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第三章:それは幾重に積もる時間
カモとヒナ
しおりを挟む病室のベッドに静かに横たわるメグ。
「メグ?メグ!?」
駆け寄った鴨居がメグの手を握る。
まだほんの少しだけ温かかった。
「メグ起きろよ。赤ちゃん産まれたら三人で一緒にって。お義父さんお義母さんもいれて五人で一緒に写真撮ろうって言ってただろ?ほらポラロイドだけど買ってきたんだ。」
バッグから取り出した使い捨てのカメラをメグに見せる鴨居。
返事はない。
「鴨居くんメグはもう……」
養父が駆け寄り、鴨居を落ち着けようと背中をさするが、鴨居は腕でそれを振りはらった。
「聞きたくない。聞きたくない!!」
子供の様にだだをこねる鴨居を無理矢理に自分の方へと向かせた。
「鴨居君。メグはもう死んだんだ。」
ぐっと歯を噛み締める養父。
鴨居は理解ができずに首を振る。
「だってまだこんなに温かいのに。だってこんなに綺麗な顔をしているのに。だって……こんなに…………」
養父は静かに首を振る。
認めたくない事実は否定することなど叶うはずもなくて。
鴨居は腰を抜かしたようにへたりと座り込んだ。
「何で?赤ちゃんはあんなに元気なのに、それなのに何で?」
鴨居の震える小さな声が病室にいた養父にだけ聞こえた。
養父は鴨居が混乱しないように、ゆっくりと丁寧に状況を説明する。
「メグが産気づいたのはリビングで、妻が一緒にいたからすぐに気付くことができて間もなく救急車を呼んだ。」
養父の声が止まると病室の外から養母の泣いている声が寂しく響き渡った。
それを聞いていると認めたくないことを認めてしまいそうになるから、鴨居は耳を塞いでしまいたくなる。
「救急車も十分とかからずに到着して、近くの病院に運び込まれ帝王切開手術で出産をした。何の問題もなく分娩が終わる……はずだった。」
「はずだった……?」
頷いた養父はその時のことを思い出しているのだろうか、手がわなわなと震えている。
「メグは、産んだ後に部分癒着胎盤という珍しい疾患にかかっていたことが分かった。」
きっと養父は医師の説明を一つでも多くと頭に刻んだのだろう、聞き馴染みの無い医療用語がたくさん混じっている。
「胎盤を剥がす時にはどうしても大量の出血をするらしいんだ。帝王切開で出血していたところにそんな異常事態。医者にミスは無かったが、しかし出血性ショックを起こし……メグは。」
気丈に振る舞い、どうにか状況をカモに伝えることができた。
しかしやはり養父も限界だった。
声を上げて泣きながら、床を何度も何度も思い切り叩いた。
ゴツ。ゴツ。という鈍い音が鴨居の意識を更に遠退かせていった。
その後でもう一度、医師からきちんと説明を受けた。
正当な処置を施した結果の不幸な事態。
誠に申し訳ありませんでした。と深く頭を下げた医者の顔を鴨居は見ることができなかった。
言い訳がましく聞こえても現実だ。
どんなに死を受け入れることができなくても、もうメグが鴨居に笑いかけることはない。それが現実だった。
鴨居が赤ちゃんを見ていると一人の看護士が隣に来てくれた。
「お子さん、二週間近くも早く出てきちゃって小さいけど、とても元気な、生命力に満ち溢れた声で泣いたんですよ。」
子供の頬を撫でようとした手はガラスに阻まれてしまう。
行き場のない感情が涙になって溢れる。
「奥様のことは本当に残念でした。でもこの子が」
「ひな。」
鴨居を励まそうとすると、か鴨居が呟いた。
そして涙を拭いて、子供を見つめながら言う。
「雛っていう名前なんです。ずっと前にメグと決めていたんです。」
「雛。可愛らしくてとても良い名前ですね。」
こくりと頷いた鴨居。
それから二人は黙って雛を見つめていた。
しばらくすると看護師さんが深く一礼をしてその場を離れた。
一人になった鴨居。
雛を見つめながら、メグと名前を決めた時のことを思い出していた……
それは何でもないただの電話で、いつも通りにメグの体調を確認して、他愛のない話をするだけのつもりだった。
「あ、そだ。そろそろこの子の名前決めない?前に幾つか候補も出したし。」
そんな突拍子もない提案。
メグらしいな。なんて鴨居は笑う。
「男の子か女の子かもまだ分からないから、どっちにでも付けられるような名前だったよな。聖(ひじり)と歩(あゆむ)と葵(あおい)だっけ?」
「うん。でも何かありきたりなんだよねー。」
そう言ったメグ。
鴨居はありきたりって何だか自分に一番合う言葉だよな。と思い、思わず口に出ていた。
「ありきたりかぁ、オレの子供らしくて良いじゃん。」
「確かにそだね。」
二人は笑った。
すると急にメグが黙ったかと思うと、いきなり他の候補を出してきた。
「雛ってどうかな?」
「ひな?ひなってあのヒナ?」
自分の子供の名前が、鳥の赤子というのはどうなのだろうか。と初めは鴨居は反対だった。
しかしメグがその名前にしたい理由を聞いて、それがさも雛という名前を付ける為に二人の間に宿った子の様に感じたのだった。
「うん。覚えてるかな?私たち"放浪カモメ"の子供。だから雛。」
旅の途中の港で、一羽だけ飛ぶカモメを見てメグが言った言葉。
もちろん鴨居はそのことを覚えていた。
「うん、雛って良いね。すごく良いよ。」
「じゃあ、この子は雛に決定だね。」
その後も、記憶に残ることのない何気ない会話をして電話を切ったのだった。
メグの病室へと戻ると、養父と養母がメグを挟む様にして座り、両方から手を握っていた。
「お義父さん、お義母さん。今、雛を見てきました。本当にすやすやと眠ってて、メグの寝顔にそっくりだった。」
振り向いた養母の顔は涙でくしゃくしゃになってしまっている。
「ひな……?」
養父が聞くと、鴨居はあの時の何気ない瞬間を思い出しているのだろうか、笑顔で言う。
「メグと決めた赤ちゃんの名前です。」
「雛……そうか、雛か。良い名前だ、なぁオマエ?」
養母は声を出せずにひたすらに頷いた。
鴨居は養母の傍に寄り添い背中をさすってあげた。
あれほど気さくで強かった背中が見る見る小さく見えて、力なく震えていた。
メグの葬儀は鴨居と鴨居の両親、養母と養父。
そして退院したばかりの雛のたった六人で彼女の最期を見送った。
遺影には鴨居の見たことのない、本当に最近のメグの写真が飾られた。
のちのち、メグの家に行ったときに一冊だけの薄いアルバムを見つけた。
そこにはメグの出産までの半年の日常が写されていた。
少しずつ膨らんでいくメグのお腹。
そしてアルバムはページをめくる程に、養母や養父と写る写真が増えていった。
メグは最後にやっと手にしたのだった。
幸せな家族を。その日々を。
ほろり一粒、涙がアルバムに落ちると。
「オギャア。オギャア。」
父親が泣いているのが分かったのだろうか、雛が小さな身体を目一杯使って大きな声で泣いた。
「よしよし。雛ちゃんどうしたのかな?」
抱き上げると、雛が鴨居の頬を掴んだ。
流れた涙が気になったから掴んだだけかもしれない。
それでも鴨居には雛が自分の涙を拭ってくれた様に感じてならなかった。
「雛……泣かないでって言ってるの?それで泣いてオレを呼んでくれたんだね?」
一粒だけ先に落ちた涙の跡を伝うように、延々と涙が流れ出る。
涙は雛をくるんでいたタオルに落ち、染み込む。
「ゴメン雛。すぐ泣き止むから。」
抱き締めた雛が鴨居の腕の中で、ホギャアと笑った。
「アリガトウ雛、パパまたちゃんと歩きだすから。」
抱き締めた小さな身体の中では確かに力強く心臓が命を刻んでいた。
雛は鴨居が千葉で引き取ることになり、シングルファーザーとして育てていくことなった。
「はぁ疲れた。まぁ何?この散らかり様は!!」
ちょくちょく母親もメグの両親も鴨居の家を訪れるようになっていた。
「雛ちゃーん。ジイジでちゅよー。」
見事なデレッぷりをする養父。
雛は恐がって泣いたが、お爺ちゃんにはその姿すら可愛くて仕方が無いらしくずっと雛を見ている。
「掃除しないのは感心しないけども、自炊もちゃんとしてるみたいで安心したわ。」
部屋の掃除をしながら養母が柔らかにそう言った。
それから養母は肉じゃがと焼き魚、自家製の浅漬けを作ってくれた。
夕飯の後は、久しぶりに養父と酒を交わした。
「鴨居。またじい様とばあ様が来てたんだってな。大変だなぁ。」
坂口がそう言うと鴨居は笑う。
「にしても、お前もやっと仕事できる様になってきたな。」
「一人欠けちゃいましたからね、その分オレが頑張らなくちゃって必死でしたよ。」
鴨居が大阪に居た間のたった1週間の間に、樹は工務店を辞めてしまっていた。
誰も行き先を知らなかった。
「半人前が抜けたくらいじゃ変わらねぇよ。それに4分の一人前が頑張ったところで、何も変わりゃあしねぇよ。」
いつの間にか来ていた濱田。
「ええっ、オレ4分の一人前!?そりゃないですよ社長~~。」
がっはっはと濱田と坂口が笑った。
すると。
「オギャア。オギャア、オギャア。」
事務所の中から雛の泣き声が聞こえた。
鴨居が走って駆け付ける。
「どっかの強面が笑うから怖かったんだよねー。よしよし、もう大丈夫だよ、ほらパパも来てくれたし。」
葛城の優しい声で落ち着いたのか雛は泣き止んでいた。
「葛城さんスイマセン、事務所で雛を預かってもらっちゃって。」
雛を葛城から渡され、鴨居がよしよしと宥めた。
「うん?良いんだよ、雛ちゃん見てると癒されるしね。ほらここって、顔面凶器みたいな社長をはじめ強面の巣窟じゃない?雛ちゃんいてくれて助かるよ。」
事務所の中だからって言いたい放題な葛城。
いきなり濱田が入ってくる。
「おい葛城。オレが居ないのを良いことに、顔面凶器とか言ってなかったか?」
信じられないほどの地獄耳。
それでも葛城の冷静っぷりと、ポーカーフェイスは健在だ。
「いいえ。それよりほら、中山宅の設計図出来たから目を通してくださいね。」
にこっと微笑み資料を渡す葛城。
やはりこの男は怖い。
そう思った鴨居だった。
月日は流れて三年後。
それはいつも通りの慌ただしい朝。
「雛ー。準備出来たかぁ?幼稚園遅刻しちゃうぞ。」
バターもジャムも塗っていないただの焼いたトーストをくわえながら、靴下を履く鴨居。
そんなだらしのない父親を見つめる小さな視線。
「ひな、さっきからパパ待ってるんだけど。こんなんじゃ先が思いやられるよ。」
「待て雛、そんな言葉どこで覚えた?」
雛が初めて自分の手からミルクを飲んでくれた時、涙が出るほどに嬉しかった。
雛が初めてはいはいをした時も。
雛が初めて立った時も。
初めて歩いた時も、初めてパパと呼んでくれた時も涙を堪えることなんてできなくて。
これから先ずっと一緒で、このままのペースだと自分は後何回嬉し涙を流すのだろうか?
そんなことをしてたら、いつか涙が尽きて枯れてしまうのではないか?なんてバカみたいなことを真面目に考えたりもした。
「ほら、行こうか雛。」
「うん。」
朝日が眩しく二人を照らす。
幼稚園まで二人は手をつないで歩いていく。
そんないつもの風景が愛しくて、ただ愛しくて。
そこにただ1人、メグがいたらと未だに思ってしまう鴨居ではあったが。
一歩ずつ着実に、未来へと歩きだしているのだった。
ねぇ、見てるかいメグ?
雛はこんなにも力強く歩けるようになったよ。
どこで覚えたのか分からない大人びた言葉に時々おどろかされることもある。
たまにね?
雛の笑顔の中にメグを感じたりするんだ。
女々しいってバカにするかな?
そっちの生活はどう?
メグのことだからどうせそっちでも旅をしているんだろうね。
ねぇメグ。
オレ、言い忘れてたこと二つあるんだ。
生まれてきてくれてアリガトウ。
オレと一緒に過ごしてくれてアリガトウ。
雛を産んでくれてアリガトウ。
そして……
恥ずかしくてあんまり口に出したりはしなかったけどね。
君に出会った瞬間から、この先だってずっとずっと。
オレは君を――
愛してる。
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