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三章

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 記憶喪失の間の記憶が、今の綾女には無かった。みのるにペンマークを打たれ、隙を見て逃げ出した所までで、綾女の記憶は途切れているらしい。
 明らかな事件に巻き込まれたのにも関わらず、綾女は、あっけらかんとしている。平気なフリをしているのかもしれない。

 
 満潮になると出られなくなるそうだから、洞窟を後にする。先に出た綾女の手を取って上に上がると、確かに先程より波が近づいているように見えた。

「先生、顔色めっちゃ悪いじゃん」

 外に出て、互いの顔が見えるようになって、綾女が驚いて言った。

「すんごく死にそうな顔してるよ」
「連載のせいですよ」

 と、嘘をつく。本当は日々の抑制剤の副作用のせいだった。効き目はあるが、心臓に負担がかかる。今も、少し岩場を登り降りしただけで、心臓が早鐘を打っている。

「綾女さんこそ、体調はどうですか?どこか不調は」 
「他人心配する前に自分心配しなよ」

 支えようとしてか、綾女が植村の肩を抱こうとする。植村は下がってそれから逃れた。

「大丈夫ですから」

 植村の言葉を、綾女は全く信じていない。眉を吊り上げて、もう一度、肩に手を伸ばしてくる。あまり不機嫌にさせても得策ではないと、植村は今度は逆らわないようにした。

 伸ばされた手は、肩でなく植村の頬に触れた。冷たい指先が、触れている四指が、線を引く。

「すっごく熱い」
 
 己の熱を自覚する。副作用なんかじゃなかった。心臓の早鐘も。抑制剤は宿を発つ前に打っていた。「プラス・ワン」は抑制剤の中で最も効き目がある。ものの数時間で切れるような代物ではない。もはやこの体は、抑制剤が効かなくなっていた。

 だからと言って、理性を失うようなことにはならなかった。ただ熱を帯びて、ただ熱い。それだけだった。

「先生、車に戻ろう。休んだほうがいい」
「いえ、良い機会です。貴方が正気に戻った今、話がしたい」
「話?俺も、俺じゃなかった時のこと聞きたい」
「私と死んでください」

 綾女は、弾かれたように目を見開いた。

「もう待てない。私には時間が無い。貴方を置いてはいけない。私と死んでください」
「……………」
「ずっと苦しかった。死ぬのを我慢してきました。生きてみましたが、何も変わらなかった。香菜かな明里あかりがいないのに、生きていても意味が無い。二人が見ることがなかった世界に、いる意味が無い」

 一人で死ぬのが一番だ。そんなのは分かっている。現に綾女は今、。目を見開いたまま微動だにしない。
 植村はもう一人で二人分の死を背負って生きられなかった。ずっと嘘をついてきた。無理矢理に生きて、綾女を巻き込んでしまった。中途半端に救い上げた自分の罪だ。
 二人と同じところには行けないだろう。その方がいい。二人が知らない時間を生きている自分を見せたくなかった。

「貴方のことばかり知っていくんです。甘い香りがすると、貴方のことばかり考えてしまう。このままだと、私は貴方を犯してしまう。その前に死にたいんです」

 こんなのは建前だ。本音は。下手に思い留まれる精神状態でない今が死に時だ。

「綾女さん、死んでください」
「…先生…」
「苦しませないようにします。トンボさんから薬を買ってあるので、眠るように死ねます」
「──先生、」

 とん、と胸を押される。それが綾女の拒絶だった。
 
「俺、赤ちゃん欲しいんだよね」 

 綾女は、ごく自然に言った。まるで世間話のような口調だった。
 澄んだ綾女の顔。さざ波と共に前髪が揺れる。

「…………」
「だから死にたくない」
 
 全く想定していない返答だった。赤ん坊が欲しいなど、綾女が思っていたなど全く知らなかった。

「…赤ちゃん、欲しかったんですか…」
「うん。先生との子供だから、めっちゃ顔良いと思うよ」
「……私との赤ん坊が欲しいんですか…」
「他に誰がいるんだよ」
「まだ記憶抜けてるんじゃないんですか?貴方は和典かずのりさんを」

 頬を思いっきり引っ張られる。

 逃げようとすると、もう片方も引っ張られる。痛みが強すぎて歯まで痺れる程だ。
 手が離れる。つねられた跡がものすごく痛くて、手で押さえる。
 綾女が見上げてくる。こういうのを目が据わっているというのか。底冷えするような冷ややかな目だった。 

「ばーか」

 だが返ってきたのは存外かわいい言葉だった。もっと罵られるかと思っていた植村は、思わぬ不意打ちに心奪われてしまった。


「っていうか熱あるのにこんなとこ来たら駄目だろ」

 運転する綾女の隣で、植村はタオルで顔の汗を拭った。
 綾女は免許証を持っているが、運転するのを見るのは初めてだった。それなりに車幅のある車だが、手慣れた様子で走らせている。
 植村は背もたれを後ろに倒す。後部座席に置いてある鞄からペットボトルを取り出して、首に当てる。

「面目ないです」
「今から帰るのも時間かかるし、どっかホテルで休む?」
「いえ、帰ります。家に薬ありますし落ち着きます」

 抑制剤のストックはあるが、翌日分は無い。それにもう効かないなら、家で大人しく寝てる方がいい。

「風邪引いちゃった?夏風邪は長引くよ」
「ああ…そうか。言ってなかったですね。私今、ラットって奴らしいんです」
「なにそれ」
「アルファ版の発情期ヒートだそうです」
無性エラーでしょ先生は」

 植村は簡単に説明した。ペンマークの余波が植村にも及び、アルファに「転換」したこと。直後にラットが始まったこと。
 綾女は大げさ過ぎるくらいに驚いていた。

「なんでそれ最初に言わないんだよ!」

 というか怒っていた。何故そんなにも怒っているのか、植村がとりあえず謝ろうと口を開いた時、車が大きくスピードを上げた。

「っわ。綾女さん安全運転でお願いします」
「腕見せろ」

 言われるがまま手のひらを見せると、綾女は反対と低い声で言った。意図が分からないまま左手を見せる。

「腕まくりして」

 植村は長袖のシャツを着ていた。まくると、腕の注射痕が現れた。
 舌打ちする綾女は更にスピードを上げた。ターボ車であるから、踏めば踏むだけ加速する。シートに縛り付けられながら、植村はスピードの出しすぎだと注意した。

「馬鹿になってる俺を使えばよかったじゃん」
「つか…?…馬鹿なこと言わないでください」
「馬鹿は先生だから。イライラするから二度と喋らないで」
「綾女さん」
「二度と、喋らないで」

 めちゃくちゃ怒っている。乱暴な運転は続く。植村はシートベルトを握りしめた。


 着いたのは、家ではなくホテルだった。普通のホテルでなく、そういうホテルだった。

 植村がたじろいでいる間に、綾女に腕をしっかり掴まれて、あれよあれよと引きづられていく。
 無人の端末受付で、慣れた様子でパネルをタッチしていく。鍵代わりのQRコードのカードが発行されて、そこに部屋番号と、入室時間が印字されていた。

 綾女が操作している間に壁に貼られていた案内文を読んだ限りでは、時間制で、一時間ごとに料金が加算されるが、一泊すると割引になる。飲料や道具、その他のサービスには、さっき発行されたカードのQRコードで読み取り、チェックアウトの時に一度に支払う仕組みになっていた。最近はこんなにハイテクになっていたらしい。
 植村が感心している間に、綾女がモタモタするなと言わんばかりに背中を叩いてくる。不機嫌を前面に出して、視線が全く合わない。

 もう綾女は完全にその気になっている。対する植村はまだ、なんとかこのまま何もせずに帰れないか考えていた。

 エレベーターに入ると、綾女がカードを挿し込んだ。部屋のある階しか行けないようになっている。またも感心していると、押し込まれた。

 最上階の部屋は、二人だけで使うには勿体無いほど広かった。ベージュな落ち着いた色使いの部屋は、ちょっと高い普通のホテルと変わらなかった。もっと極彩色のケバケバしい装飾を予想していた植村には意外だった。

 まだ真っ昼間。大きな窓は台風一過の青空が広がっていた。洞窟で感動した朝日から今こんな状況になってるのが、植村は信じられなかった。

 キングサイズのベッドに、綾女が荷物と上着を投げ捨てていく。端に座ると、やっと植村へ顔を向けた。

「シャワー、先に浴びてきて」
「…喋っていいですか」

 綾女はニコリともせず足を組んだ。

「何言ってもするからね。車の鍵、俺しか知らない番号で金庫に入れといたから、逃げんなよ」
「今後のこと話したいんですけど」
「長くなりそうだから却下」
「子供の話です」
「言ってみれば?」

 ぞんざいに髪をかき上げる仕草が、やけに似合っていた。どこかのモデルのように様になっていた。

「娘は不妊治療で授かりました。どちらに問題があったかは分かりませんが、妻もそれなりに追い詰められていました。諦めようと言った矢先に授かったんです。綾女さんも苦労された。出来れば、子供は考えたくないんです」
「随分、前向きじゃん」

 さっきまで死のうと言っていたのに子供の話など、植村も自覚していた。頭を冷やしたとかそういうわけでは無いが、この局面を迎えて冷静にはなっていた。

「あとセックスしたくありません」
「そんなに俺魅力無い?」
「魅力的です。私が会ってきた誰よりも美しいひとです」
「でしょ?そこは俺も自信あるんだ」 
「貴方が私の番だからかもしれませんが」

 こら、と怒られる。植村はベッドには行かず、窓ぎわのテーブル席に座った。

「というか抑制剤使ってみて思ったんですが、これ辛くないですか?性欲は抑えられますが感情も乗らなくなって、書くのに苦労しました」
「辛いって」綾女は大きく頷く。「あんた達はオメガがヒートしたら抑制剤使えばいいと思ってるけど、胃に負担くるし死にたくなるんだよ」

 その節はあった。現に、植村は自分がラットになるまでその考えだった。綾女が正気に戻ったのを見て死のうと誘ったのは、今思えば抑制剤のせいだったのかもしれない。
 となるとそれは植村自身の意思ではなく、薬のせいにしてしまえる。綾女の言う通り、馬鹿は自分だったのかもしれない。
 言い切れないのは、始まりが心中だったからだ。一年、時が経ち、自分たちの関係も随分と変わった。

 シャワーを浴びろと急かされる。植村はまだ綾女と話していたかった。

「私たち、まだ告白もキスもしてません」

 綾女は吹き出した。こちらは真面目に言ったのに。真面目に言ったから笑われたのだ。

「ふ、ふふっ。なにそれ」
「それに私、貴方より一回り年上で、おじいさんですよ」
「若い子、相手出来てよかったね」
「私が綾女さんだったら同じことを思った筈ですよ」
「思ったよ。ものすごく思った」

 笑顔のまま、綾女は膝を抱える。素足には、洞窟探検した時の泥がまだ付いていた。

「俺が死のうとしてた時さ、先生がさ、もうちょっと生きてみて駄目だったら、一緒に死のうって誘ってくれたじゃん。
 あの時の先生はさ、俺が死んだ和典かずのりだった。
 もし俺が死んでたら和典かずのりはきっと、あんな顔してた」

 だから、と言った声は、今にも泣き出しそうにかすれて、震えていた。

「この人にこんな顔させちゃいけないって思った。今思えば、あの時から先生に心が向いてたんだ」

 薄情だけどねと、うそぶく。
  
 さみしげな笑顔。自分だけに見せた本音。
 だからだろうか。なんだかそれが「正解」のように思えてしまった。

 この苦しみを妻と娘が経験しなくて良かったと思うと同時に、この苦しみを綾女がずっと抱えていたのかと思うと、たまらない気持ちになる。

 視線が合わさる。互いの為に生きてきた一年がここにあった。
 
 唐突で、確実な予感──いや、いつかはこうなる運命だった。これから自分たちは擬似的な心中を迎える。そう思った。




「──でさ、そしたら俺のヒートが始まっちゃって、そのまま第二ラウンド」

 大声で笑う大男がソファを揺らす。同じソファに座って、コーヒーカップを持っていた綾女は、こぼれないようにバランスを取った。

「ちょっと」
「ああすまんすまん。続きは?」
「結局、その日はそこに泊まって、指輪買ってもらって、籍入れた」

 綾女の薬指には指輪が二つ光っている。和典かずのりのを外そうとする綾女に、先生はそのままで、と新しい指輪を嵌めてくれた。

 あれだけセックスしたくないと駄々をこねていた男が、一線を超えたら吹っ切れたらしい。なぁなぁという訳にはならず、ちゃんとした形にしてくれた。
 だから今は植村アランの妻で、植村姓だ。なんだかまだ慣れなくて、姓で呼ばれると、すぐには反応出来ない。

 大男はまた大笑い。こんなに笑われると、良い気がしない。話したかったから話したが、この男が嫌いだという先生の気持ちが少し分かった。

「いやー良い話だったな。おじさん感動したぜ」
「良い話じゃなくて面白かったんでしょ」
「いやいや良い話だった。アランがなぁ…」

 ソファの男は、羽根谷慧はねだにけいだ。金髪にスーツ姿は、どうみても精神科の先生には見えない。綾女は面と向かってチャラ男と呼んでいる。
 
 カウンセリングの日にやって来たチャラ男だったが、先生は急用で外出していた。帰ってくるまで待つというので、リビングのソファに案内したが、綾女の指輪に目ざとく気づいたので説明してやった。

 それでこの大爆笑だ。本当にカウンセリングの先生なのかと疑いたくなるくらい、こちらに配慮しない。

 だがけいが、ふいに伏せた目は笑っていなかった。哀愁のようなものを称えた瞳は、手元に注がれている。

「良かったよ。ほんと…。抑制剤打ってるのは知ってたんだがな。やばくなったら最悪セックスするって言ってたんだが、やっぱ一杯一杯だったんだな」
「抑制剤ばんばん毎日打ってたら正気じゃいられないって。先生なのに気づかなかったの?」
「信じたかった。死なないって言ったアランを信じていた」

 さみしい顔は、少しだけ。けいは直ぐにいつも通り、飄々ひょうひょうとした顔に戻った。

「お嬢さんが馬鹿になってる間、事件があったぜ」
「どんな?」
「アランが、アンタの元旦那の弟に復讐したって話」
「みのる?」
「そんな名前だったな。その様子だと、やっぱ知らねぇみたいだな」

 アランには内緒な、とけいは話を始めた。
 綾女にペンマークを打ったみのるを自供させるため、自白剤を投与したこと。結果、ペンマークを打ったと認めたが、和典かずのりを騙してオメガホルモンを自身に打たせていたことも発覚した。

「『転換』させて番を解消させてから、みのるはお嬢さんを番にするつもりだったそうだ」
 
 みのるの企みは、実際に襲われるまで、全く気づいていなかった。母親に逆らえない臆病者だとばかり思っていたから、まさか綾女に好意を持ち、和典かずのりを「転換」させてまで番になろうとする度胸があるなど思わなかった。

「酷い話だよね」
「それだけか?もっとあるだろ」
「俺じゃなくて先生。全然関係ない人だったのに、完全に巻き込まれてるじゃん。もともと遠山家の内輪揉めってことでしょ?俺はオメガだから物みたいに扱われるのは慣れてるけどさ、俺のせいでみのるをボコってさ、先生を犯罪者にさせちゃった」

 和典かずのりが事故死しなければ、今頃はみのるの妻となっていた事になる。それでも良かった。和典かずのりが生きてさえいれば。
 だが和典かずのりは死んだ。先生とこうして番になった今、素直に良かったと喜べるわけもなく、やりきれない思いになる。

「何もかもハッピーエンドとはいかんわな」

 綾女の心情を察して、けいが先回りする。綾女は背もたれから体を起こした。

「お、今のはカウンセリングの先生みたいだったね」
「先生なんだよ。俺のことも先生って呼べよ」
「チャラ過ぎ。無理」

 せめて黒髪にして眼鏡でもかけてみたら印象が、がらりと変わるだろうに。…それはそれで胡散臭さが増しそうな気がする。
 そんな妄想をされているなど知らないけいは、胡散臭ささ満載のにやついた笑みを見せた。

「アランにまだ先生って呼んでんのか」
「悪い?」
「旦那だろ。名前で呼んでやれよ」
「夫婦のことに口出しすんな」

 とは言ったものの、そこは綾女も少し気にしていた。目の前にいるチャラ男が名前で呼んでいるのに、自分はまだ先生と呼んでいる。そろそろ名前で言ってみるのも悪くないかもしれない。
 先生も「さん」付けで言ってくる。でもなんだか呼び捨てよりも、そっちの呼ばれ方の方が、なんとなく綾女は好きだった。

「先生って、ずっと敬語なの?」
「俺相手にそう喋りだしたのはお嬢さんがきてからだ」
「それって去年から?最近じゃん」

 昔からそういう喋り方なのかと思っていた。幼なじみが突然、敬語を使い出したのだ。違和感満載だっただろう。身内になった綾女に対しても未だに敬語だから、もう直す気が無いのだろう。

「お嬢さん相手でもまだそう喋ってんのか」
「変な人だよね。なんか企んでんのかな」
「あいつころころ性格変わるからなぁ」

 意味深な発言に綾女は興味が湧く。

「もしかして元ヤンとか?」
「そんなんじゃねぇよ。…まぁ…あいつが話さないなら俺も話せねぇよ。本人に聞いてみな」

 みのるの件は綾女に関わりがあるから明かしてくれたが、植村の過去は個人的なことだから話せないという理由だそうだ。

「あ、ねぇ俺が記憶無くしてた頃の動画とか無いの?どんなになってたか知りたいんだけど」
「あるぜ。俺が撮らせた奴がある」

 カウンセリングの一環として、綾女の写真を撮るように指導したという。テストと称して動画を送らせたそうだ。

 けいのスマホを見せてもらう。動画を再生すると、確かに綾女が映っていた。

 床に座り、絵本を広げている。一冊を手に取ると読み始めた。

『カニさんが、サンダルを、くぐりました』

 ものすんごくつたない喋り方だった。子供、いや、三歳児だ。
 一枚めくる事に顔を上げて笑う。おそらくは先生を見ているのだろう。その度に先生が「続きは?」とか「上手ですね」と促している。
 一冊読み終えると、先生が頭を撫でた。すると綾女はもっと褒めてとばかりに抱きつく。画面が大きく揺れて、録画が終わる。

 ──綾女は直ぐに動画を削除した。

「おい、勝手に消すなよ」
「なにこれ!すっごい頭パーじゃん!」 

 馬鹿になっていたと自分でも言ったが、実際の様子を目の当たりにすると、とても見ていられない。よくこんなのを相手にしていたとさえ思う。

「恥ずかし過ぎる…」
「めっちゃアランに懐いてたみたいだぞ。なにするにも一緒だったとか」
「めっちゃ迷惑かけてたんだ」
「アイツ世話好きだからな。気にすんな」

 知るのと知らないのでは大違いだ。もっと先生のお世話しよう。

「ねぇどうしたらいいと思う?」
「なにをだ?」
「申し訳ないって気持ち。悪いのはみのるだけど、なんか報いたい?ってやつ。みのるに自白剤打ったこと、今まで俺に言わなかったってことはもう言うつもりないよね。つまり墓場まで持っていくつもりだったんだ。俺のせいだし、先生ばっか抱えるの、嫌だ」
「アランもおんなじこと思ってると思うぜ。オメガばっかり割くうのはどうかってな」
「そうかな」
「しらん」

 適当なことを、とは思わない。これぐらい軽い方が、返って良かった。
 
「特別なことしたいならしりゃいい。アランは喜ぶぜ」
「うん。したいことしてみる」

 自分の膝を叩いたけいは、かすかに微笑んだ。

「ま、家族でいてやってくれよ。アイツ、身内はみんな死んで、一人ぼっちだからよ」
「俺と一緒だ」
「じゃあ二人ぼっちか」

 そう、まだ二人きりだ。でもいつかは──。思うだけならタダだ。それくらいの欲を出しても構わないだろう。 
 
 けいはテーブルに置いていたコーヒーを飲み干すと、茶請けのクッキーに手を伸ばした。

「ならもう俺のカウンセリングは必要無いか」

 食べながら聞いてくる。行儀の悪さに、いちいち目くじらを立てたりはしない。

「それは今日決めてよ。チョコ食べる?」
「遠慮しとく。俺帰るわ」
「え?もう?」

 とは言ったものの既に一時間は経っている。まだ先生が帰ってくる様子はない。けいにも予定がある。無理に引き留める理由もなかった。

「アランにはまた連絡するって言っといてくれ。ごちそうさん」

 けいは鞄一つ持って玄関へ向かった。見送りでついていくと、けいは靴を履きながら、落ちた前髪を後ろに撫でつけていた。中に着ているシャツが派手な柄だったら、間違いなくヤクザだ。

「式すんのか?」
「さぁ?しないんじゃない?」
「適当だな。ま、いいさ。お幸せに」

 こんな距離なのに、手を振られる。綾女も一応、手を振り返した。


 ソファに戻って、端末をつける。やはりまだ先生から連絡はない。待受画面は密かに撮った先生の寝顔だ。いつ気づくだろうかと設定したが、人の端末を見る趣味の無い人らしく、全く気づいてくれない。

 無防備に眠る先生の顔を知るのは、今は自分だけ。少しの優越感に浸りながら、綾女は夕飯の支度を始めた。



 和典かずのりの事で話があると呼び出された。出された飲み物に薬が入れられていて、動けないでいるうちに注射を打たれた。
 みるみる思考が停止していって、何も考えられなくなっていく。閉ざされた意識を呼び覚ましたのは、激しい痛みだった。
 首裏を噛まれる痛み。何度も。番になれないと、男の怒声。
 綾女の四肢はまだ動けた。力を振り絞って逃げ出した。捕まって殴られて、失神したフリをして、また逃げ出した。
 どこをどう走ったのか覚えていない。隠れる所を探して、ゴミ捨て場の中に隠れる。蓋をしそこねて手が挟まる。でももう力尽きて、綾女は意識を失った。


 それからはずっと夢を見ていた。色んな夢を見た。和典かずのりと出かけた海。かき氷を食べて、焼きそばを食べた。帰り道の車内で、プロポーズされた。二人だけの結婚式。指輪を嵌め合って、あれは冬で、吐く息が白かった。でも手を繋ぐとどちらも熱かった。

 コタツを独占していると、入ってきたのは先生だった。ココアを作ってくれて、ミカンを剥いてくれた。世話焼きだねと言うと、世話好きなんですと答えた。
 冬季閉鎖が解除されたからと、ドライブに連れてってくれた。ちょうど桜が咲いて、花吹雪の道の上を走った。綺麗だなと思っていたら、先生も綺麗ですねと言った。

 朝はいつも目玉焼きだ。いつも上手に出来た方をくれる。だからいつも綺麗な丸い黄身から食べてやる。口では言わないが、変な食べ方だなと思われているに違いない。ちらりとこちらに気づかないように黄身を食べたか律儀に見てくるのが面白くて、いつもこの食べ方をした。ここに住んでから身についた習慣だった。

 夢を見ていた。幸せな夢だった。夢でなくとも、ずっと幸せが続いている。




 温かな感触に、目を覚ます。先生がこちらを見下ろしていた。

「──起こしちゃいましたね。そんな所で寝たら駄目ですよ。風邪引きますよ」

 ソファで眠ってしまっていた綾女に、ブランケットをかけてくれたらしい。まだ夢の残滓を引きずりながら、目を擦る。

 時計を見れば、まだそんなに経っていない。夕方六時前。夕飯はあらかた出来ていて、後はメインのハンバーグを焼くだけだ。種は既に作って冷蔵庫で寝かせてある。

「いつ帰ったの?」
「今さっきです。寄り道したので、遅くなってしまいました」
「そ。おかえり」
「ただいま」

 綾女からキスする。先生がびっくりして逃げるのは、いつものこと。負けずに追いかけると、ガクンと先生だけ下に落ちた。
 腰を抜かした先生が、床に座り込んだだけ。ソファにいる綾女は何の被害も無い。先生の顔は真っ赤で、茹でダコみたいになっている。

「あははっ。そろそろ慣れてよ」
「……綾女さん」

 低い声で呼ばれる。怒ってるつもりらしいが、夫にキスして怒られる理由が全くないし、赤い顔だから全く怖くなかった。

「貴方、自分が美しい顔って自覚あるじゃないですか」
「うん」
「自覚があるんなら、心の準備が必要な私の気持ちもおもんばかってください」
「なにそれ。これからキスしますよって言えばいいの?」
「そうなります。誘惑されて、落ち着かないんです」

 真剣にそんなことを言いだす。綾女はおかしくって爆笑した。この人は、真面目に綾女の顔が美しいと言う。正直な告白が可愛くて仕方がない。
 照れて顔を逸らすのが精一杯な所が、かつての夫と重なる。和典かずのりとは良い思い出ばかり思い出された。先生とも、良い思い出ばかりにしていきたい。

 綾女も床に座って、両手で先生の顔を挟んでこちらを向かせる。薬指の二つの指輪が煌めいた。

「慣れて。いっぱいキスしたいんだ」
「……頑張ります」
「じゃあ先生からして」

 恥ずかしげに彷徨う瞳に、戸惑う顔。そろそろと、手に手を重ねられる。頑張ってと応援しながら、綾女はその時が来るのを心待ちにした。


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