上 下
2 / 15
一章

1

しおりを挟む


 電話が鳴って目を覚ます。悪夢から解放された男は、体を起こして画面に目を落とした。夢の内容とリンクする名が表示されていて、嫌な予感がしながらも、端末を手に取った。

「どうしたんです?こんな朝から」
『緊急だ。病院に来てくれ』

 声の主は森医師だった。かつて勤めていた病院の同僚で、科は違うが同じ執刀医だった。自分が医者を辞めてからも、いまだに連絡をくれる数少ない一人だった。

「病院?私はもう」
『分かってる。外科的治療は求めない。だが君でないと駄目なんだ』

 駄目?理論的な森医師が「駄目」などと曖昧な表現をするなんて珍しい。布団から抜けでてカーテンを開ける。朝日が眩しい。今日は暑くなりそうだ。

『アルファが事故に遭ってな。何とか一命を取り留めたが危険な状態だ。今はICUに入っている』

 説明する森医師は、声の調子から疲労しているようだった。話を聞くと彼が執刀したという。手術を終えて休まずにこうして電話しているのだから、相当の緊急性だ。
 ここは都市部から離れた山奥の小屋だ。病院へは車でどんなに急いでも二時間はかかる。話の全容は掴めていないが、直ぐに出発出来るようにクローゼットを開けて、鞄と服をソファに置く。車の鍵はどこに置いていただろうか。

「直ぐに向かいます。十時にはそちらに着くかと」
『すまない』
「詳しい話は着いてから聞きます」
『助かる。着いたら第三病棟に来てくれ。話は通しておく』

 第三病棟といえば、あそこは小児科か入っているはず。アルファは子供なのだろうか。森医師の体調を優先してそれ以上は聞かず、玄関先に鍵が置いてあったのを見つけ、ぶん取るように握りしめた。




 出勤ラッシュが過ぎた時間帯らしい。順調に車を走らせ十時前に第三病棟に入ると、やはりそこは小児科だった。受付スタッフに森医師の名を出すと、直ぐに案内してくれた。

 ここ、清水中央病院は、病床九百を有する県内有数の大病院だ。巨大な白い建物は、遠目からでも目を引くが、一旦、中に入ると、そこは迷宮と化す。初診であれば、間違いなく迷子になるだろう。幸いにして優秀な受付係が待機しているので、一人で戸惑う必要は無い。とはいえ県外からも外来患者がやって来るような所であるから、慢性的な混雑は否めない。
 
 この第三病棟も例外では無く、人で賑わっている。廊下では車椅子や点滴を引きずる子どもたち、看護師が行き交う。スタッフの後をついていくと、エレベーターに行き着いた。

「ここからはお一人でお願いします」

 と、スタッフは言う。彼女の仕事は多岐にわたる。多忙の為にここまでしか案内出来ないのだと、その時は思っていた。




 エレベーターは最上階へ到着した。開放感を演出するガラス張りの壁からは、清水山を見渡せた。今日は快晴。夏空らしい雲が山頂を覆い隠している。

 廊下は左右に伸びている。どちらへ行けばいいものか。それよりも、ここに人っ子一人いない事実が男の頭をもたげさせた。患者はおろか、病院スタッフすらいない。誰もいない。己の靴音だけが響く。こんな大病院で、これだけの空間が使い捨てされているのは異常だった。

 電話が鳴る。森医師からだ。

「もしもし?」
『到着したと聞いた。今どこにいる』
「第三病棟の最上階です。どうすれば?」

 挨拶も無しに本題に入るのは、それだけ緊急性の高い証拠。こちらも指示を仰いだ。

 森医師は西の最奥の部屋へ行けと言った。第三病棟は西に位置する。その更に西ならば、病院の端の端になる。
 一番、東のエレベーターから上がったものだから、それなりに歩かなければならない。西へ向かいながら、森医師の話に耳を傾ける。

『患者はオメガだ』
「オメガ…?子供ですか?」
『二十歳だ。性別は男。くだんのアルファとはつがい関係にあった』

 くだんとは、事故に遭ったアルファのことか。アルファが事故に遭い、番相手のオメガも入院している。余程の面倒事の予感がした。

『事故の衝撃でアルファとの番関係が強制的に解消されたらしくてな。オメガはそのショックで意識不明だ』
「あまり聞きませんが、無いことはない事案ですね」
『正式な検査の結果は出ていないが、おそらくアルファはベータに『転換』している』
「それは…お気の毒に」

 気の毒にと言ったのは、オメガに向けてだった。番の強制解除は、オメガにとって大きな負担になる。パートナーがいなくなったことによって、頼るべき精神的な支柱を失う。体と心は疲弊し衰え、長くは生きられなくなる。

『いちど転換した性は元には戻らない』

 森医師の断言は、医師の中では常識だった。また、アルファからベータに転換することはあっても、その逆は無い。水が低い所へ落ちるように、上から下へと流れていくだけだ。

「命があっただけでも儲けものだと思わないと」
『──そのオメガは、今とてつもなく危険だ。うかつに近づけない』
「意識不明って言ってませんでした?」
発情ヒートが止まらないんだ。抑制剤を投与したが効き目がない。このままでは発情限界ヒートオーバーを迎え、命を落とす』

 なるほど。話が見えてきた。何のために呼ばれたのか。これは確かに、自分でなければ手に負えない。

『植村君、君の体質を利用して申し訳ない』

 植村と呼ばれた男は、とんでもない、と言った。邪魔なくせ毛をかき上げる。

「前にも言いましたが、私は私の性を引け目に感じたことはありません。気になさらず」

 植村は、第二の性であるアルファ、ベータ、オメガ、そのどれにも属さない無性エラーだった。性別が男であるだけの、なんの変哲もない人間。動物的な本能に惑わされることが無いのは、植村にとって有利だとさえ思っていた。

 発情ヒートしたオメガ、それも番関係を失った状態ならば、アルファだけでなくベータ、更にはオメガ性まで誘惑の匂いが波及する。いわゆる暴走状態ヒートバグだ。これではいくら優秀な医師でも太刀打ちできない。下手に近づいたらそのオメガの誘惑に負けて犯しかねない。

『あまりにも匂いが強すぎてな。マスク越しでも引きずられる。誰も近づけない。君には彼の世話と診察をしてほしい』
「今更ですけどお給料奮発してくださいね」

 喉の奥で笑うような、クッと音がする。一見すると強面だが、笑いの沸点が低く、ちょっとしたことでも乗ってくれる案外気安い男だというのを、植村は知っていた。

『医院長に伝えておこう』
「それで事情は分かりましたが、何故、第三病棟なんです?」
『小児科であれば、まだ精通していない子供ばかりだ。オメガのヒートに惑わされない』
「なるほど。考えましたね」
『それより着いたか』
「ええとっくに」

 先程から病室を開けてそのオメガを視認していた。自分は全く感じないが、おそらくは相当の匂いが充満しているのだろう。植村は扉を閉めた。

 中は静かだった。モニターの規則的な音だけがよく聞こえた。ブラインドからは柔い光が注いで、ほのかな明かりを提供している。部屋は個室で、ベッドは窓の近くに置かれている。
 そこには、一人のオメガが横たわっていた。二十歳にしては小さい。女のように細身だった。
 点滴され、酸素マスクをしている。どうやら麻酔で眠らされているようだ。
 手足には拘束具が、転落防止のサイドレールに巻き付けて固定してある。

「随分なご配慮じゃないですか。彼を永遠に眠らせておくつもりですか?」
『だから君を呼んだ。彼の様子は?』

 植村はスピーカーに切り替えて、電話をテーブルに置いた。まず首に触れる。ヒートのせいで燃えるように熱かった。モニターが示す脈拍も、眠っているとは思えないほど早い。瞳孔の反応も弱かった。
 布団をめくる。オメガは水色の検査着を着ていた。合わせを広げて、胸元の電極を確認する。正常な取り付けで、不具合からこの数値が出されたのではなかった。
 下肢が震えていた。下穿きは無く、成人した男にしては小さなそれは、彼が子を孕むオメガである証拠だった。
 ポケットから手袋を取り出す。後孔に触れると大きな反応があった。腰をビクつかせ、引き攣った声が上がる。と共に咳を出して、拘束具が連動して苦しそうに軋む。
 構わずに指を差し入れると、違和感が。 

「ディルド入ってるじゃないですか」
『少しでもヒートが緩和できればと付けてみたが、効果が無ければ外しておいてくれ。それより咳が聞こえるぞ。意識が戻ったのか』
「いえまだ。ですが麻酔の点滴が落ちきっているので、そろそろ目覚めるかも」
『容態は?』
「危険ですね。ヒートオーバーの域に差しかかっている。処置します」

 触れただけなのに、オメガは過敏に反応を見せた。穴はしとどに濡れていた。指を抜いて手袋を外して屑入れに捨てる。
 ディルドに触れると、オメガは女のように高い声を上げた。無意識下でこれだけの反応だ。こんなもの、余計に快楽を助長させるだけだった。長時間の装着は体に悪い。刺激させないようにゆっくり抜くが、酷く暴れて難儀した。
 咳が止まらない。これだけ激しく咳が出来るのなら、自発呼吸は可能だろうと、酸素マスクを外す。晒された素顔を見て、植村は息を呑んだ。

 白皙はくせきの美少年という文言が相応しい、ひどく秀麗な容姿だった。透き通った肌、長いまつげが頬に影を落とす。誘うような唇は、紅を付けたように真っ赤だった。
 人を惑わす為に、美しくなったのか。美しいが為に人を惑わすのか。惑わされる側の詭弁だとばかり思ってきたが、このオメガを前にしては、あながち嘘でも無いと思えた。

 とはいえ無性エラーの前では無意味である。確かに美しいのは美しいが、それだけだった。着飾った人形を前にした時と同じ、そこに性欲など無い。

 とにかくヒートを静めなければ。咳も止まらない。冷蔵庫から水を取り出して、ベッドをリクライニングさせる。少量飲ませて、胃の動きが正常かを確かめてから、再度飲ませる。
 これを繰り返しつつ、部屋のエアコンを最低温度に設定する。スタッフルームから冷却ジェル枕を取ってきて、頭、脇、太ももを冷やす。体温さえ下げておけば、ヒートは無くならずとも命の危険性は少なくなる。
 
 応急処置を終えて、とりあえず客用の質素な椅子に座る。テーブルに置きっぱなしだった電話を覗き込むと、既に切れていた。


 

 通っていた喫茶店が、リニューアルされて綺麗になっていた。店員は顔を覚えていてくれて、しかもお気に入りの席まで覚えていてくれたので、植村は恐縮しながらその席に座った。
 窓のない隅の席。後ろの席にも横の席にも仕切りの壁で囲われていて、吊り下げの照明一つだけの仄暗い明かりが、昔から落ち着くから好きだった。

 この病院に来るのは何年ぶりだろうか。アイスコーヒーを待つ間、思い返そうとした所で、待ち合わせの人物がやって来る。植村は愛想よく笑ってみせた。

「森先生」
「植村君、五年ぶりか」

 月日の流れは早いと言うが、植村の中ではまだ五年かという思いだった。
 五年ぶりの再会で、森医師は全く変わらないように見えた。後ろに撫でつけた髪、面長で目つきが悪く、表情が全く変わらないから初対面の者がよく誤解する。実はただの人見知りで、慣れた相手には気軽に冗談も言うような人だ。植村とは大学の先輩後輩で、森医師に誘われるままこの病院に就職した。気安いと言えば気安い間柄だった。

 森医師はいつもの仏頂面で前の席に座った。植村のアイスコーヒーを目に留めると、店員に同じものを頼んだ。

「老けたな君は」

 容赦無い森医師の感想に、植村は苦笑するしかない。元々、若白髪だと揶揄からかわれてはいたが、山奥の隠居生活を初めて以来、もっと増えた。親が白髪だったから仕方ないにしても、このままでは三十二にして真っ白になりそうだ。

「医師の方がストレスがあるだろうに、医師を辞めてからの方が苦労したと見える」
「親のせいですよ。遺伝です」
「親のおかげだろ?貫禄がある」

 軽く笑いを取れたと思ったのだろうか。森医師は本題に入った。書類がテーブルに置かれる。臨時雇用の労働契約書だ。指示を受けながら、空欄を埋めていく。自分の影で書類が見えなくなる苦労を思えば、別の席にした方が良かったと後悔する。
 手持ち無沙汰となった森医師は、植村の悪戦苦闘など気づいていない。乱れた前髪を後ろに流すと、両肘をついて溜め息をついた。
 
「オメガの件、助かった。君でなければ今頃オメガは死んでいただろう」
「臨時収入の為ですよ。そろそろ新しいベッドが欲しかったんです」
「であれば、もう少し働いてもらおうか」
「それは構いませんけど、番相手のアルファはどうなってるんです?意識は戻ったのですか?」

 いや、と森医師は、運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲んだ。

「意識は戻らない。もしかしたら脳死かもしれない」
「脳死、ですか」
「最終的な判断はまだだが、六時間後の判定で判明するだろう」

 脳死判定は二回行われる。手術を終えて、一度目の判定が終わり、六時間後が二度目らしい。一度目の脳死判定が覆ることは珍しい。そのままおそらくは脳死と判定されるだろう。

「ご家族の方は辛いでしょうね」

 すると森医師は、眉間に皺を寄せた。

「あんな親を家族に持つとは」

 不快感を隠さずに吐き捨てるように言った。こうも感情を表に見せるのは珍しく、それだけその家族に対する心証が悪いのが伺えた。

「あんな親とは?」
「古き良きアルファの一族だ」

 その皮肉だけで、植村は察した。古くからアルファ至上主義がこの国にはびこってきた。アルファ同士の親でなければ、アルファの子とは言えない。欲だけを優先するオメガの穢れた血を混ぜてはならない。オメガから生まれたアルファもまた穢れている。そんな風潮だ。古い、五十年は遅れている。

 だが今でもそんな人間が存在しているのは確かだった。特に上流階級においては。仕事柄、そういった人間を植村も目にしていた。

「息子がベータになったのなら、自分の息子ではない。生かしておく理由もない。さっさと死なせろと、母親が言ってきた」
「それは…凄いですね」

 アルファ至上主義を貫くならば、例え自分の息子だとしても切り捨てる。そんな非情さを理解する気にはなれない。身勝手すぎる暴論だ。

「もう一人いる息子が執り成していたが、どうなるかはまだ分からない」

 二度目の脳死判定が下されたら、そのまま死亡手続きに入りそうだ。受け入れられない家族が殆どだが、その心配は無さそうだ。

「だったらよくオメガと番になるのを許しましたね」
「そちらはもっと酷い」
「というと?」
「オメガを安楽死させろと言ってきた」

 植村は飲もうとしていたコーヒーをテーブルに置いた。これ以上の苦さはいらない。
 番を失ったオメガの身体的負荷は大きい。精神的に追い詰められて、自殺する者もいるし、衰弱死するケースもある。安楽死したいと言う者も。
 この国ではオメガに対してのみ安楽死が認められている。それだけオメガは番相手がいなければ生きていけない「種族」だった。

「安楽死は本人の希望が最優先されます。ですが回復の見込みが無く、医師の同意があれば家族が判断を下せる」
「だから君がオメガに聞いて欲しい」
「…その為に私を呼んだんですか。助けるためでなく死なせるために」
「違う。俺がそんなことすると思うか」

 強い口調で言われ、我に返る。そう、森医師がそんなことを言うわけがない。特に自分に向けてそんなことを言うはずがなかった。

「君を呼んだのは助ける為だ。間違いなくな」
「誤解させた貴方が悪い」
「悪かった。すまない。…ある一定の体力があれば、例え本人が同意しても安楽死にはならない。君から見て、オメガはどうだ?回復するか?」
「まだなんとも。暴走状態ヒートバグは続いていますし、既に酷く疲弊しています。手は尽くしますが、回復するかの保証は出来ません」
「なら尽くしてくれ。当分の世話は任せる。必要なものは何でも持っていってくれ」

 世話。必要なもの。勝手に治療してあんな家族に請求して断られないだろうか。そこは病院側の問題で、自分は関係無い。時間はあった。植村は承諾した。

 頼んでいないのにサンドイッチが置かれた。店員はサービスだと言った。店の奥へ顔を向けると、顔見知りの店員が茶目っ気たっぷりにウインクをした。

 
 病室に戻る途中の、廊下のガラス窓には雨が打ち付けていた。朝はあんなに晴れていたのに。庭に出したままにしておいたテーブルを軒下に移動させておけば良かった。あちらは山間部だからここよりももっと降っている筈だ。

 病室に入る。防音はされているから、雨音は聞こえない。モニターの規則的な音だけがよく聞こえた。

 顔を覗き込む。美少年と目が合う。目覚めたようだ。植村は彼の名を呼ぼうとして、ベッドに名札が無いことに気づいた。

「名前は言えますか?」

 オメガは目だけを向けたまま、応えなかった。ぼんやりしていて、意識が朦朧としているのかもしれない。

 モニターの心拍数は落ち着いている。首元に触れる。エアコンの最低温度が効いたのか、熱も下がっていた。
 
 オメガは身をよじった。拘束具がきしむ。意識がありこれだけ大人しいなら、外してもよさそうだが、判断するにはまだ早いか。
 縛られている手指は細く白く、爪には水色のマニキュアが塗られていた。薬指の爪だけ折れていて、引っ掻かれたら傷になりそうだ。

 吐息が漏れる。男を誘っていると誤解されてもおかしくない、女のような色気のあるかすれた息遣いだった。
 太ももを擦り合わせる動きをしだす。腰が浮く。ヒートの症状だ。植村は持ち込んでおいた抑制剤を取り出した。一声かけてから、腕の血管に差し込む。

 一回の抑制剤で六時間は持つと言われている。ヒートオーバーは避けられたものの、ヒートの治まる気配は無い。とにかく体を冷やすしかない。

 敷き詰めておいたジェルの冷却材を取り替える。枕も交換で頭を持ち上げると、苦しそうにうめいた。

「……ぁ、つめたい、や、やめて…」

 殆ど息だけの、か細い声だった。成人した男とは思えない高い声だった。

「ヒートを静める為に、冷却しています。冷たいかもしれませんが…」
「あ、赤ちゃん…できなくなるから…」
「赤ちゃん?妊娠してるんですか?」

 オメガは首を横に振るのも辛そうに動かした。目を閉じた拍子に涙が流れ落ちる。
 植村はただの男であるから、オメガの言う体を冷やすのと赤ん坊を繋げるのが容易ではなかった。つまり冷えは妊娠しにくくなるから止めろと言っているらしい。
 今はそれどころではないのに、自分の命が危ういのに何を言い出すのか。

「命あってこそでしょうが。貴方は今、ヒートが抜けない、危険な状態です。今抑制剤を打ちましたから、効果が現れるまでは体を冷やす必要がある。耐えてください」

 冷却材を敷き終えて、ブランケットを腹回りにだけ掛ける。冷やしたくないという彼に対する少しの温情だった。
 
 
 電話が鳴る。植村は何の前触れもなく電話が突然鳴り出すのが昔から嫌いだった。医者であれば急患を知らせる電話は引っ切り無しにやって来る。慣れなければと思う前に辞めてしまった。

「植村です」
『そちらの様子は?』

 森医師からの電話だった。ちらりと背後を見やる。抑制剤が効いて、熱が下がり、今はこんこんと眠っていた。
 時刻は夕方五時。そろそろ番相手の六時間後のリミットがやって来るだろうと、待ち構えていた。

「彼は眠っています。落ち着いています。起きてからの診断となりますが、ヒートが治まってきているかと。抑制剤が効いています」
『抑制剤は効かなかったんだがな』
「おそらくは誘惑対象の他性がいないからでしょう。一番質のいい『プラス・ワン』使用してますけど、費用的に大丈夫でしょうか」
『致し方あるまい。君の判断に任せる』

 オメガは一旦落ち着いた。それよりもと、アルファの件を口にする。

「結果は?」
『これから死亡手続きに入る』
「…そうですか」
『ついてはそこにいるオメガにも事情を話して欲しい。アルファの伴侶なのだから、心臓を止めるには彼の同意が必要だ』

 苦な事を言う。下手をしたら今眠っているオメガは、アルファが事故に遭った事すら知らないかもしれない。でなけば身体が冷えるからなどと気にする訳がない。

「私は彼の名前も知りません」

 植村自身もまた、そこまでの重責を負いたくはかった。五年ぶりに雇われた臨時なのだしと、苦し紛れに伝えると、森医師が電話越しに、なら自分で伝えると言った。名を知りたいのなら後でカルテを送るとも言い出した。

『オメガの名はトウヤマアヤメだ』

 アヤメ。綾女と書くのか。名まで女のようだ。

『彼を起こしてくれ。私から説明する』

 植村はオメガ──綾女を見返した。よく眠っている。苦しみから解き放たれた安らかな顔をしているのに、また無慈悲を告げなければならないのか。植村は一度、電話を降ろしてから、再び耳に当てた。

「オメガの消耗は厳しい。これから旦那さんの脳死を告げて、容態を危うくさせるべきではありません」
『しかし母親がせっついて来てな。早く同意を取らせろとうるさいんだ』
「なんとかしてください」 
『伸ばせられても一晩だ』

 十分だった。今よりは明日の方が絶対にマシだ。

「何時まで猶予もらえますか」
『適当に理由をでっち上げて、母親には一度お帰りいただく。面会は午後だから、明日の十時までにオメガに話をしたい。それが限界だ』

 引き伸ばしたにしても、オメガにとっては辛い報告となる。植村は森医師に礼を言って電話を切った。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

双子攻略が難解すぎてもうやりたくない

はー
BL
※監禁、調教、ストーカーなどの表現があります。 22歳で死んでしまった俺はどうやら乙女ゲームの世界にストーカーとして転生したらしい。 脱ストーカーして少し遠くから傍観していたはずなのにこの双子は何で絡んでくるんだ!! ストーカーされてた双子×ストーカー辞めたストーカー(転生者)の話 ⭐︎登場人物⭐︎ 元ストーカーくん(転生者)佐藤翔  主人公 一宮桜  攻略対象1 東雲春馬  攻略対象2 早乙女夏樹  攻略対象3 如月雪成(双子兄)  攻略対象4 如月雪 (双子弟)  元ストーカーくんの兄   佐藤明

美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました

SEKISUI
BL
 ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた  見た目は勝ち組  中身は社畜  斜めな思考の持ち主  なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う  そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される    

宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている

飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話 アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。 無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。 ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。 朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。 連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。 ※6/20追記。 少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。 今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。 1話目はちょっと暗めですが………。 宜しかったらお付き合い下さいませ。 多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。 ストックが切れるまで、毎日更新予定です。

推しの完璧超人お兄様になっちゃった

紫 もくれん
BL
『君の心臓にたどりつけたら』というゲーム。体が弱くて一生の大半をベットの上で過ごした僕が命を賭けてやり込んだゲーム。 そのクラウス・フォン・シルヴェスターという推しの大好きな完璧超人兄貴に成り代わってしまった。 ずっと好きで好きでたまらなかった推し。その推しに好かれるためならなんだってできるよ。 そんなBLゲーム世界で生きる僕のお話。

愛されなかった俺の転生先は激重執着ヤンデレ兄達のもと

糖 溺病
BL
目が覚めると、そこは異世界。 前世で何度も夢に見た異世界生活、今度こそエンジョイしてみせる!ってあれ?なんか俺、転生早々監禁されてね!? 「俺は異世界でエンジョイライフを送るんだぁー!」 激重執着ヤンデレ兄達にトロトロのベタベタに溺愛されるファンタジー物語。 注※微エロ、エロエロ ・初めはそんなエロくないです。 ・初心者注意 ・ちょいちょい細かな訂正入ります。

悪役令息に憑依したけど、別に処刑されても構いません

ちあ
BL
元受験生の俺は、「愛と光の魔法」というBLゲームの悪役令息シアン・シュドレーに憑依(?)してしまう。彼は、主人公殺人未遂で処刑される運命。 俺はそんな運命に立ち向かうでもなく、なるようになる精神で死を待つことを決める。 舞台は、魔法学園。 悪役としての務めを放棄し静かに余生を過ごしたい俺だが、謎の隣国の特待生イブリン・ヴァレントに気に入られる。 なんだかんだでゲームのシナリオに巻き込まれる俺は何度もイブリンに救われ…? ※旧タイトル『愛と死ね』

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

親友だと思ってた完璧幼馴染に執着されて監禁される平凡男子俺

toki
BL
エリート執着美形×平凡リーマン(幼馴染) ※監禁、無理矢理の要素があります。また、軽度ですが性的描写があります。 pixivでも同タイトルで投稿しています。 https://www.pixiv.net/users/3179376 もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿ 感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_ Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109 素敵な表紙お借りしました! https://www.pixiv.net/artworks/98346398

処理中です...