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男の名前

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 ダンフォースはローズを引っ張って、屋敷の三階、屋根裏部屋に案内した。本来なら使用人の部屋だが、ダンフォースの為に明け渡されたようだ。
 ダンフォースは勝手知ったる様子で、部屋の窓を大きく開け放った。見て、とローズを窓際へ呼ぶ。
「僕ここの景色すきなんだ。きれいな空よりちょっと曇ってる方が、一番奥のヴィオ山がよく見えるんだ」
 少し後ろから見守るように眺める。いくつもの青々とした丘陵を超えた先、薄曇りの中に、その山がポツンと、小さくそびえていた。
「それはようございますね」
「ね、ローズはいつからここにいるの?僕ね、アルとはよく会ってるのに、なんにも言ってくれなかった」
「私は…多分、一ヶ月は前だと思いますが…あまり、覚えておりません」
 体調が回復してからも、ぼんやりと過ごしている毎日だった。思えば今日の日付すらも知らない。
「じゃあ僕が知らないの無理もない。最後に会ったの式典の後だったもん」
 ダンフォースは窓から離れて、ベットに腰を下ろした。隣を手でポンポン叩いた。
「座って」
「私は、遠慮しておきます」
「ご本読んで。座って」
 言いながら身体を伸ばして枕元に置かれていた本を引き寄せると、ローズに渡した。その表紙はローズにも見覚えがあった。
「政治論ですね」
「知ってるの?」
「昔、教わりました。難しいもの読んでおられますね」
 帝王学としては必須の教科書で、次期当主ならば読んでもおかしくないのだが、十歳の子供には早すぎる。ローズは受け取って軽く中身を捲った。所々、赤のインクで注釈が入っている。流麗な字だった。
 ダンフォースは腕を引いた。
「ねぇ座って」
 再度促され、隣に座る。ダンフォースはニコニコして身を寄せてきた。
「休暇の間に、読めって言われた。遊びに来てるのに勉強なんてしてらんない」
「随分、厳しい家庭教師の方ですね」
「元々、アルの家庭教師してたんだって。比べられて嫌になっちゃう」
 不満そうに眉を寄せる。表情がコロコロ変わって子供らしい。ダンフォースは手を伸ばして、ページを捲った。あるところで止めて、指を指した。
「これ、ここから読んで」
 求めに応じて読み上げる。本自体、家を出てから読むことも、ましてや手に取る機会もなかった。あの時、本が娯楽などと考えもしなかった。今は勿論、とても高価なものだと自覚している。丁寧に持ち直した。


「飽きたー!」
 と、突然大声を出したかと思えば、ローズの膝にうつ伏せに寝転んだ。額を押し付けてくるので、ローズは本を閉じて傍らに置き、頭を撫でた。
「お休みになりますか?」
「やだ」
 ダンフォースは顔を上げて、ニコリとした。
「アルのとこ行こ」
 身軽にベットから降りて、ダンフォースはローズを引っ張った。ローズは立ち上がって、そのまま部屋を出た。

 昼間の男がどうしているのか、ローズの預かり知らぬ所だった。ローズから訪ねるなど不敬であるし、夜には必ず向こうからやって来た。殆ど会話も無く共に寝るだけ。こうして訪ねるなど、考えもしなかった。ダンフォースがいるから、何もかもが新鮮だった。
 
 ダンフォースがずんずん進んで、一つの扉の前に立った。そこには従僕が立っていた。二人に胸に手を当て礼を取った。ローズも返礼したが、位の高いダンフォースはそのままで扉を指さした。
「アルいる?」
 おります、と従僕は頭を下げたまま答える。
「ですが…誰も入れるなと言われております」
「ローズが来たって伝えて」
 ローズはギョッとした。何故自分の名を使うのか。素直にダンフォースの方がいいのではないだろうか。内心ひやひやしながら見守っていると、従僕は扉の向こうへ姿を消した。
 待っている間にダンフォースは、ねぇ、と手を引いた。
「ローズの部屋はどこ?」
「離れです。お花の壁紙の」
「レースの部屋?」
 ローズは肯定した。
「ローズはアルのお嫁さんになるの?」
「なりませんよ。身分が違いますから」
 言ってから、少し暗い気持ちになる。身分違い故に一緒に逃げたあの人。自分を売ったあの人は、今頃どこで何をしているのだろう。
 そのうちに従僕が戻ってくる。扉を大きく開けた。
「どうぞ。旦那様はお休みでしたが、お会いになります」
「やった。行こローズ」
 手を引っ張られるまま、次の間へ。その次の間も通り抜けて、ようやく部屋に着いた。机の上に積み重なる書類。その上には重しの本が置いてあった。横一面に並ぶ窓は全て開け放たれていて、新鮮な風が流れていた。
 男はその机の近くに立っていた。一枚の書類に目を通していたが、ローズ達がやって来て、丸めてテーブルに置いた。
「随分手懐けたな」
 繋がった手を見ながら男は言った。ダンフォースはくすくす笑って、見せびらかすように手を振った。
「妬いた?」
「燃やして欲しい書類はある。帰るとき持たせるから、読んだら燃やせよ」
「やだよ。僕はお勉強で忙しいんだ」
 男は子供相手にも容赦なく舌打ちした。何か言おうとして、ローズを一瞥して、言いつぐんだように見えた。
「──他に用件は」
 男はローズに言った。連れられてきたのだから、あるわけない。ダンフォースに視線を送る。彼はまた手を揺らした。
「ローズね、アルが冷たいから寂しいんだって」
「…え?」
 思ってない。ローズは固まった。それから弁解しなければと慌てた。
「い、いえ。私は──」
「だってローズ、全然笑ってくれない」
 ダンフォースの言葉に、ローズは思わず自分の頬に手を当てた。
 自分は今、貴族の娘らしく微笑んでいる筈。大事な客人を持て成しているのだから、微笑んで対応するのは基本中の基本。口端は確かに。笑ってない等と、言われるとは全く思っていなかった。
 ダンフォースの手が離れる。彼の顔から笑みが全く消えていた。
「ローズ、人形みたい。怖い」
「…申し訳ありません」
「誰のせい?」
 どきりとした。胸を押さえる。子供は見透かすようにこちらを見てくる。目線を逸らせない。
「ダンフォース」
 男の低い声。ドン、と足で床を叩いた。そのお陰か、ローズは呪縛が解けたように顔を上げた。額に汗が伝う。
 見れば男は険しい顔をしていた。ダンフォースは怯えた表情を浮かべ、ニ三歩、後ずさると、そのまま走って出ていった。
 後を追おうとするのを男に止められる。
「あの子は人の機微に敏感でな。直接探るなと何度も言ってるんだが、無神経な所は私にそっくりだ」
「…粗相を、してしまいました」
「アイツが悪い。ほっとけ」
「旦那様、私には無理でした。お役目を解いてください」
「駄目だ」
 男は強く言った。従うしかない。ローズは俯いた。
「──ローズ」
 男の手が伸びる。顎を持ち上げられて、顔が上がる。男の碧の瞳に、自分の顔が映っていた。
「アルバートだ。二人きりの時は、そう呼べ」
 手が離れて抱きしめられる。彼はいつも温かい。その熱に抱かれていると、安心する。ローズは、初めて背中に手を回した。大きな背中だった。

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