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一章(アン視点)

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目覚めた時には、胸に重みがあった。体が動かない。動くのは眼球だけで視線を彷徨わせる。見たことのない天蓋の天井だった。そうか。新しい部屋に移ったのだった。明るいから朝は過ぎている。

「…………………」

 鳥の声が聞こえる。心地よいさえずりの筈が、今は耳障りだった。その中に、僅かな息遣いが聞こえる。彼が、アンの胸に腕を置いて寝入っていた。

 アーネストは静かな寝息だった。ほとんど息をしているのか分からないような小さな音は、身近にいるアンにしか届かなかった。先に起きたアンが身じろぎすると、その振動で彼は瞼を震わせた。


 彼が顔を上げる。銀の髪から覗く黒目がこちらを捉えると、脱力したように目を閉じ、アンの首元に顔をうずめた。

「…アーネスト様」
「無体をした。許せ」

 昨夜の性急な口づけ。息継ぎも出来ないほどで、それで意識を失ったのを思い出す。あんなに鮮烈な出来事を、アンは言われるまで何故かすっかり忘れていた。

「お前が、兄を忘れられないのなら無理強いはしない。兄を忘れろとは言わないが、今は俺が夫だ。少しくらいは俺にも、何でもいいから親愛を向けてほしい」
「え?」
「それが俺が出来る精一杯の誠意だ」
「お、お待ち下さい。私、全然そんなこと思ってません」

 前にも、こんなやり取りがあった。兄を慕っているのかと問われて直ぐに否定したのに。アーネストはそうは思っていなかったのだ。

「ウィレム様は確かに婚約者でした。でももう何でもありません」
「だったら何故拒む。俺は愛していると言った」
「だって…こんな顔…無理に私を愛する必要は」
「まだそんなことを言う。俺がいつ、お前の顔を醜いと言ったんだ」

 言われてはいなくとも、と反論しようとして押し黙る。彼は今まで一度も、異母妹や使用人が向けてきた蔑みや憐れみを見せてこなかった。そういう素振りすらも見せてこなかった。

 言われていなければ、そう思われてもいなかった。この事実を、やっとアンは自覚した。
 
「…言われておりません」
「俺を嫌いでもない。兄に未練があるわけでもない。醜い醜いと自分で言い続けて、俺の言葉を聞きもしない」
「すみません…」
「もしお前が、お前の言う醜い姿でないとしたなら、俺の『愛している』を信用するか?」
 
 愛している。もし、あんな病になどならなかったら、自分はこの人の言葉全てを、何の障害も無しに受け入れただろう。
 もし、病にならなければ、この人の夫となることも無かった。病を得て、屈辱の年月を経て、この人と巡り合った。
 こんなにも言葉を重ねてくれる方に、もし、と例え話をするなど、なんておこがましいことを言わせてしまったのだろう。彼は会ったときから、愛を示してくれていたのに。

「──本日は、お仕事はあるのでしょうか」

 アーネストの腕から逃れて、起き上がる。彼は不思議そうな顔をしながらも、自らも上体を起こす。

「いや、何もない」
「貴方様の妻となって半年経ちました。妻としての役目を果たせておりません」
「子などいらないと言っただろう」
「夫婦の営みの話です」

 無表情な顔が、驚きに見開かれる。アンは勇気を持って自分から彼の手を取り腹に当てた。

「私が間違っておりました。お許しください。私…馬鹿で…愛されてるなんて分からなくて」
「そう言うな。俺を信じてくれるのなら、それでいい」
「アーネスト様さえよければ、どうか」
 
 アンは自分の胸に彼の手を当てようとした。先に気づいたらしいアーネストは手を引っ込めた。

「駄目だ」
「……………」
「嫌というわけでは無い。アン、まだお前は体力が戻っていない。今、身体を労らなければ、二度と回復が望めなくなる。養生してほしい」
「…医者の方は、診察だけして何も教えてくれません」
「俺が口止めしていた。悪いことを教えたくなくて。初めは、もう長くないとまで言われていた。それが今は、人並みに生きられるようになるとまで言われている。やっとそこまで回復したんだ」

 そんなことを言われていたなんて全く知らなかった。生死の境を彷徨さまようまで、そんなに自分の体が衰えていた自覚も無かった。彼が嘘を言うわけがない。彼が命を助けてくれた事実に、アンは胸が張り裂けそうなほど、感極まっていた。

 アーネストは、ふと笑った。屈託のない純粋な笑みに、アンは心奪われた。

「愛している」

 彼の言葉を、素直に受け止める。身に沁みていくのを感じる。幸福感で満たされて、この瞬間を一生忘れない。そう決意した。





 アーネストが居なくなってから、やって来たソニアに頼んで鏡を持ってきてもらった。何年ぶりかに見る自分の顔は、病を患ってやはり元の顔とは随分違っていた。とても人前に見せられるような顔ではなかった。でも、彼の前なら見せられる。彼にだけは自分を見せられる。決して消極的な意味ではない。彼の揺るぎない愛情を受けて、アンも彼に同じだけの愛情を向けられる。その自信から来る感情だった。
 




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