杯を脇に置いた。代わりに取り出したのは筑だ。
膝に抱えると何人かの目が向けられた。楽人風情が何を始めるのかという顔だ。
うるさい、と胸の中だけで呟く。これはお前らに聴かせるためのものではない。荊軻のためだ。俺の筑は彼のためだけにある。
弦を調整し、息を吸う。肺まで凍るような冷たさが躊躇いを払う。
じゃらん、と強く弦を撃った。
響き渡った音色に大勢が振り返った。なにをしている、と言いかけた声もあったような気がする。だがそれは高漸離の耳にはもはや届かなかった。耳は今、自分が奏でる音に集中している。
音楽とは自分の心の顕れだという。旋律を奏でていくうちに、頭の中にはこれまでの記憶が溢れかえってくる。
最初は妙な男だと思った。隙のない怪しい奴だと警戒もした。
付き合っていくうちに分かってきた一途さに戸惑ったこともあった。
ああそうだ、と思う。そんな彼の全てをいつしか尊敬していた。この広い天地の中で巡り合えた、ただ一人の相手だと思っていた。
その相手に自分が今できることは、これだけだ。
筑の代わりに剣を学んでいれば、と思う。そうすれば今日、荊軻の隣に立っていたのは自分だったかもしれない。最後まで彼と共にいられたかもしれない。
何故自分は。――そう思ったとき、手が止まりかけた。
風蕭蕭兮易水寒(風蕭蕭として易水寒し)
壮士一去兮不復還(壮士ひとたび去ってまた還らず)
突然、自分の演奏に添うように歌声が響いた。
久々に聞くその声が誰のものか、分からないはずがない。
荊軻が自分の筑の音に併せて歌っている。彼にしか出せない羽声は変微の彩を帯びて、その名の通り高く澄み渡り空へと届く。
声に誘われるように雲が裂け、この日最初の陽光が地に突き刺さる。
地面を覆う霜が煌めく。男たちが纏う衣冠の白が輝く。
そして筑を撃つ手元が明るくなる。
彼が歌いだしたときから、全身の毛がそそけ立っていた。手が震えるのが止められなかった。涙は頬を伝い、顎から滴り落ちていく。
情けない、と自分を叱咤する。竹棒を取り落とさないよう必死に握りしめ、続けざまに弦を撃った。
激しさを増す調べに荊軻の声は振り落とされなかった。更に勢いをつけ、風となってこの場に吹き渡る。
朗々たる歌声はまさに、自分の筑のためにあった。それは溢れ出る思いに対する彼からの答えそのものだった。
風蕭蕭兮易水寒
このとき、荊軻の隣にあるのは間違いなく自分ただ一人だけだった。
壮士一去兮不復還
歌い終わり、荊軻はじっとこちらを見つめてきた。その目は静かに語っていた。
もういい、と。
高漸離の手は止まった。楽の音が途絶えたとき、この場にいる者たちのむせび泣きだけが唸り声のようにしばらく続いた。
荊軻は何も言わなかった。ただ、ふわりと袖を翻した。
車に乗り込んでいく荊軻の背を、高漸離は懸命に見つめていた。その視線は確かに届いているはずだった。だが、彼が振り返ることは一度もなかった。
それが自分たちの別れだった。一言も語らず、荊軻は西へ向かって旅立っていった。
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