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第三章:それは幾重に積もる時間
衝撃の報せ
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大阪全体がどんよりとした曇り空となったその日。
メグは養母とともに買い物をしていた。
「……うっ。」
時折、口元を抑えて立ち止まるメグ。
「大丈夫メグ?調子悪いの?」
背中を擦ってくれる養母の手を払いのけた。
「大丈夫だから余計なことしないで。」
妙にカリカリとしているメグに養母は妙な不安を覚えた。
「あのね真理恵……お母さん今から答えにくいこと聞くかもしれないんだけど。」
自分でも何をそんなに苛立っているのか分からないメグは、真理恵と呼ばれたことさえも気にならないほどに自分に違和感を覚えていた。
「旅で出会った人、カモくんて言ったっけ?もしかしてその人とセックスしたりした?」
野犬に襲われた日、その日のことをメグは思い出した。
メグの反応に養母は不安が確信になっていくのを感じていた。
「したのね。その時に避妊しなかったんじゃない?」
そんなことはない。
たった一回の行為で、そんな簡単に妊娠するなんて有り得ない。
浮かび上がる不安を必死で否定するメグ。
「……やっぱり。このスーパーには薬局もあるし、とにかく家で、妊娠検査してみましょう。」
そう言って養母は汗ばんだ手で、メグの震える腕を優しくつかんだ。
そして帰ってからした妊娠検査で、メグは陽性が出た。
市販の検査具では、絶対とは言えないので、すぐに養母はメグを連れて近くの産婦人科を尋ねた。
そこで、メグは妊娠していることが確かとなってしまった。
放心状態でソファに座るメグ。
養母は隣で声をあげて泣いていた。
しばらくして少しだけ落ち着いた養母がメグに聞く。
「勿論堕ろすのよね?だってあなたまだ高校生だもの。父親だって居ないわけだし、育てられるわけがないものね。ね、堕ろすわよね真理恵?」
気が動転している養母を気遣う余裕などメグにはない。
ただ耳に届いた音に反応してメグは首を頷いていた。
この時、私は唐突にもうあなたに会うことはないのだと思った。
そう思ったら会いたいと思うことさえ虚しく思えてきて。
あなたの面影を持つこの子に会いたいなどと決して思えないのに何故?
何も考えられない私の目には微笑むあなたと子供が居て。
涙さえ流せない今の私には、その光景を消したりぼやけさせたりするすべなどなくて――
ただあなたに
ただあなたに会いたくてたまらないよ。前園に教えてもらった住所へと向かう鴨居。
走りだしたタクシーの側面を降り出した大粒の雨が、音を立てて叩く。
ぼやける窓の向こう。
手を伸ばした先にもうメグはいる。
そう思うと、少しくらい制限速度を上回るこの車ですら、遅く思えてしまった。
「お客さん着きましたよ。」
運転手さんの声で目が覚めた鴨居。
ずっと気を張りっぱなしで、ようやくメグの情報を手にすることができて、緊張の糸が切れてしまったようだ。
鴨居はお金を払うと、タクシーから出る。
目の前には白い壁に囲まれた豪華な家。
鴨居は深呼吸をするとインターホンを鳴らした。
「いいですか?これだけは約束してください。」
真剣な表情で前園は言う。
「もしあなたがメグに会えたとして、彼女があなたが望むものとは違う答えをだすのであれば、すぐに身を退きなさい。」
どしっと重い言葉が鴨居にのしかかる。
それは理解しているが、分かりたくないこと。
理解しなければならないけど、どうしても認めたくはないもので鴨居は反応することができなかった。
「あなたが大阪まで来て、必死に彼女のことを思い、探し続けていたことは認めます。しかし、世の中には踏み行ってはいけない事情というものがあるんです。」
前園の厳しくも優しい口調に、やっと鴨居はこくりと僅かに頷いた。
「そして、もし彼女があなたの望む答えを出したなら、どうか恥ずかしがらずに今のあなたの気持ちをそのまま、決して減らさずにそして飾らずに伝えてあげてください。」
最後ににこっと笑った前園。
仕事があるから、とすぐに部屋を後にしてしまったが、鴨居は居なくなった前園に何度も何度も頭を下げた。
帰り際に越智が二枚の写真を渡してくれた。
幼き日のメグの写真。
それを手に鴨居はメグの元へと向かっていく。
インターホンを押した鴨居。
しばらくするとインターホン越しに女性の声が聞こえた。
「はい、どなたでしょうか?」
何故かその女性は涙声だった。
「あの、突然お訪ねして申し訳ありません。僕は鴨居友徳と言うものなんですが。」
突然の訪問者の名前を聞いて、養母は自分の血の気が引いていくのがわかった。
その後続いた鴨居の言葉はほとんど耳に入らない。
しばらくして、引いた血が一気に頭に昇っていった。
「……ってください。」
小さな声で何か返事が返ってきた。
しかし鴨居には聞き取ることができなかった。
「え?ゴメンなさい何ですか?」
そう聞いた瞬間。
「お引き取りください!!」
インターホンから響く怒鳴り声。
いきなりの言葉に驚きはしたが、遠路遥々メグに会うためだけに来たのだ、おとなしく引き下がるわけにはいかない。
「あ、あのスイマセン。一目で良いんです、少しだけでもメグに会わせてくれませんか?」
雨の中で必死に頼み込む鴨居にも、養母は娘をくるしめていることへの怒りしか覚えない。
「あなたは、うちの娘に会う資格があるとでも思っているんですか?」
「……え?」
更に激しさを増す雨。
傘を持っていることすら頭にないほどに鴨居ひ必死だった。
そして、養母の口から鴨居には予想だにできなかった衝撃の事実が伝えられる。
「あなたの心ない行動の所為で……真理恵は妊娠してしまったんですよ。」
鴨居は雷に打たれたようなひどいショックを受けた。
信じることができなかった。
妊娠だなんて、自分にはまだまだ縁の無い話だと、妙な自信があって、でもそんなのはただの勘違いなんだと思い知らされた。
「真理恵はひどくショックを受けて、今は塞ぎ込んでしまっています。それでもあなたは真理恵に会わせろなどと言えますか?」
インターホンが切られた後も鴨居はその場で立ち尽くした。
流れ出る涙も、土砂降りの雨に飲み込まれていく。
全身から力が抜け、鴨居はその場に力なく座り込んだ。
メグのいるリビングへと戻った養母。
「ママ、お客さん?大きなこえだしてたけど何かあった?」
小さな声でメグが聞く。
「ううん。すごいしつこい勧誘をする新聞屋さんだっから、ちょっと声が大きくなっちゃった。」
微笑む養母。
「それよりも温かいミルクと甘いクッキーを持ってきたわ。少し落ち着くから食べなさい。」
そう言って、ホットミルクとクッキーを渡した。
メグはホットミルクを手に取ると、少しだけすすり、「美味しい」と呟いた。
その日の深夜になりメグの養父は帰宅した。
会社を出て迎えに来ていたタクシーに乗り込む僅かな間に濡れてしまったスーツの肩を手で払った。
そして、いつも通りに門の鍵を開けようとした時だった。
インターホンの下に一人の青年がいることに気が付いた。
「キミこんな所でどうしたんだ、びしょ濡れじゃないか。」
カバンからタオルを取り出すと鴨居の頭を拭う。
「とにかく家に入りなさい。そのままでは風邪を引いてしまう。」
そう言って抱え起こしてくれたのだが、鴨居はその言葉に甘える資格が無かった。
「あの、オレは……」
自分は、あなたの娘を苦しめている男だ。と伝えようとするが、それは養父の言葉に遮られる。
「今はとにかく入りなさい。話は後でゆっくりと聞かせてもらうから。」
言う機械を失ってしまった鴨居は養父に引っ張られるがままに、家へと入っていく。
そしてシャワーを借りて、少しぶかぶかな養父の服を着させてもらった。
「おや早かったね。あれだけ濡れたら寒かっただろう?さぁお茶でも飲みなさい。」
リビングへと戻った鴨居に養父は熱々のお茶を出してくれた。
そしてゆっくりとソファーに座る。
「で、何でまたずぶ濡れになって、あんな所に座り込んでいたんだい?」
鴨居は見ず知らずの男にも関わらず、養父は優しく聞く。
鴨居は包み隠さずに全て打ち明けることにした。
「オレの名前は鴨居友徳と言います。」
謎の訪問者の正体に養父は驚愕したが、口を挟むことなく鴨居の話を聞いている。
鴨居はメグに出会った経緯や、青森県でのこと、千葉で少しだけ同棲をしていたこと、そしてメグに会うために大阪まで来たこと、全てを話した。
「そうか……キミがあのカモ君だったのか。」
初めのうちは、驚きを隠せずにいた養父だったが、鴨居の話を聞くうちに、その真剣な態度を見るうちに、鴨居の印象が変わっていった。
「メグはあまり私達に話をしてくれることはないんだが、君の話だけは楽しそうに話して聞かせてくれたよ。」
この養父の柔らかな態度に鴨居は驚いていた。
なぜなら先程の養母の様な反応がどう考えても普通だったからだ。
「カモ君。あの子はどんな風に旅をして、何を感じていたのか、一番近くで見ていた君の言葉で私に教えてはくれないか?」
予期せぬ頼みに、驚きはしたが鴨居は自分でも驚くくらいにすんなりと受け入れることができた。
「はい。あくまでオレの感じたままですけど。」
こくりと頷いた養父。
鴨居は記憶をさかのぼる様にして話し始めた。
鴨居の話に養父は興味津々と言った表情で聞き入っていた。
メグからは聞くことができなかった話を聞けて本当に嬉しそうにしている。
「いやぁそうか。そんなことがあったなんて。」
鴨居が話し終えると、時計は深夜の三時半を指していた。
「ありがとうカモ君。きっとこんな話はあの子から聞くことはできなかっただろう。」
「いえ、そんな。オレは別に……」
感謝される資格など自分にはないと思う鴨居は、それを否定しようとしたが。
本当に嬉しそうに、少しぬるくなってしまったビールを飲む養父の姿に、そんな気持ちを消されてしまった。
「カモ君はどうしてメグのことを好きになったんだい?」
試してるわけでも、意地悪でも何でもなくて。
養父は本当に、その答えが気になるから、知りたいから鴨居に聞いた。
それを少なくとも感じ取った鴨居が、真面目に答えた。
「メグに初めて会った時の、あの瞳をオレは忘れません。孤独で悲しそうで、儚くて……でも、とても澄んでいて、綺麗な目をしていた。だからって言ったら変ですけど、それが好きになるきっかけでした。」
途中から恥ずかしくなってきて、鴨居は耳を真っ赤にしながらそう答えた。
「そうか。」
養父の言葉はその一言だけだったが、満足のいく答えを聞けたらしいことは、その表情で見て取れた。
すると、急にリビングの扉が開く。
「あなた帰っていたのね。話し声が聞こえたけどお客さんかしら?」
少し眠そうに目元を拭いながら、養母がリビングにやってきた。
そこで目にしたのは、いつも通りに仕事帰りに晩酌をしている夫と、インターホンのカメラで見た、追い返したはずの許せぬ訪問者の姿だった。
「何であんたが家に居るの。ちょっとアナタどういうことなのこれは!?」
理解できぬ光景に養母の口調は荒くなる。
それを宥(なだ)める様にして養父が言う。
「いくら何でも話もろくに聞かずに追い返すのは無いだろう?これだけ大事な事だからこそ余計に本人から話を聞くべきだと私は思うんだが、間違っているか?」
ゆっくりと妻の背中をさする養父。
「間違ってはいませんけど、でも……それでもこんな。」
最後に、ぽんと背中を叩くと養父はまたソファーに座った。
「それに話を聞いてみたら本当に素直で真っすぐないい青年だったよ。」
養父は鴨居の方を向いて微笑んだ。
そして飲み終えたビールの缶を持つと、立ち上がりながらこう最後に言った。
「今日はもう遅い。明日またきちんと鴨居君の話を聞くことにしようじゃないか。な?」
養母が頷いたのを見て養父はキッチンに空き缶を持っていった。
それを見送ると、養母は一度だけ鴨居を見て、自分の部屋へと戻っていった。
その夜鴨居は、養父が持ってきてくれたタオルケットを被ってソファーで眠りについた。
次の日の朝。
あまりよく眠れなかった鴨居は、日が昇るのと同時に目を覚ました。
「メグ……今日は会わせてもらえるのかな。」
タオルケットを畳んでソファーの上に丁寧に置く。
そしてタオルケットの隣に腰を下ろすと鴨居はしばらくの間ぼーっと過ごした。
『ガチャ』と言う音がしてリビングに入ってきたのは養母だった。
鴨居が「おはようございます」と挨拶したのだが、養母は無反応でキッチンへと入っていく。
分かり切っていた反応にも鴨居の心は痛んだ。
無言の空間に包丁独特の軽快なリズムだけが響く。
何だか実家に戻ったような感覚になって、鴨居は何気なく聞いてみる。
「メグちゃんは何が好きなんですか?」
「…………。」
やはり無言。
仕方ないか。と鴨居が俯いた時だった。
「分からないのよね。あの子ったら私の作った料理なら何でも美味しいよ。って言うんだもの。」
メグがそう言う訳を、今になって鴨居はわかるような気がした。
それは一緒にいるのが、料理を作ってもらえるのが当たり前だった頃にはなかなか実感できない感覚。
「何となくだけどそれ分かりますよ。バリエーションは少なくても、味がそんなに良く無くっても……美味しいんです。」
養母はそんな鴨居の言葉に料理を続けながらも耳を傾けていた。
「一人暮らしをするようになってみて、自分で料理したりするじゃないですか。そうするとね、それまで気付かなかった大変さが分かってきて、何でかな?あれだけ嫌だった母親の手料理が食べたくなるんですよ。」
ふつふつと沸きだした湯。
養母はマグカップを取るとミルクティをいれる。
「母親の手料理って、きっと母親が自分の為に作ってくれた。たったそれだけでもう何よりも美味しいんですよ。」
そう言った鴨居の視界が、甘い香りの湯気で霞む。
「……え?」
置かれたマグカップに驚く鴨居。
「ミルクティ。あの子が眠れない時とかによく入れてあげたわ。そうすると嘘みたいにぐっすり眠るのよ。」
養母の顔が鴨居の前で初めて和らいだ。
鴨居は温かいミルクティを一口飲む。
すると甘さと芳ばしさ、絶妙な苦味が口の中に広がった。
「美味しい。それに、本当だ……落ち着く。」
温かなミルクティは体に染み渡り、気持ちまでもを温かくしていく。
「美味しかったです、ご馳走様でした。」
鴨居がそう言うと養母は黙ってマグカップを取り、キッチンに返りざまに言う。
「……どういたしまして。でも別にあなたを認めたわけじゃいから。」
そんな嫌味に鴨居はほんの少しだけ自分を認めてくれ始めたのを感じた。
朝食が出来上がる頃、養父が眠そうにリビングへと降りてきた。
「お早う鴨居君。ソファーで寝れた?」
「はい。ふかふかで気持ち良かったですよ。」
「はは。そっか、なら良かった。客間が散らかってたから悪かったね。」
そう言って、養父は洗面台のある風呂場へと消えていった。
「メグはまだ寝てるのかな……それとも、降りてこないのかな。」
今すぐにでもメグの部屋へと押し掛けたいのを鴨居は必死に堪えていた。
それは昨日からずっとで、前園の言葉が無かったら今ごろ暴走して追い出されてしまっていたかもしれない。
もう少しできっとメグに会える。
そう信じていた。
なんだか良くわからないが鴨居は養母、養父と三人で朝食を取った。
しかし緊張と混乱のせいであまり料理は喉を通らなかった。
「さて……と。お互いに少し落ち着いたところで話しようか。」
リビングのソファーに座る三人。
鴨居は二人と向き合う形で座る。
「率直に言わせてもらと、やはり真理恵を君と一緒に行かせるわけには行かない。」
養父の落ち着いた声。
その静かな響きの中に、絶対的な揺るぎない気持ちだという事が伝わる。
「ただ勘違いして欲しくないのは、避妊しなかったことを責めているわけでも、ほんの少しの時間しか共にしていない君と真理恵の気持ちを否定するわけでもないということだけは分かって欲しい。」
その言葉が嘘でも偽りでもないことは、養父の人柄を見ていれば明らかだった。
しかし鴨居に納得できるわけなどなかった。
それでも、事実を否定する言葉などなく、鴨居の拳は行き場を無くし震える。
「真理恵はまだ高校生だし、鴨居君あなたも確か大学生でしょ?現実を見て。今のあなたには真理恵を養っていくことはおろか産まれてくる子供を育てることは出来ない。そうでしょう?」
大学すら両親のお金で通わせてもらっている現状。
アルバイト代だって携帯料金と生活費にほとんど消えてしまう。
そこから二人を養い生活することなどできるはずも無かった。
が、鴨居だって何の覚悟もなしにメグを追いかけ続けていたわけではない。
「オレは学校を辞めて働きます。確かに苦しいかもしれない、お金に困ることだってあるかもしれないけど。けど――オレはメグと一緒に生きていきたいんです。」
揺るぎない覚悟。
認めてあげたいのは二人にしてもやまやまだが、愛する娘の幸せがこの選択にはかかっている。
「それで、真理恵は子供は本当に幸せになれるのかい?」
ずしっと重くのしかかる言葉。
それで自分は満足かもしれない。幸せになれるのかもしれない。
でもメグは――?
産まれてくる子供は――?
本当に自分の考えている未来図で幸せになれるのか?
そうであって欲しいとは願えても、そうであると断言できずに鴨居は黙ってしまう。
あれだけ鴨居に厳しかった養母が優しくなだめるように言う。
「あなたが遊び半分で真理恵のことを思っているわけじゃないのも、これからのことも本気で考えてくれているのも分かるわ。仮に許したとして、大学を途中で辞めた人を雇ってくれる所なんて無いに等しいの。」
今のご時世、何の資格も持たず、何の才能もない者を簡単に雇ってくれるところなんてなかなか無い。
「分かるかい?残念だけど今のきみには真理恵をもらう資格はないんだよ。今のきみには、ね。」
がくりと肩を落とす鴨居。
しかし養父の言葉に何が違和感を感じた。
「今のオレには……?」
そう呟いた鴨居を見て養父は僅かに微笑む。
「そこまでの覚悟、おおいに結構だが。そこまで言うのなら実際にやって見せなさい。」
「ちょっとアナタ、何を言っているの!?」
養父の言葉に養母は動揺する。
鴨居に諦めさせる事が目的だったこの話し合いに、今の養父の言葉は明らかに意図がずれていたからだ。
「それは、オレが実際に職に就いて自立すればメグと一緒に暮らしていいということですよね?」
落ち込んだ気持ちに火が灯る。
力の抜けた身体に血が巡るのを感じた。
「一緒に暮らせるかどうかは知らないよ。それは真理恵が決めることだ。」
養父はやわらかな口調でそう言った。
「あ、そっか……」
それは当たり前のことだったのに、なぜか頭から消えてしまっていた。
鴨居はメグが好きで、必死で追い掛けているが。本当にメグも鴨居が好きで、鴨居のことを待っているかどうかなんて確約などない。
しかし、そんな不安は一瞬にして消えた。
「私待ってるから。いつかカモがパパやママにも認められる人になって迎えに来てくれるの……ずっと、ずっと待ってるから。」
リビングの扉の向こう側。
確かにその言葉が聞こえた。
「今は会えないから。だからこうやってしか話せないけど、私はいつまでも待ってるよこの子と一緒に。」
メグの言葉に鴨居は生まれ変わるような気分さえした。
きっとこれから先、辛いことや苦しいことが待っているだろうけど、今のその言葉を思い出すそれだけで何でも乗り越えていけると思えた。
「うん……必ず迎えにくるから、待ってて。」
そしてメグもまた、鴨居のその言葉に、鴨居と同じ思いを胸に刻むのだった。
鴨居はメグと本当に一目も会わぬままに悠太達の待つ家へと帰っていった。
「いやぁ、相思相愛ってこういうことを言うんだろうな。」
養父はたった二言三言の鴨居とメグの会話を思い出しそう呟いた。
それを隣で聞いていた養母があきれ顔で言う。
「何が相思相愛ですか……まったくアナタもあの子達も勝手に話進めちゃって、私はどうなっても知りませんからね。」
それは何かを否定するときの厳しい口調ではなくて、不安を抱えながらも落ち着いたその口調に養父は嬉しくて笑った。
「私は応援しているよ……頑張りなさいカモ君。」
誰に届くこともないその声援は、深まる秋に涼しさを増す、仄かな冬の匂いを含んだ空気に溶けていった。
メグは養母とともに買い物をしていた。
「……うっ。」
時折、口元を抑えて立ち止まるメグ。
「大丈夫メグ?調子悪いの?」
背中を擦ってくれる養母の手を払いのけた。
「大丈夫だから余計なことしないで。」
妙にカリカリとしているメグに養母は妙な不安を覚えた。
「あのね真理恵……お母さん今から答えにくいこと聞くかもしれないんだけど。」
自分でも何をそんなに苛立っているのか分からないメグは、真理恵と呼ばれたことさえも気にならないほどに自分に違和感を覚えていた。
「旅で出会った人、カモくんて言ったっけ?もしかしてその人とセックスしたりした?」
野犬に襲われた日、その日のことをメグは思い出した。
メグの反応に養母は不安が確信になっていくのを感じていた。
「したのね。その時に避妊しなかったんじゃない?」
そんなことはない。
たった一回の行為で、そんな簡単に妊娠するなんて有り得ない。
浮かび上がる不安を必死で否定するメグ。
「……やっぱり。このスーパーには薬局もあるし、とにかく家で、妊娠検査してみましょう。」
そう言って養母は汗ばんだ手で、メグの震える腕を優しくつかんだ。
そして帰ってからした妊娠検査で、メグは陽性が出た。
市販の検査具では、絶対とは言えないので、すぐに養母はメグを連れて近くの産婦人科を尋ねた。
そこで、メグは妊娠していることが確かとなってしまった。
放心状態でソファに座るメグ。
養母は隣で声をあげて泣いていた。
しばらくして少しだけ落ち着いた養母がメグに聞く。
「勿論堕ろすのよね?だってあなたまだ高校生だもの。父親だって居ないわけだし、育てられるわけがないものね。ね、堕ろすわよね真理恵?」
気が動転している養母を気遣う余裕などメグにはない。
ただ耳に届いた音に反応してメグは首を頷いていた。
この時、私は唐突にもうあなたに会うことはないのだと思った。
そう思ったら会いたいと思うことさえ虚しく思えてきて。
あなたの面影を持つこの子に会いたいなどと決して思えないのに何故?
何も考えられない私の目には微笑むあなたと子供が居て。
涙さえ流せない今の私には、その光景を消したりぼやけさせたりするすべなどなくて――
ただあなたに
ただあなたに会いたくてたまらないよ。前園に教えてもらった住所へと向かう鴨居。
走りだしたタクシーの側面を降り出した大粒の雨が、音を立てて叩く。
ぼやける窓の向こう。
手を伸ばした先にもうメグはいる。
そう思うと、少しくらい制限速度を上回るこの車ですら、遅く思えてしまった。
「お客さん着きましたよ。」
運転手さんの声で目が覚めた鴨居。
ずっと気を張りっぱなしで、ようやくメグの情報を手にすることができて、緊張の糸が切れてしまったようだ。
鴨居はお金を払うと、タクシーから出る。
目の前には白い壁に囲まれた豪華な家。
鴨居は深呼吸をするとインターホンを鳴らした。
「いいですか?これだけは約束してください。」
真剣な表情で前園は言う。
「もしあなたがメグに会えたとして、彼女があなたが望むものとは違う答えをだすのであれば、すぐに身を退きなさい。」
どしっと重い言葉が鴨居にのしかかる。
それは理解しているが、分かりたくないこと。
理解しなければならないけど、どうしても認めたくはないもので鴨居は反応することができなかった。
「あなたが大阪まで来て、必死に彼女のことを思い、探し続けていたことは認めます。しかし、世の中には踏み行ってはいけない事情というものがあるんです。」
前園の厳しくも優しい口調に、やっと鴨居はこくりと僅かに頷いた。
「そして、もし彼女があなたの望む答えを出したなら、どうか恥ずかしがらずに今のあなたの気持ちをそのまま、決して減らさずにそして飾らずに伝えてあげてください。」
最後ににこっと笑った前園。
仕事があるから、とすぐに部屋を後にしてしまったが、鴨居は居なくなった前園に何度も何度も頭を下げた。
帰り際に越智が二枚の写真を渡してくれた。
幼き日のメグの写真。
それを手に鴨居はメグの元へと向かっていく。
インターホンを押した鴨居。
しばらくするとインターホン越しに女性の声が聞こえた。
「はい、どなたでしょうか?」
何故かその女性は涙声だった。
「あの、突然お訪ねして申し訳ありません。僕は鴨居友徳と言うものなんですが。」
突然の訪問者の名前を聞いて、養母は自分の血の気が引いていくのがわかった。
その後続いた鴨居の言葉はほとんど耳に入らない。
しばらくして、引いた血が一気に頭に昇っていった。
「……ってください。」
小さな声で何か返事が返ってきた。
しかし鴨居には聞き取ることができなかった。
「え?ゴメンなさい何ですか?」
そう聞いた瞬間。
「お引き取りください!!」
インターホンから響く怒鳴り声。
いきなりの言葉に驚きはしたが、遠路遥々メグに会うためだけに来たのだ、おとなしく引き下がるわけにはいかない。
「あ、あのスイマセン。一目で良いんです、少しだけでもメグに会わせてくれませんか?」
雨の中で必死に頼み込む鴨居にも、養母は娘をくるしめていることへの怒りしか覚えない。
「あなたは、うちの娘に会う資格があるとでも思っているんですか?」
「……え?」
更に激しさを増す雨。
傘を持っていることすら頭にないほどに鴨居ひ必死だった。
そして、養母の口から鴨居には予想だにできなかった衝撃の事実が伝えられる。
「あなたの心ない行動の所為で……真理恵は妊娠してしまったんですよ。」
鴨居は雷に打たれたようなひどいショックを受けた。
信じることができなかった。
妊娠だなんて、自分にはまだまだ縁の無い話だと、妙な自信があって、でもそんなのはただの勘違いなんだと思い知らされた。
「真理恵はひどくショックを受けて、今は塞ぎ込んでしまっています。それでもあなたは真理恵に会わせろなどと言えますか?」
インターホンが切られた後も鴨居はその場で立ち尽くした。
流れ出る涙も、土砂降りの雨に飲み込まれていく。
全身から力が抜け、鴨居はその場に力なく座り込んだ。
メグのいるリビングへと戻った養母。
「ママ、お客さん?大きなこえだしてたけど何かあった?」
小さな声でメグが聞く。
「ううん。すごいしつこい勧誘をする新聞屋さんだっから、ちょっと声が大きくなっちゃった。」
微笑む養母。
「それよりも温かいミルクと甘いクッキーを持ってきたわ。少し落ち着くから食べなさい。」
そう言って、ホットミルクとクッキーを渡した。
メグはホットミルクを手に取ると、少しだけすすり、「美味しい」と呟いた。
その日の深夜になりメグの養父は帰宅した。
会社を出て迎えに来ていたタクシーに乗り込む僅かな間に濡れてしまったスーツの肩を手で払った。
そして、いつも通りに門の鍵を開けようとした時だった。
インターホンの下に一人の青年がいることに気が付いた。
「キミこんな所でどうしたんだ、びしょ濡れじゃないか。」
カバンからタオルを取り出すと鴨居の頭を拭う。
「とにかく家に入りなさい。そのままでは風邪を引いてしまう。」
そう言って抱え起こしてくれたのだが、鴨居はその言葉に甘える資格が無かった。
「あの、オレは……」
自分は、あなたの娘を苦しめている男だ。と伝えようとするが、それは養父の言葉に遮られる。
「今はとにかく入りなさい。話は後でゆっくりと聞かせてもらうから。」
言う機械を失ってしまった鴨居は養父に引っ張られるがままに、家へと入っていく。
そしてシャワーを借りて、少しぶかぶかな養父の服を着させてもらった。
「おや早かったね。あれだけ濡れたら寒かっただろう?さぁお茶でも飲みなさい。」
リビングへと戻った鴨居に養父は熱々のお茶を出してくれた。
そしてゆっくりとソファーに座る。
「で、何でまたずぶ濡れになって、あんな所に座り込んでいたんだい?」
鴨居は見ず知らずの男にも関わらず、養父は優しく聞く。
鴨居は包み隠さずに全て打ち明けることにした。
「オレの名前は鴨居友徳と言います。」
謎の訪問者の正体に養父は驚愕したが、口を挟むことなく鴨居の話を聞いている。
鴨居はメグに出会った経緯や、青森県でのこと、千葉で少しだけ同棲をしていたこと、そしてメグに会うために大阪まで来たこと、全てを話した。
「そうか……キミがあのカモ君だったのか。」
初めのうちは、驚きを隠せずにいた養父だったが、鴨居の話を聞くうちに、その真剣な態度を見るうちに、鴨居の印象が変わっていった。
「メグはあまり私達に話をしてくれることはないんだが、君の話だけは楽しそうに話して聞かせてくれたよ。」
この養父の柔らかな態度に鴨居は驚いていた。
なぜなら先程の養母の様な反応がどう考えても普通だったからだ。
「カモ君。あの子はどんな風に旅をして、何を感じていたのか、一番近くで見ていた君の言葉で私に教えてはくれないか?」
予期せぬ頼みに、驚きはしたが鴨居は自分でも驚くくらいにすんなりと受け入れることができた。
「はい。あくまでオレの感じたままですけど。」
こくりと頷いた養父。
鴨居は記憶をさかのぼる様にして話し始めた。
鴨居の話に養父は興味津々と言った表情で聞き入っていた。
メグからは聞くことができなかった話を聞けて本当に嬉しそうにしている。
「いやぁそうか。そんなことがあったなんて。」
鴨居が話し終えると、時計は深夜の三時半を指していた。
「ありがとうカモ君。きっとこんな話はあの子から聞くことはできなかっただろう。」
「いえ、そんな。オレは別に……」
感謝される資格など自分にはないと思う鴨居は、それを否定しようとしたが。
本当に嬉しそうに、少しぬるくなってしまったビールを飲む養父の姿に、そんな気持ちを消されてしまった。
「カモ君はどうしてメグのことを好きになったんだい?」
試してるわけでも、意地悪でも何でもなくて。
養父は本当に、その答えが気になるから、知りたいから鴨居に聞いた。
それを少なくとも感じ取った鴨居が、真面目に答えた。
「メグに初めて会った時の、あの瞳をオレは忘れません。孤独で悲しそうで、儚くて……でも、とても澄んでいて、綺麗な目をしていた。だからって言ったら変ですけど、それが好きになるきっかけでした。」
途中から恥ずかしくなってきて、鴨居は耳を真っ赤にしながらそう答えた。
「そうか。」
養父の言葉はその一言だけだったが、満足のいく答えを聞けたらしいことは、その表情で見て取れた。
すると、急にリビングの扉が開く。
「あなた帰っていたのね。話し声が聞こえたけどお客さんかしら?」
少し眠そうに目元を拭いながら、養母がリビングにやってきた。
そこで目にしたのは、いつも通りに仕事帰りに晩酌をしている夫と、インターホンのカメラで見た、追い返したはずの許せぬ訪問者の姿だった。
「何であんたが家に居るの。ちょっとアナタどういうことなのこれは!?」
理解できぬ光景に養母の口調は荒くなる。
それを宥(なだ)める様にして養父が言う。
「いくら何でも話もろくに聞かずに追い返すのは無いだろう?これだけ大事な事だからこそ余計に本人から話を聞くべきだと私は思うんだが、間違っているか?」
ゆっくりと妻の背中をさする養父。
「間違ってはいませんけど、でも……それでもこんな。」
最後に、ぽんと背中を叩くと養父はまたソファーに座った。
「それに話を聞いてみたら本当に素直で真っすぐないい青年だったよ。」
養父は鴨居の方を向いて微笑んだ。
そして飲み終えたビールの缶を持つと、立ち上がりながらこう最後に言った。
「今日はもう遅い。明日またきちんと鴨居君の話を聞くことにしようじゃないか。な?」
養母が頷いたのを見て養父はキッチンに空き缶を持っていった。
それを見送ると、養母は一度だけ鴨居を見て、自分の部屋へと戻っていった。
その夜鴨居は、養父が持ってきてくれたタオルケットを被ってソファーで眠りについた。
次の日の朝。
あまりよく眠れなかった鴨居は、日が昇るのと同時に目を覚ました。
「メグ……今日は会わせてもらえるのかな。」
タオルケットを畳んでソファーの上に丁寧に置く。
そしてタオルケットの隣に腰を下ろすと鴨居はしばらくの間ぼーっと過ごした。
『ガチャ』と言う音がしてリビングに入ってきたのは養母だった。
鴨居が「おはようございます」と挨拶したのだが、養母は無反応でキッチンへと入っていく。
分かり切っていた反応にも鴨居の心は痛んだ。
無言の空間に包丁独特の軽快なリズムだけが響く。
何だか実家に戻ったような感覚になって、鴨居は何気なく聞いてみる。
「メグちゃんは何が好きなんですか?」
「…………。」
やはり無言。
仕方ないか。と鴨居が俯いた時だった。
「分からないのよね。あの子ったら私の作った料理なら何でも美味しいよ。って言うんだもの。」
メグがそう言う訳を、今になって鴨居はわかるような気がした。
それは一緒にいるのが、料理を作ってもらえるのが当たり前だった頃にはなかなか実感できない感覚。
「何となくだけどそれ分かりますよ。バリエーションは少なくても、味がそんなに良く無くっても……美味しいんです。」
養母はそんな鴨居の言葉に料理を続けながらも耳を傾けていた。
「一人暮らしをするようになってみて、自分で料理したりするじゃないですか。そうするとね、それまで気付かなかった大変さが分かってきて、何でかな?あれだけ嫌だった母親の手料理が食べたくなるんですよ。」
ふつふつと沸きだした湯。
養母はマグカップを取るとミルクティをいれる。
「母親の手料理って、きっと母親が自分の為に作ってくれた。たったそれだけでもう何よりも美味しいんですよ。」
そう言った鴨居の視界が、甘い香りの湯気で霞む。
「……え?」
置かれたマグカップに驚く鴨居。
「ミルクティ。あの子が眠れない時とかによく入れてあげたわ。そうすると嘘みたいにぐっすり眠るのよ。」
養母の顔が鴨居の前で初めて和らいだ。
鴨居は温かいミルクティを一口飲む。
すると甘さと芳ばしさ、絶妙な苦味が口の中に広がった。
「美味しい。それに、本当だ……落ち着く。」
温かなミルクティは体に染み渡り、気持ちまでもを温かくしていく。
「美味しかったです、ご馳走様でした。」
鴨居がそう言うと養母は黙ってマグカップを取り、キッチンに返りざまに言う。
「……どういたしまして。でも別にあなたを認めたわけじゃいから。」
そんな嫌味に鴨居はほんの少しだけ自分を認めてくれ始めたのを感じた。
朝食が出来上がる頃、養父が眠そうにリビングへと降りてきた。
「お早う鴨居君。ソファーで寝れた?」
「はい。ふかふかで気持ち良かったですよ。」
「はは。そっか、なら良かった。客間が散らかってたから悪かったね。」
そう言って、養父は洗面台のある風呂場へと消えていった。
「メグはまだ寝てるのかな……それとも、降りてこないのかな。」
今すぐにでもメグの部屋へと押し掛けたいのを鴨居は必死に堪えていた。
それは昨日からずっとで、前園の言葉が無かったら今ごろ暴走して追い出されてしまっていたかもしれない。
もう少しできっとメグに会える。
そう信じていた。
なんだか良くわからないが鴨居は養母、養父と三人で朝食を取った。
しかし緊張と混乱のせいであまり料理は喉を通らなかった。
「さて……と。お互いに少し落ち着いたところで話しようか。」
リビングのソファーに座る三人。
鴨居は二人と向き合う形で座る。
「率直に言わせてもらと、やはり真理恵を君と一緒に行かせるわけには行かない。」
養父の落ち着いた声。
その静かな響きの中に、絶対的な揺るぎない気持ちだという事が伝わる。
「ただ勘違いして欲しくないのは、避妊しなかったことを責めているわけでも、ほんの少しの時間しか共にしていない君と真理恵の気持ちを否定するわけでもないということだけは分かって欲しい。」
その言葉が嘘でも偽りでもないことは、養父の人柄を見ていれば明らかだった。
しかし鴨居に納得できるわけなどなかった。
それでも、事実を否定する言葉などなく、鴨居の拳は行き場を無くし震える。
「真理恵はまだ高校生だし、鴨居君あなたも確か大学生でしょ?現実を見て。今のあなたには真理恵を養っていくことはおろか産まれてくる子供を育てることは出来ない。そうでしょう?」
大学すら両親のお金で通わせてもらっている現状。
アルバイト代だって携帯料金と生活費にほとんど消えてしまう。
そこから二人を養い生活することなどできるはずも無かった。
が、鴨居だって何の覚悟もなしにメグを追いかけ続けていたわけではない。
「オレは学校を辞めて働きます。確かに苦しいかもしれない、お金に困ることだってあるかもしれないけど。けど――オレはメグと一緒に生きていきたいんです。」
揺るぎない覚悟。
認めてあげたいのは二人にしてもやまやまだが、愛する娘の幸せがこの選択にはかかっている。
「それで、真理恵は子供は本当に幸せになれるのかい?」
ずしっと重くのしかかる言葉。
それで自分は満足かもしれない。幸せになれるのかもしれない。
でもメグは――?
産まれてくる子供は――?
本当に自分の考えている未来図で幸せになれるのか?
そうであって欲しいとは願えても、そうであると断言できずに鴨居は黙ってしまう。
あれだけ鴨居に厳しかった養母が優しくなだめるように言う。
「あなたが遊び半分で真理恵のことを思っているわけじゃないのも、これからのことも本気で考えてくれているのも分かるわ。仮に許したとして、大学を途中で辞めた人を雇ってくれる所なんて無いに等しいの。」
今のご時世、何の資格も持たず、何の才能もない者を簡単に雇ってくれるところなんてなかなか無い。
「分かるかい?残念だけど今のきみには真理恵をもらう資格はないんだよ。今のきみには、ね。」
がくりと肩を落とす鴨居。
しかし養父の言葉に何が違和感を感じた。
「今のオレには……?」
そう呟いた鴨居を見て養父は僅かに微笑む。
「そこまでの覚悟、おおいに結構だが。そこまで言うのなら実際にやって見せなさい。」
「ちょっとアナタ、何を言っているの!?」
養父の言葉に養母は動揺する。
鴨居に諦めさせる事が目的だったこの話し合いに、今の養父の言葉は明らかに意図がずれていたからだ。
「それは、オレが実際に職に就いて自立すればメグと一緒に暮らしていいということですよね?」
落ち込んだ気持ちに火が灯る。
力の抜けた身体に血が巡るのを感じた。
「一緒に暮らせるかどうかは知らないよ。それは真理恵が決めることだ。」
養父はやわらかな口調でそう言った。
「あ、そっか……」
それは当たり前のことだったのに、なぜか頭から消えてしまっていた。
鴨居はメグが好きで、必死で追い掛けているが。本当にメグも鴨居が好きで、鴨居のことを待っているかどうかなんて確約などない。
しかし、そんな不安は一瞬にして消えた。
「私待ってるから。いつかカモがパパやママにも認められる人になって迎えに来てくれるの……ずっと、ずっと待ってるから。」
リビングの扉の向こう側。
確かにその言葉が聞こえた。
「今は会えないから。だからこうやってしか話せないけど、私はいつまでも待ってるよこの子と一緒に。」
メグの言葉に鴨居は生まれ変わるような気分さえした。
きっとこれから先、辛いことや苦しいことが待っているだろうけど、今のその言葉を思い出すそれだけで何でも乗り越えていけると思えた。
「うん……必ず迎えにくるから、待ってて。」
そしてメグもまた、鴨居のその言葉に、鴨居と同じ思いを胸に刻むのだった。
鴨居はメグと本当に一目も会わぬままに悠太達の待つ家へと帰っていった。
「いやぁ、相思相愛ってこういうことを言うんだろうな。」
養父はたった二言三言の鴨居とメグの会話を思い出しそう呟いた。
それを隣で聞いていた養母があきれ顔で言う。
「何が相思相愛ですか……まったくアナタもあの子達も勝手に話進めちゃって、私はどうなっても知りませんからね。」
それは何かを否定するときの厳しい口調ではなくて、不安を抱えながらも落ち着いたその口調に養父は嬉しくて笑った。
「私は応援しているよ……頑張りなさいカモ君。」
誰に届くこともないその声援は、深まる秋に涼しさを増す、仄かな冬の匂いを含んだ空気に溶けていった。
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