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二章

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 起きるのはいつも植村が先だ。一番初めにやることは髪を結ぶこと。くせっ毛を直すのに時間をかけたくなく、なら髪を一纏めにすれば直さなくていいのに気づいたのは最近のことだ。肩くらいまである髪をお団子にする。後は顔を洗って着替えれば、自分の支度は終わる。
 寝間着は基本、浴衣だ。汗を吸うのに一番適している。部屋着をシャツとスラックスにしているのは、執筆業で家に籠もりがちでも、当然の訪問者はやって来るからだ。編集担当やら他の関係者やら、重なる時は重なる。一応は先生と呼ばれる立場なのでそれなりの格好をと思っている。
 
 朝食作りにとりかかる。パンを焼いてソーセージと卵焼きを作る。順当な朝の料理だ。サラダはレタスと漬けておいたズッキーニでいいだろう。
 パンが焼き上がるまでに全てを作り終えておくのが植村の理想だ。大抵は間に合わないのだが、時々間に合うとゲームをクリアしたような達成感を味わえる。
 今日は何とか間に合った。良い日になりそうと思いながら、湯を沸かしていなかったのに気づく。コーヒーが飲めない。初歩的なミス。直ぐに沸くから良いのだが、ゲームとしては失敗だ。

 とりあえず湯を沸かしている間に、綾女を起こしに行く。彼は朝が弱いわけでもないのに、ベッドから起きようとしない。端末をいじくるのに夢中だ。

 リビングを中心として左右に個室がある。東側が綾女の部屋だ。扉をノックする。はーい、と応えがあって、バタバタと扉が開く。

 黒髪のショートボブに顎まである前髪をセンターで分けている。成人した男とは思えない細い体躯。整い過ぎた容姿は、人を惹きつけて止まない。息を呑む美しさだ。
 美人は目で殺すと云われるが、吸い込まれそうな大きな黒の瞳は、まさに人を殺しかねない。魅惑的で、蠱惑的だ。

「先生、おはよう」

 彼が来ている上下、水色のパジャマは女性ブランドの可愛らしいものだった。ショートパンツを履いて、細い足を見せている。

「朝食出来ましたよ」

 キッチンに戻りながら言うと、綾女もこちらに来る。テーブルの上に置かれたパンにクリームを塗るのは綾女の仕事だ。冷蔵庫から一瓶取り出したラベルは黒胡麻ペーストだった。もう三日も続けてそれなので、最近のお気に入りなのだろう。

「先生違うのにする?」
「同じでいいですよ」

 遠慮なく、と耳の際まで丁寧に塗っていく。一面の黒に染まっていくパンに、イカスミを連想させて最初こそ本当に美味しいのだろうかと疑ったが、これがパンにとても合う。バターとかジャムとかしか知らなかった植村にとっては目から鱗だった。

「綾女さんは紅茶にしますか?」
「コーヒーでいいよ」
「珍しいですね」
「昨日、新しいの買ってたじゃん。試しで飲んでみたいんだよね」

 買ったというか、缶ビールを箱買いしたら、おまけでついてきたドリップだ。カウンターキッチンの調味料入れに、隠すように挟んでいたのを、目ざとく見つけていたようだ。

 綾女にはそれを煎れるとして、自分は何にしようか。逆に今日は紅茶にしようと、ティーバッグを取り出す。湯を注いでカウンターに置くと、綾女が引き取る。テーブルにそれぞれ配置して、後は食べるばかりとなる。

 対角線上に座る。テーブルの幅が狭いから、向かい合ってだと食器のスペース的に都合が悪い。

「先生の作る目玉焼き、いつも絶妙なんだよね。半熟なのに黄身が流れないからさ、食べやすい」
「蓋して放置してるだけですよ」
「そこが難しいんだって」

 箸で器用に黄身だけをえぐり取りながら、口に運ぶ。それから白身を折り曲げて一口で食べる。綾女のいつもの食べ方だ。

「コーヒーどうですか?」

 コーヒーを飲んだのを見計らって聞くと、綾女は笑ってカップを植村の近くに置いた。

「飲んでみたら?」

 こういう行為を、植村はあまり良く思わない。汚いとか衛生を気にするのではなく、単に生理的な気分である。
 綾女は全く構わずにこういうことをやってくる。植村が断るのも知っている。

「潔癖性」

 と、カップを引っ込めて、「あんまり美味しくないんだよね」と言った。

「うっすい。味しない」
「残念でしたね」
「先生の紅茶もらっていい?」
「嫌です。新しいの欲しいなら注ぎますよ」
「けち」

 ケチでないのだが。植村は問答を止めた。ここは綾女に譲っておこう。

「そういえば、お山の家、もう夏だけど行かないの?」
「行きますよ」
「去年の今頃は山の家に行ってたじゃん」
「去年は仕事が無かったんです。今年は連載抱えてますから、野菜育ててる暇無いんです」

 植村が住んでいた山の家は、夏限定の仮住まいだ。冬には雪で閉ざされる場所だから、夏以外は山を降りた街の郊外の一軒家で暮らしている。

 この一軒家は、妻子と生活した家で、植村が自殺未遂した家だった。自殺する前に家財は処分して、死に損なってからも最低限の物しか置いていなかったから、今ある家具は綾女と二人で暮らすために新しく買い揃えたものばかりだった。

 小さな白いテーブルは綾女チョイスによるもの。彼いわく、皿でもコップでも、白がいちばん綺麗だと言う。汚れにも気づけて清潔を保てるという。

「そっか。てっきり一周忌待ってくれてるんだと思ってた」

 チン、とコーヒーカップをスプーンで鳴らす。ミルクと混ざりあう渦に、綾女は目を落としている。


 ──綾女の夫、和典かずのりが不慮の事故で亡くなって、一年になる。
 
 この一年、綾女は一度も夫の名を呼んでいない。植村に話した事もない。何でもない顔をしながら、淡々と、彼は最愛の人の死を噛みしめていた。

 一周忌も実は、頭に入れないでは無かった。オメガの性質として、番を失うと心身ともに不安定になる。今は植村と番関係を結んでいるが、無性エラーである為に繋がりが弱い。
 綾女の身に何か支障があった時に、直ぐに病院に行けるこちらの家の方が何かと都合が良かった。

「本当に私、一緒に行かなくていいんですか?」

 一周忌は明後日に迫っていた。綾女から一人で行くと言われていたが、遠山家の義母からは一方的に恨みを持たれている。葬式でも何かと難癖をつけられたようだったし、今回もそうなるのではと心配だった。

「それに遠山家の者にか参加しないんだから、先生来れないよ」
「それはそうですが」
「半日の付き合いだ。直ぐ終わる」

 パンを勢いよく噛みちぎる姿に、植村はまたも自分から折れる。綾女が来るなと言うならそれまでだ。

「ビビリが送迎するから、先生は何もしなくていいよ」
「…素朴な疑問なんですけど」
「ん?」
「綾女さん、あだ名付けますよね。私のこと何て思ってるんですか?」
「あだ名で呼ぶのは俺が名前覚えられないからだよ。先生は先生だから、あだ名って言ったらそれかな」

 でもまぁ、とパンをかじる。口の端についたパンくずを舌で舐め取った。

「敢えて言うなら、若年寄わかどしよりだよね」
「わかどしより…」
「だって先生、囲碁とか将棋とかのテレビよく見てるし、クラシックもラジオでよく聴いてるじゃん」
「え、それ年寄りなんですか?年齢じゃなく?」
「まだ三十二?三だっけ。確かに一回り上だけど、年齢でいったら年寄りではないよ。先生の趣味が、ジジくさい」

 理由を聞いてホッと胸をなでおろす。植村は安心してレタスを口に運んだ。

「聞いてください。囲碁も将棋もクラシックも、全部、書き物のためです。私の趣味でなく、今買いてるものの研究です」
「そう」

 綾女はたいして興味もなく残りのパンを頬張っている。食べ終わって、先に席を立った。

「どうでもいいんだけどさ」堂々と綾女は言う。「今日、チャラ男来るんじゃなかったけ?」

 チャラ男と言えば、と、浮かぶ嫌な顔を思い出す。一気に飯が不味くなる。

「…忘れていたかった」
「洗っとくからさ。逃げるんなら逃げたら?」
「いえ、逃げると毎日押しかけて来ますから、今日の内に済ませます」

 会わなくて済むなら一生会わない。相手には何度も伝えた。植村の訴えが、向こうには全く届かない。遠慮無しに踏み込んで、荒らしていく。迷惑極まりない男を、これから迎え入れなければならない。植村も食べ終えて、仕方なく席を立った。


 綾女の手引きを受けて、男が部屋に入ってくる。植村は普段かけない眼鏡をして、待ち構えた。

「久しぶりだなアラン」

 男はいつもそう挨拶した。上から下まで植村を観察しては、切れ長の目を更に細める様は、狐のよう。見透かしたような目つきが、いつも憎たらしかった。

「また白髪減ったな。新しい番君は、良い影響を与えているようだ」
「ええそうなんです」


 本当に見透かしてくる。引き伸ばしは得策ではない。植村は薄情した。

「黒いものを食べるといいと言って、綾女さんが黒豆を炊いてくれるんです」

「……本当ですよ」
「別に嘘だとは言ってねぇだろ」
「だったら何で反復するんですか。怖いですよ」
 
 探られて、良い気はしない。それが男の仕事だと知っていても、やはり良い気はしない。

 男の名は羽根谷慧はねだにけい。精神科医で半年に一回、こうして植村の元を訪れて診察をしていく。
 植村はこの男が嫌いだった。なんといってもこの羽根谷慧が、植村の首吊り自殺を止めた張本人だった。

 招き入れた部屋は、日当たりの良い執筆部屋だった。本棚に机、背もたれ椅子を二つ置いたら、それだけで一杯になる、六畳ほどの小さな部屋だった。

 それぞれ椅子に座ると、膝を突き合わせる形となる。長身の羽根谷は、自慢の長い脚をみせつけるように足を組む。身に着けているグレーのスーツも、シルバーの鎖状のネックレスと指輪も、どれも名のあるブランドで身を固めていた。

「俺が聞きたいのは、あのと本当に番関係にあるかどうかだ」
「間違いなく番ですよ」
「お前にもお嬢さんにも互いのニオイがしない。あんたら、本当にセックスしてんのか?」

 図星は、逆上してもしなくても気づかれるという。植村はならば怒る方を選んだ。羽根谷を睨みつける。

「──出ていってください」
「アラン、顔色が良いな。体重増えたんだろ」
「そういうけいは顔色が悪いですね」
「どこ見てんだ。俺が不健康だったときがあるか」

 適当に言ったのが直ぐにバレるが、植村は気にしない。図星を指されて、その話題から遠ざかれば何でも良かった。
 けいは立ち上がると、おもむろに植村に覆いかぶさるように顔を近づけてきた。肘掛けに置いていた手首を掴まれる。

「──お前、あの子と死ぬ気だな?」

 本当の図星を指される。どうして分かったのか。いや、これはハッタリかもしれない。植村の思考を読むかのように、けいは目を覗き込んでくる。瞳に自分の顔が映り込んで──明らかに動揺している──これは誤魔化せないと思ったと同時に、部屋の扉が開いた。

「あれ?取り込み中?」

 綾女だった。盆に飲み物を乗せて、部屋に入ってくる。

「精神科医の先生は、患者にそんなに密着するもんなの?」
「嫉妬か?お嬢さん」と、けいは植村から離れ、椅子に座って言う。
「嫉妬嫉妬」と、綾女はぞんざいに答えて狭い部屋の間を縫って、机に二つのグラスを置いた。

「ちょうど良い。お前、アランの髪が黒くなってんだが何かしてんのか?」
「ん?ああそうだよね。初めて会った時は、おじいちゃんみたいだったのに、最近は、おじさんになったよね」

 同意するようにけいは、にこやかに頷いた。
 この精神科医は綾女からも情報を得ようとしている。危険だった。

「自殺未遂してからアランはめっきり老け込んで、白髪ばっかになった。お嬢さんが来てから髪に黒髪が増えりゃ、良い傾向にあると普通は考える。だがな、俺にはを持っているからのように見える」
 
 けいの分析は的中していた。未来の無かった植村に、心中という希望を与えられた今、不思議と体は健康になっていた。

「俺にはアンタらが一緒に死ぬんじゃないかど疑っている」
「どうして?」
「じゃあ聞くが、セックスしたか?」

 たまらずに植村は口を挟む。

けい、綾女さんは貴方の患者ではありません」
「その患者が治療を拒んでるから、別のアプローチをするだけだ」
「先生いいよ。答えるから」と、綾女は平然と言う。
「綾女さん」
「いいよ。言わないと誤解されたままでしょ」

 綾女は植村の側に立つと、腕を組んだ。

「俺の夫は交通事故で脳死した。先生は発情期異常ヒートバグを起こした俺が、夫の最後に立ち会えるように番になってくれた。感謝してる。夫の一周忌が明後日にある。まだ死んで一年なんだ。とてもじゃないけど、死にたいとか、セックスとか、そんな事、考える余裕無い」
「つまりアランにも希死願望は無いと」
「そこまでは知らない。あくまで俺の話」

 でも、と綾女は続ける。

「──でも、先生が死んだら、俺は二回も番相手を失うことになる。先生は良い人だから、俺を犠牲にしてまで死のうとは思わないんじゃない?」
「君を人質に、アランは生きるってか」
「知らない。先生に聞いて」

 綾女の話を聞いて、けいは難しい顔をして黙り込んだ。もう自分は必要無いと思ったのか、綾女は軽く植村の肩に手を置いてから、部屋を出ていった。
 二人きりになっても沈黙が続いた。そのうちにグラスの氷が、からん、と音を立てた。




 けいが帰ってから、植村はリビングのソファで横になった。あんなのは治療なんかじゃない。ただの拷問だ。けいと対するとどうしても妻子を思い出してしまう。植村の内に秘めている二人の姿が蘇ってくる。この世にいない事実を突きつけられて、その度に二人が殺されているような錯覚におちいる。

 胸に広がる暗いものを静めようと目を閉じていると、額に冷たいものを当てられる。目を開けると、綾女が濡らしたタオルを乗せてくれていた。

「酷い顔。ブランケットいる?」 
「いえ。今日は助かりました。ありがとうございます」
「ほとんど本当のこと言っただけだから気にしないで」

 ほとんど、ということは少しの嘘が混じっている。その嘘を植村は当然知っていた。

「先生は良い人だから、俺と死んでくれるんだもんね」

 答え合わせするように綾女は言う。確かめ合うように、手に手を重ねた。



 一周忌法要を終えた綾女が帰宅すると、一目で様子がおかしいと気づいた。

「綾女さん?」

 リビングで立ち尽くす綾女は、礼服用の小さな黒鞄を床に落とした。うつむいて、表情は暗い。今にも泣き出してしまいそうにも、怒り出してしまいそうにも見える。

「どうしました?お義母かあさんが何か言ってきたんですか?」

 ただならぬ様子に、鞄を拾い上げながら聞く。すると綾女は口を開いた。

「あいつ…ホルモン剤、打ってたんだと」
「え?」
「『転換』しようとしてたんだと」
「転換?待ってください。誰の話ですか」
「かずのり…」

 綾女は目に涙を溜めていた。悔しさに耐えて唇を震わせている。

「俺との番を解消しようとしてたんだ」
「誰から聞いたんですか」
「…みのる。帰りの車で言ってた」

 ホルモン剤の投与は、森医師から聞いていた。不可解な行為ではあったが、和典かずのりは完全な事故であったから、事件性は無いからと調査はされていなかった。
 身内である弟が何らかの事情を知っていてもおかしくはない。

「なんで?俺が嫌いだったの?」

 涙を落として、綾女は問いかけてくる。植村は落ち着かせようと、ソファに座らせた。ハンカチを渡して、涙を拭かせる。
 植村は片膝をついて、綾女に向き合う。

「森医師からの情報ですが、彼はクリニックでホルモン剤を打ってもらっていたそうです。でもそれはアルファホルモンでした」
「………聞いてない」
「彼も貴方との子を望んでいたのでしょう。貴方が隠していたのと同じ理由で、彼も言えなかったのかもしれません」

 オメガなのに子を孕めないと馬鹿にされるように、アルファなのにアルファホルモンを打つ恥辱は、気位の高い彼らなら有り得る話だった。

「でも転換しようとしてたって言った。事故した車内から、オメガのホルモン剤が残ってたって」
「それは私にも分かりませんが、確かに、ホルモン剤は見つかっていたそうです」
「……先生、知ってたの?なんで教えてくれなかったの」
「言うべきでした」

 顔に痛みが走る。頬を叩かれて、植村は二発目も甘んじて受けた。

「ふざけんな!和典かずのりが俺と番解消したがってたって知ってたら、俺は先生と番になんかならなかった!」
「確かに不可解でしたが、警察は事件性が無いからと、それ以上の捜査を行いませんでした。彼の真実は分からずじまいです」
和典かずのりに愛想尽かされてたのを知りながら、心中相手が欲しいがために、俺を一年騙してたわけだ」
「そういうわけでは」 
「もういい」

 植村の静止も聞かずに、自分の部屋へ行ってしまう。次に出てきたとき彼は、パーカーの普段着に、小さなリュック一つを背負った出で立ちだった。

「綾女さん、話を」
「お世話になりました。先生も、番解消したいなら勝手にすればいいさ」

 玄関の扉を開けようとする綾女を、すんでのところで止める。綾女を抱き上げ、抵抗しようともがくのを抑え込んでソファに座らせる。

「どけよ!」
「貴方が話を聞かないからでしょうが!」
「あんたが話さなかったからだろうが!」
「ええそうです!すみませんでした!私が全面的に悪いです!」

 開き直って謝る。否はこちらにあるのは認めるが、誤解されたままなのは綾女の為にならない。

「でも、せめて話を聞いてください。出ていくにしても先立つものは必要でしょう。怒りはごもっともですが、もう少し我慢してくれませんか」

 完全に目が座っている綾女が、離れろと言わんばかりに身じろぎする。植村はそっと拘束を解いた。逃げる様子のない綾女に、とりあえずは、ほっとする。

「…ありがとうございます」
「手短に話せ」
「疑問点がいくつかあるんです。まず、『転換』が、綾女さんとの番関係を解消する為だとしたら、『転換』する必要は無い。アルファ性からいつでも解消出来るのに、わざわざオメガホルモンを打つ必要なんて無いんです」
「で?」
「これは森医師の推測なのですが、もし貴方が闇医者から打ってもらっていたホルモン剤が、別の物だったとしたら、和典かずのりさんが『転換』しようとしていた辻褄は合います」
「俺が、『ペンマーク』使ってたって?」

 ペンマークとは、麻薬の名前だ。オメガが打てばアルファを誘惑する強力な武器になり、あわよくば番関係を結べる。麻薬であるから依存性があり、精神にも多大なダメージをもたらす。しかもアルファは番を解消出来ない。するには『転換』して、ベータになるしかない。

「使ってた奴を俺は知ってる。一回でも使えば後戻り出来ない。俺が、使ってたように見えるか」

 吐き捨てるように綾女は言う。植村は首を横に振った。

「ペンマーク以外の可能性もあります。あの時の綾女さんのヒートの影響は、凄まじかったですから」
「じゃあ闇医者に問い合わせる。番号は知ってる」
「待って。これは森医師の推測です。あくまで和典かずのりさんの意思で、転換ホルモンを打とうとした場合の可能性の話です」
「…先生の見解は?」
「これも推測ですが、騙されていたとしたら?」

 綾女は薄っすらと顔を上げた。光を失った眼差しが、どんな感情を持っているのかを不明にさせる。

「本当に可能性です。貴方から聞く和典かずのりさんは、優しい人だったと記憶しています。人の良い彼なら、騙されてオメガホルモンを打たされたかもしれない」
「それ、先生の願望かもよ」
「何も貴方と心中したいから言ってるのではありません。一人だって死ねるんですから。そこは、誤解しないでもらいたい」

 揺れる瞳が、葛藤を物語っていた。ただの事故なら諦めもついたろうに。直前の不可解な行動が、判断を鈍らせる。

 ソファに沈み込む綾女に、植村はこれ以上、言葉をかけてやれなかった。近くにあるテーブルの椅子に座り込む。

「確かに…和典かずのりは…」

 綾女の言葉が途切れる。息切れのような呼吸音に、震える身体。蒸気する頬。──発情期ヒートの症状だ。植村は綾女を診察しようと、首元に触れて、弾かれた。

「さわるな…!」
「ヒートか始まっています。前よりも早い」
「…っあ…!」

 びくびくと、下肢が痙攣を起こす。やり過ごそうと体をよじって、ソファからずり落ちる。
 抱き上げようとして、拒絶される。綾女は立ち上がるのに失敗し、ソファに顔をうずめた。
 歯を食いしばって耐える綾女を、無理矢理に抱き上げる。もはや抵抗出来ず、荒い呼吸が、ひゅーひゅーと風切音のように鳴るばかりだ。

 症状から見て、発情期ヒートには違いなかった。前から、一ヶ月も経っていない。あまり考えたくはないが、発情期異常ヒートバグの可能性も有り得た。

 綾女の自室のベッドに寝かせる。真っ先にクローゼットを開けた。旅行鞄を取り出して、中を開ける。くしゃくしゃになった服が何着も入っていて、それを引っ張り出して、布団代わりに綾女の上に乗せる。
 
 それらは全て和典かずのりの服だった。植村と番契約を結んだものの、無性エラーである為か繋がりが弱く、発情期ヒートは彼が番う前と変わらず一ヶ月に一度来ていた。綾女曰く、元々の独身だった頃と比べたらまだ軽い症状だというが、熱に浮かされて身動きが取れない状態を見ると、とても軽いようには思えなかった。

 綾女は服をかき集めると、大事に抱きしめた。味わうように息を吸い込むと、ゆっくりと吐いて、自分を落ち着かせていた。
 出来るだけ気づかれないように、呼吸を確かめたり、脈を測ったりする。汗ばんでいて、熱が高い。抑制剤を使うべきか。
 
 ひとまず様子を見ようと立ち上がろうとして、引っ張られる感覚に目を落とす。綾女が、植村の袖を掴んでいた。

「せんせい…かずのりは…」
「今は何も考えないで。ヒートが収まったら、話しましょう」
「かずのりは…俺が邪魔だったのかな…」

 答えの分からない問いに答えるという無責任な慰めを、綾女が望んでいるのではなかった。

「貴方がそれだけ愛した人ならば、貴方を傷つけるようなことはしないでしょうね」
「……先生、抑制剤打って」

 直ぐ用意すると言って、袖を掴まれたままなのに気づく。植村はそっと手を添えた。

「綾女さん」
「…なに」
「手、離してもらえますか?」
「…え?」

 顔を上げて、掴んでいる手に気づく。無自覚だったらしい。綾女はさっと服の中に手を隠した。


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