9 / 18
転
燕国 2
しおりを挟む田光が宮中へ呼び出された。その話はある日酒肆の主から聞いた。
「王太子様じきじきの呼び出しだそうだ」
そう言って荊軻は肆にやってきたそうだ。良い酒瓶を選び、上機嫌で帰ったという。
「これはあれだね。きっと仕官の話じゃないかね」
高漸離も頷いた。その推測はきっと間違いではない。
趙が滅んで以来、秦軍が国境に姿を現すことが増えているという。戦火はまだこの街から見ることはできないが、きな臭さは感じられるようになっていた。
田光に頼るのは今をおいて他にない。もしかすると荊軻も推挙されるかもしれない。なにせあの老人は荊軻を高く買っている、きっとこの機は逃さないだろう。
高漸離は自分も酒を買うことに決めた。そのときは友人として大いに祝うつもりでいた。
酒壺と筑を抱えて高漸離が荊軻の舎に出向いたのは、その日の日暮れのことだった。
舎の隣にある田光の邸の前には、役所のものらしき馬車が横付けされていた。きっと今帰ってきたばかりなのだろう。とすると、ちょうど宮中での話で今は盛り上がっているのかもしれない。
足取りも軽く、高漸離は舎へ向かった。喜びが色褪せないうちに荊軻の顔を見たい。
「――秦の樊於期将軍が、燕の国を頼ってきた。そのために宮中は今騒然としておる」
「北へ逃がしてしまえばいいはずです」
開いている窓から聞こえてくる声に、高漸離の足は止まった。
「なにも真正直に薊に逗留させずともいい。北狄に預けてしまえばごまかせる。ほとぼりが冷めるまでと、将軍には言い含めればいいだけの話でしょう」
「太子にそのおつもりはないのだ」
なにを言っているかは分からない。だが、その口調がただごとではないのは分かる。
「わしも太傅もそう告げた。だが、手の中に飛び込んできた窮鳥を殺すのは忍びないとな。逆にこれを機に秦を討つ手立てを探しておられる始末だ」
「無茶な、そのような手立てなどあるはずがないのでは」
「無茶だとは分かっておられるのだ。でなければわしなどが呼ばれるはずがあるまい」
そう言って笑う老人の声を耳にして、不意に背筋が粟立った。
嫌な予感がした。聞いてはいけないのだとも思った。だが身体は動かない。
高漸離は筑を抱きしめた。そのまま息を詰めていると、嫌でも二人の声が耳に届く。
長城の南、易水の北は予測を許さない立場にある。このままでは秦の怒りが積み重なるばかりだ。燕と秦は両立しない。
――なんでこんな物騒な話をしている。
高漸離はじっと自分の心臓の音に耳を澄ませた。なにも聞かないようにしよう。二人の話が終わるまで、こうしていよう。
「――荊卿。わしは今も考えている。人から疑われた場合、どのようにその疑いを晴らせばよいのであろうとな」
なのに不意にはっきりと、老人のしわがれた声が聞こえた。それはもうかつての朗らかな響きとはほど遠いものだった。
「わしの望みは、人として一点の曇りもない人物であることだった。何が起ころうと、田光であれば大丈夫だと万人から思われることだった。長者は行いを為すに、人をしてこれを疑わしめずと。――そう心掛けて生きてきたつもりだったが、それはどうやら違ったようだ」
「田先生?」
「なにをして相手を疑わせず、我が身の潔白を晴らせばいいとな」
「先生。なにがありましたか。おっしゃってください、先生はそのような人間ではないと、俺が証明してみせましょう」
「その方法も考えた。荊卿より口添えをしてもらおうかと。そなたの弁舌であれば信頼してもらえるかもしれぬ。――だがそれでは駄目だ。それはそなたへの信頼であって、わし自身のものではない。自分の不徳は自分の手で拭わねばならぬ」
「田先生!」
なにかが起ころうとしている。でなければ、あの荊軻がこんな声を出すはずがない。
高漸離の身体は無意識に動いた。部屋の入口に向けて駆ける。
だが、部屋に飛び込んだとき自分の目に入ってきたのは、鮮やかな朱色だった。
荊軻の手は伸びていたが、届かなかった。老人は彼以上の速さで己の喉を貫いていた。
鉄錆のような臭いが何もない室内を満たす。己の血だまりに痩せた身体がうつ伏せに倒れる。その飛沫は点々と荊軻の衣に散る。
室内はしばらくの間無音だった。
荊軻は屍を物言わず見下ろしたあと、こちらを向いた。
「……高兄」
静かな物腰だが、それは白刃が静謐に満ちているのと同じだ。
高漸離はとっさに己の手を口に当てた。痛みを忘れて肉に噛みつく。そうしなければきっと悲鳴を上げてしまう。
本当は訊きたかった。今なにを話していたのか。どうして田光は死んだのか。一体宮中でなにがあったか――。
「帰ってくれ」
高漸離が疑問を口にするより先に、荊軻は言った。
「今すぐ帰ってくれ。なにも見なかったし聞かなかった、そういうことにしてくれ」
「……そんなこと、できるはずがないだろ」
「してくれ」
荊軻の声はにべもなかった。いつもの人好きのする笑みはない。全くの無表情だ。
「俺の言うとおりにしてくれ。いいな」
「嫌だと言ったら」
意地を張ってみせても、荊軻の態度は変わらなかった。
剣が人の形を取ったかのような姿で、彼は告げた。
「殺す」
迷いのない一言は本気だと高漸離には分かった。
この日を境に、荊軻の姿は酒肆から消えた。
高漸離がその姿を見つけ出したのは、三月もあとのことだった。張り込んでいた田光の邸にその姿を現したのだ。
16
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
夕映え~武田勝頼の妻~
橘 ゆず
歴史・時代
天正十年(1582年)。
甲斐の国、天目山。
織田・徳川連合軍による甲州征伐によって新府を追われた武田勝頼は、起死回生をはかってわずかな家臣とともに岩殿城を目指していた。
そのかたわらには、五年前に相模の北条家から嫁いできた継室、十九歳の佐奈姫の姿があった。
武田勝頼公と、18歳年下の正室、北条夫人の最期の数日を描いたお話です。
コバルトの短編小説大賞「もう一歩」の作品です。
首切り女とぼんくら男
hiro75
歴史・時代
―― 江戸時代
由比は、岩沼領の剣術指南役である佐伯家の一人娘、容姿端麗でありながら、剣術の腕も男を圧倒する程。
そんな彼女に、他の道場で腕前一と称させる男との縁談話が持ち上がったのだが、彼女が選んだのは、「ぼんくら男」と噂される槇田仁左衛門だった………………
領内の派閥争いに巻き込まれる女と男の、儚くも、美しい恋模様………………
夜珠あやかし手帖 ろくろくび
井田いづ
歴史・時代
あなたのことを、首を長くしてお待ちしておりましたのに──。
+++
今も昔も世間には妖怪譚がありふれているように、この辻にもまた不思議な噂が立っていた。曰く、そこには辻斬りの妖がいるのだと──。
団子屋の娘たまはうっかり辻斬り現場を見てしまった晩から、おかしな事件に巻き込まれていく。
町娘たまと妖斬り夜四郎の妖退治譚、ここに開幕!
(二作目→ https://www.alphapolis.co.jp/novel/284186508/398634218)
天狗斬りの乙女
真弓創
歴史・時代
剣豪・柳生宗厳がかつて天狗と一戦交えたとき、刀で巨岩を両断したという。その神業に憧れ、姉の仇討ちのために天狗斬りを会得したいと願う少女がいた。
※なろう、カクヨム、アルファポリス、ノベルアップ+の各サイトに同作を掲載しています。
検非違使異聞 読星師
魔茶来
歴史・時代
京の「陰陽師の末裔」でありながら「検非違使」である主人公が、江戸時代を舞台にモフモフなネコ式神達と活躍する。
時代は江戸時代中期、六代将軍家宣の死後、後の将軍鍋松は朝廷から諱(イミナ)を与えられ七代将軍家継となり、さらに将軍家継の婚約者となったのは皇女である八十宮吉子内親王であった。
徳川幕府と朝廷が大きく接近した時期、今後の覇権を睨み朝廷から特殊任務を授けて裏検非違使佐官の読星師を江戸に差し向けた。
しかし、話は当初から思わぬ方向に進んで行く。
帰る旅
七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。
それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。
荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。
『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる