荊軻断章

古崎慧

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燕国 2

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 田光でんこうが宮中へ呼び出された。その話はある日酒肆さかばの主から聞いた。

「王太子様じきじきの呼び出しだそうだ」

 そう言って荊軻けいかみせにやってきたそうだ。良い酒瓶を選び、上機嫌で帰ったという。

「これはあれだね。きっと仕官の話じゃないかね」

 高漸離こうぜんりも頷いた。その推測はきっと間違いではない。

 ちょうが滅んで以来、しん軍が国境に姿を現すことが増えているという。戦火はまだこの街から見ることはできないが、きな臭さは感じられるようになっていた。
 田光に頼るのは今をおいて他にない。もしかすると荊軻も推挙されるかもしれない。なにせあの老人は荊軻を高く買っている、きっとこの機は逃さないだろう。

 高漸離は自分も酒を買うことに決めた。そのときは友人として大いに祝うつもりでいた。



 酒壺とちくを抱えて高漸離が荊軻の舎に出向いたのは、その日の日暮れのことだった。

 舎の隣にある田光の邸の前には、役所のものらしき馬車が横付けされていた。きっと今帰ってきたばかりなのだろう。とすると、ちょうど宮中での話で今は盛り上がっているのかもしれない。

 足取りも軽く、高漸離は舎へ向かった。喜びが色褪せないうちに荊軻の顔を見たい。

「――秦の樊於期はんおき将軍が、えんの国を頼ってきた。そのために宮中は今騒然としておる」
「北へ逃がしてしまえばいいはずです」

 開いている窓から聞こえてくる声に、高漸離の足は止まった。

「なにも真正直にけいに逗留させずともいい。北狄ほくてきに預けてしまえばごまかせる。ほとぼりが冷めるまでと、将軍には言い含めればいいだけの話でしょう」
「太子にそのおつもりはないのだ」

 なにを言っているかは分からない。だが、その口調がただごとではないのは分かる。

「わしも太傅たいふもそう告げた。だが、手の中に飛び込んできた窮鳥きゅうちょうを殺すのは忍びないとな。逆にこれを機に秦を討つ手立てを探しておられる始末だ」
「無茶な、そのような手立てなどあるはずがないのでは」
「無茶だとは分かっておられるのだ。でなければわしなどが呼ばれるはずがあるまい」

 そう言って笑う老人の声を耳にして、不意に背筋が粟立った。
 嫌な予感がした。聞いてはいけないのだとも思った。だが身体は動かない。

 高漸離は筑を抱きしめた。そのまま息を詰めていると、嫌でも二人の声が耳に届く。

 長城ちょうじょうの南、易水えきすいの北は予測を許さない立場にある。このままでは秦の怒りが積み重なるばかりだ。燕と秦は両立しない。

 ――なんでこんな物騒な話をしている。
 高漸離はじっと自分の心臓の音に耳を澄ませた。なにも聞かないようにしよう。二人の話が終わるまで、こうしていよう。

「――荊卿けいけい。わしは今も考えている。人から疑われた場合、どのようにその疑いを晴らせばよいのであろうとな」

 なのに不意にはっきりと、老人のしわがれた声が聞こえた。それはもうかつての朗らかな響きとはほど遠いものだった。

「わしの望みは、人として一点の曇りもない人物であることだった。何が起ころうと、田光であれば大丈夫だと万人から思われることだった。長者ちょうじゃは行いを為すに、人をしてこれを疑わしめずと。――そう心掛けて生きてきたつもりだったが、それはどうやら違ったようだ」
「田先生?」
「なにをして相手を疑わせず、我が身の潔白を晴らせばいいとな」
「先生。なにがありましたか。おっしゃってください、先生はそのような人間ではないと、俺が証明してみせましょう」
「その方法も考えた。荊卿より口添えをしてもらおうかと。そなたの弁舌であれば信頼してもらえるかもしれぬ。――だがそれでは駄目だ。それはそなたへの信頼であって、わし自身のものではない。自分の不徳は自分の手で拭わねばならぬ」
「田先生!」

 なにかが起ころうとしている。でなければ、あの荊軻がこんな声を出すはずがない。
 高漸離の身体は無意識に動いた。部屋の入口に向けて駆ける。

 だが、部屋に飛び込んだとき自分の目に入ってきたのは、鮮やかな朱色だった。

 荊軻の手は伸びていたが、届かなかった。老人は彼以上の速さで己の喉を貫いていた。
 鉄錆のような臭いが何もない室内を満たす。己の血だまりに痩せた身体がうつ伏せに倒れる。その飛沫は点々と荊軻の衣に散る。

 室内はしばらくの間無音だった。

 荊軻は屍を物言わず見下ろしたあと、こちらを向いた。

「……高兄」

 静かな物腰だが、それは白刃が静謐に満ちているのと同じだ。
 高漸離はとっさに己の手を口に当てた。痛みを忘れて肉に噛みつく。そうしなければきっと悲鳴を上げてしまう。

 本当は訊きたかった。今なにを話していたのか。どうして田光は死んだのか。一体宮中でなにがあったか――。

「帰ってくれ」

 高漸離が疑問を口にするより先に、荊軻は言った。

「今すぐ帰ってくれ。なにも見なかったし聞かなかった、そういうことにしてくれ」
「……そんなこと、できるはずがないだろ」
「してくれ」

 荊軻の声はにべもなかった。いつもの人好きのする笑みはない。全くの無表情だ。

「俺の言うとおりにしてくれ。いいな」
「嫌だと言ったら」

 意地を張ってみせても、荊軻の態度は変わらなかった。
 剣が人の形を取ったかのような姿で、彼は告げた。

「殺す」

 迷いのない一言は本気だと高漸離には分かった。



 この日を境に、荊軻の姿は酒肆から消えた。
 高漸離がその姿を見つけ出したのは、三月もあとのことだった。張り込んでいた田光の邸にその姿を現したのだ。

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